20

  ◆


 2日目の午後は2人で山に出かけた。午前中は自分もなんだか疲労が蓄積していたようで、そのまま布団に沈んでいた。結局一昨日のような午後からの行動だけど、まだ時間は1時。これから本調子な太陽が、昼のアスファルトを少しずつ温めている最中だ。

 「小さい頃は毎日だって登りに行ってた気もするけど、今じゃもう連日の田舎道はヘトヘトだぁ。情けない。」

 「ほら頑張れ頑張れ。」

 「元気だね。」

 「もう少し行けばこの後は日陰になるから。」

 「まぁそっか。よし、もうひと踏ん張り。」

 「うんうん。」

 川のせせらぎを聞きながら2人で歩いている。ゆるやかに蛇行しながら山の森に吸い込まれていく小川を彼方に目で追い、偶に現れる交差点の根元で折れ曲がったオレンジ色の標識を数えてみたり、真っ青な空に黒い弓なりの線を引く電線を意識でなぞってみたりしている。サンダルのつま先が微かに感じるアスファルトのひび割れが助長する夏の熱気に、一瞬、幽体離脱したような浮遊感が数cmの空中遊泳を妄想させるのだろう。

 「鈴ねぇって、どんくらい前までのこの場所を覚えてるの?」

 「あ~!女の子に年齢聞くのって失礼なんじゃな~い?」

 「姉さん!姉さん!俺はそのノリに付き合わないけんのかいっ!?」

 「アハハハハ!今日の所は許してやろう。」

 「でも、神様なんだったらもう、2千年くらい前から知ってるのか。」

 「うーん。実は意外と難しい質問なんだよね。」

 「そうなの?」

 「遡れば、この土地そのものが存在した時から知っているとも言える。だから2千年なんてもんじゃない。もっとも~っと昔から。でも、まぁ今みたいな感じで里山の神様になったのは、私に『ただの土地』じゃなくて、『人の住む里山』としての私が考えられた時。だから、せいぜい1500年くらいかなぁ・・・。」

 「せんごひゃく・・・。」

 「・・・でも、結構忘れちゃった。」

 「そっか。まぁ、俺なんか一昨日の事も忘れるからな~!」

 「そんなに胸張って言う事じゃないよそれ。」

 「ワハハ!」

 「あはは。変なの。」

 「鈴ねぇ、手つなご。」

 「いいよ。はい。」

 「はい。」

 俺は今、神様とお手々をつないでぶんぶん腕を振りながら晴天の田舎道を闊歩している。愉快愉快。愉快な夏休みだ。

 「ー~♪ー~♪ ー~ー~♪」

 当のお相手も大変ご機嫌な様子。愉快な散歩道だ。


 「・・・あっ、登山道の入口あっち・・・」

 右から交わる交差点の向こうに見える、山道へと続く白いガードレールの心綺楼を空いた手で掴もうと伸ばした身体が、繋いでいた柔らかくて長い指に引き戻された。

 「え、どうするの?鈴ねぇ?」

 「今日はさ、私のおすすめの散歩道にしてみない?」


  ◆


 この山には1本の川が流れている。山の森の奥深くにある水源から湧き出る水が、森の木々の間を蛇行しながら少しずつ水量を増していき、その澄んだ水を頼りに深い緑と命が芽吹いたのだろう。岩を濡らして砂利を洗い、澄んだものにしか寄り付かない命が棲む。そういう、自分にとっては気付かぬうちに不慣れになっていた純粋さが、いっきに五感を撫でるから、抜かすような腰も忘れる程にただただ川沿いの砂利を踏み締めて、繋いだ手に引かれるまま歩みを進めている。

