28
◆
一瞬、何が起きたのか分からなかった。しかしそんな悠長な困惑を頭上に置き去りにするように、後頭部から背後の地面に全身を物凄い力で引き吊り倒された。真っ暗な空間の中にポツポツと灯っている何かの機器や家電のスイッチらしい光の粒が揺れる眼球に縦に伸びる光の尾を作らせた。
「うわぁ!!」
意味が分からない事が雪崩のように押し寄せる中でも分かった事は、今の自分が非常に危険な状況にあるという事と、自分を襲っている人間がどうやら2人だという事だ。
「何すんだよ!!」
言葉と同時に思い切り振りまわそうとした両腕は、その瞬間に手首と肘を床に押さえつけられてしまった。
「このォ!」
空いているのは両の足だけ。しかし、ソファの背もたれ越しに引っ張り出されたせいで、腰の根元からソファの背面に足を折り曲げられているような状態は、振り回して勢いを付けられるような余地を許していない。
「何だお前ら!離せ!」
「・・・!」
声を押し殺しているようだった。この町では声ですら身元を暴くのに十分だと言う事を、彼らはきっと理解している。
そしておそらく手慣れている。
「うおお!!」
苦肉の策で後ろにでんぐり返しをするように腹を折り曲げて背中を丸くした。ダメ押しでソファの背板を水泳の蹴伸びの要領で蹴ると、反動で身体を吹き飛ばす事に成功した。
暗闇の中、頭上で自分の頭を通り越した両膝が何か柔らかい壁のようなものを突き破る。きっと閉じていた障子だろう。佐藤さんには悪い事をした。しかし、今はなりふり構っていられない。
「――あっ!」
左腕の方から若い男性の声が聞こえた。どうやら相手を上手く手こずらせることができているらしかった。どうにかこのまま抜け出して。
「――ぬんっ!」
押さえつけられた右腕がギリリと捻じれていく痛みを感じている事に、後ろに回る身体がある程度勢いを失った段階で気付いた。
右腕を押さえつける人間の力が想像以上に強い。
「この!離せ!」
一瞬のうちに自由になった左腕を身体に引き寄せ、そのままギュッと拳を握り込んでから右の方に向かって思い切り殴りつける。きっと相手のどこかしらを殴りつけられるだろうと思っていた。
「――させん。」
先程聞こえた人の声よりも低いぐぐもった唸り気味の言葉が聞こえて、同時に、暗闇の中にも関わらず自分の無造作に振りかざした拳は手首の辺りを的確に掴まれて、再び上半身の自由が利かなくなってしまった。恐らく相当の腕っぷしがあるようで、左手首を掴む為に離された右肘の拘束が無くても尚、右手首を畳に押さえつけるもう片方の腕は、まるでコンクリートで固められたようにビクとも動かない。
「――足だ!足押さえろ!」
「――はい!」
振り払ってから手こずったのがまずかった。手の空いたもう1人が今度は下半身に覆い被さるように上から全身を落として来た。今度はとうとう足の自由が利かなくなってしまった。下半身という身体の体重の大半を占める部位が動かなくなったせいで、上半身にも全く思ったような力が入らない。
完全に抵抗の余地を奪われた。しかし、同時に抵抗できない人間にだから許される、疑問や文句を口にする余裕も生まれる。
「なんなんだアンタ達は!!離してくれ!!」
「――カガミを渡せ!!」
「鏡!?絶対に嫌だ!」
「――渡してくれ!」
「ダメだ!これは渡せない!」
「――クソ。そのまま固めて左手も頼む!」
「――はい!」
声と同時に下半身に覆い被さっていた身体が動き出し、自分の太腿を片膝立ちに敷くような体勢になってから、もう一人の男から預かるように左手を持って自分の胸元に押さえ付けられて動きを封じられる。一瞬は何とか払い除けられると思って力を入れようとした腕に全く力がかからない。肩から発した腕先までの力の伝達が、手首に辿り着くまでの間に完全に身体の外側に出てしまって肘から発散されているようなとてつもない無力感。素人ながら、これが合気道かという直感を以て、今の自分に最早抵抗の術が無くなってしまった事を認めざるを得なくなってしまった。
「――鏡は・・・!」
「だれかあああ!」
「――おい叫ぶな!」
「だれかあああああああ!!」
「――口はいい!とにかく鏡を!」
とうとう、押さえられた右手の先に握りしめていた鏡に別の力がかかるのを感じ、ひたすら手放さないように指に力を込めるしかできない。
「これは!これだけは!」
「――放すんだ!」
「いやだ!絶対に!」
「――この・・・!」
「離すもんか!これは、鈴ねぇの・・・鈴ねぇの大切な物なんだ!絶対に!離すもんかぁああ!!」
「――すまん。」
声を聞いた直後だった。鏡を握る手ごと、鏡の鏡面に向かって何かゴツゴツとした硬い物が振り落とされたのは。
右腕の先で、ガラス板にひびが入ったような耳をくすぐる音が微かに鳴ったのを聞き逃さなかった。
◆
とにかく今は自分の安全だった。恐らく怒りが込み上げていたのだろう。もはや興奮で記憶も曖昧なうちに、どうにか2人の襲撃者からの攻撃を掻い潜って、一心不乱で佐藤巡査の家を飛び出していた。どうやって抜け出せたかも正直よく思い出せないまま、行きの道をひたすら走った。
しかし強く押さえつけられていた両足は痺れ、身体の節々はいまだに軽く捻挫をした時のような痛みを放ち、とても普段の全力疾走には及ばないスピードでしか走れていない。もっとも、昨日からの空腹や疲労の蓄積でもあるのかもしれない。とにかく絶不調の身体を引きずって、真っ暗な道にポツポツと灯る街灯のマーカーを結ぶように帰り道を進んでいた。
「ハァ・・・ハァ・・・一旦休憩・・・。もう追ってきては・・・ないか・・・。」
思えば鏡にヒビが入ってからの奴らの動きは少し緩慢になっていた気がする。家を飛び出してからも、やはり後を走って追いかけてくる様子は無さそうだ。
「そうだ、鏡は・・・。」
ずっと右手に握りしめていた丸い鏡を見ると、やはりさっきの音の通り、綺麗に景色を写していた鏡面の真ん中に大きく一筋の亀裂が入って、それを境に写る景色や自分の顔が数mm断層のようなズレを作っていた。
「クソ・・・!大事な物なのに!どうするんだよこれ!それに、誰にも見せちゃいけない物なのに、割られるなんて・・・。どうなってるんだよ・・・。クソ・・・。」
もはや直す手段も分からない鏡を隠すようにそっとポケットにしまった。
「いったい何だったんだ・・・。佐藤さんは大丈夫なのかな・・・。」
もう何がなんだかわからない。ただしかし、今は自分の事で手一杯というのが正直な感覚だ。
その時、目の前の草むらがガサガサを音を立てたのを聞いた。
自分の3,4mほど先の道の脇。草むらから顔を出して来たのは、行きの時に一緒に歩いたキツネだった。
「なんだよ、お前。どこ行ってたんだよ。」
呼びかけの言葉が通じるとも思わなかったが、そのキツネは、恐らく憔悴しきっている自分の様子を見て、心配そうな顔で足元に歩み寄って来た。
「ごめんな。今はお前に構ってられる余裕ないんだ。」
足元まで来て自分を見上げるキツネの頭を軽く撫で、再び重い足を動かし続けた。
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