27

  ◆


 「佐藤さ・・・佐藤巡査、いらっしゃいますか~?じゃあ、田中巡査部長~?・・・おじさ~ん!・・・あれ、誰もいない事なんてあるんだ・・・。そうか・・・。」

 非番かな・・・。そもそも体調が悪いままで家で療養している可能性もあるのか。たしか、田中さんが前に住んでた家だったよな。

 この間、一緒に山を登った日にチラリと聞いた話を思い出してみる。たしか佐藤さんが田中さんが住んでいた家に入れ替わりで入居して、田中さんがまた別にこの町で家を借りたという話だった。きっと家賃補助だとか色々な事情があるんだろうか。

 要は、佐藤さんが借りている家は、この町の駐在所を建てた時点で確保されている警官用の独居寮のような立ち位置なのだ。その為、場所自体もほぼこの駐在所の近くで、駐在所の前を通り過ぎて少し行ったところにある分かれ道を駐在所の裏に回るように入ったところに、築年数の古めな下見壁の木造一軒家が現れる。古さに目を瞑れば中々丁寧に作られた和風建築の庭を囲う肩の高さくらいの石材積みの塀を潜り、細いアルミサッシのフレームに曇りガラスが嵌め込まれた引き戸の脇に取り付けられたインターホンを押した。外観の全てが古びて日焼けした中に取り付けられた真新しい鼠色のボタンが、玄関灯の光の粒をテカテカと反射させている。

 人気の無い夜の入口に、インターホンのわざとらしいチャイムは良く響いた。

 『・・・はい。佐藤です。』

 「あ、佐藤さん、青木翔太です。」

 『あぁ、どうもこんばんわ。』

 「あの、この間首を傷めた後の具合は如何かなと気になりまして伺いました。」

 『あぁ!そうなんですか。それはわざわざありがとうございます。』

 「いや、元気そうなら良かった。」

 『わざわざ来て頂いてありがとうございます。もし良ければ時間が空いてますから、お茶でも出したいんですが。』

 「あぁ、そんなわざわざ。自分は、」

 『居間まで上がって頂いて結構ですので、しばらく待っていて下さい。』

 「・・・じゃあ、お言葉に甘えて、待たせて貰います。」

 『はい、どうぞお上がりください。』 


 鍵の開いていた引き戸をガラガラと開けていきなり現れる2階行きの階段を避けるように、左に広がって続く客間に足を運んだ。いや、この広さの家なら客間というよりここが居間なのかもしれない。

 家の明かりは殆ど付いていなかった。誘いに甘えて上がらせて貰ったはいいけれど、この暗い部屋の中で証明のボタンを探す為に人の家を捜索する気にもなれない。辛うじて何かしらの光の反射が教えてくれた机の樹脂天板の艶とその脇に供えられたビニールレザーっぽい質感のソファに座らせてもらっていた。


 「佐藤さんはまだかな。・・・暗いと、眠くなるな・・・。」


 しばらくの暗闇と静寂の中で、次第に慣れた来た耳が捉えたのは、恐らくキッチンの蛇口からシンクに落ちる切れの悪い水道水の雫の音だった。ステンレス製のシンクを叩く水玉の重く少し鈍い音は、遠近感を鈍らせる暗闇の中、それも見知らぬ空間の中にあっては、もはや実体を得た気配となって近づいてくる足音の予感のようだ。

 「・・・なんか、脚チクチクする。」

 思えば昨日草むらの中を歩き回った時のままの恰好で来てしまった。どこかで植物のトゲでもくっ付いていたのだろうか。それに、何も考えずに家を出てきてしまったから、普通を人の家にお邪魔するような恰好じゃなかったかもしれない。少し申し訳ない。

 痛みの所在を探って右太腿を撫でていると、痛みの上に被さるように硬くて丸い感触があった。再びポケットに手を突っ込んで取り出すと、やはりその正体は、鈴ねぇの鏡だった。鏡を覗き込むと、そこには疲れた自分の顔が、馬鹿みたいにボケっとした表情で写り込んでいる。

 「・・・この鏡って、なんなんだろうなぁ・・・。」


 自分の平凡な疑問の言葉とそれに続く無意識的な予想の連なりは、突然、背後から両肩を掴んで引っ張られる強い力によって千切り取られた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る