 「ね?いい所でしょ?」

 「うん、ずっと住んでたけど初めて通る道。」

 「まぁ、もう道ではないんだけどね。」

 「確かに、人の足跡っていうか、雰囲気が無い感じがする。」

 「昔はね、まだこの辺の人が皆草履で野山を踏んでたような時代は、みんなこの景色を楽しんでくれていた。」

 「そうか。ご先祖様たちはこんな景色を見てたってことか。」

 「そうだよ。翔ちゃん。だから私、翔ちゃんにこの景色見せたいなって思って。」

 「連れてきてくれてありがとう。」

 「ふふ、いいのよいいのよ。あ、そこ滑りやすいから気を付けてね。」

 「あぁ、ほんとだ。」

 その後ろ姿はどこか懐かしくもあった。自分が小さい頃、この山でかくれんぼをして一緒に遊んだ時の鈴ねぇと同じ、白いワンピースにサンダル姿のシルエットが、今にして見れば少し浮世離れした軽い足取りで、山道を弾むように登っている。

 小さい頃の自分は、これを当たり前だと思って疑わなかった。

 「・・・鈴ねぇちょっと待って。俺はそんなにすいすい登れないよ。」

 「あ、そっか。ごめんごめん。」

 「神様、どうか少々お待ちくださいな、っと。」

 「ほら、おいでおいで。」 

 自分の身長ほどもある大岩の上に既に登っていた女性が、屈んで膝に当てていた手を伸ばす。幾度となく見た事のあった幼き日々のイメージが、背景の木漏れ日によって映写された古いフィルムのようにフラッシュバックする。

 「ほら、手掴んで。」

 「・・・うんしょ。」

 「・・・よっ!っと。よし、行こう。」

 「うん。」

 「ここから少し林の間を抜けるよ。」

 「本当にケモノ道だ。」

 「私にとっては何も変わらない。人が踏んだか獣が踏んだかだけの違いしかない。」

 「神様からすればそれもそうだ。」

 「でも、この道にも歩き方がある。」

 「それは、足を滑らせないようにする、みたいな?」

 「違う。もっと、人間の言う標識みたいなものが、ちゃんとこの道にもある。」

 「それは、何ですか?」

 「無暗に踏み荒らさない事。心を素直にして、誰が踏み開いたかもわからないこの道を、『同じ山に住む仲間が通った道だ』って信頼して自分も同じように踏み馴らしていく。そうやって、皆で皆の為の道を伸ばして、強固にしていく。」

 「なるほど。」

 「自然や人の及ばない世界にも、人間がまだまだ理解できてない構造やルールはきちんと存在している。」

 「教えてくれてありがとうございます。」

 「そこの木の根に躓かないようにね。」

 「そこってどこ、うわっ!これかぁ・・・。」

 「ふふ。あはははは!もう、それに転ぶのは人間くらいね、きっと。」

 「・・・ははは。きっと俺はこのケモノ道にとっちゃ、ペーパードライバーもいいとこだな。」

 「もう少しで知ってる道に出してあげるから、がんばって。」

 「うん。頑張る。」


  ◆


 「よいしょっと。ほら!出た~!」

 「・・・ふぅ!やっと出れたぁ・・・。って、ここ登山道か。」

 「山頂の手前辺りね。」

 「この道のすぐ隣にあんな道があったのか・・・。」

 「まぁ、翔ちゃんも小さい頃は結構入ってた筈なんだけどね。」

 「もう殆ど忘れてたし、あの頃は無自覚だったから、鈴ねぇに甘えっきりだったんだよ。」

 「そ。だから、折角だし教えてあげたかったの。」

 「ありがとう。鈴ねぇ。」

 その時、山頂から仄かに吹き降りてきた涼しい風が、彼女の汚れ一つ付いていないスカートの翻りで視界を遮ってた。薄手の生地ごしに透ける日射しが、まるでこの森の木漏れ日そのもののような幻想的な出で立ちを見せつける。真っ直ぐと道に君臨する2本の長い脚が正にこの野山に根差した木そのもののようで、そうした諸々の風景や脚色された記憶の焼き付きに、彼女がこの山の神であるというこれ以上の説得は必要ないと思えた。

 「あ・・・!今、ひょっとして見えた!?」

 「あんまり気にしてなかった。」

 「・・・そっか。なら、まぁいいや。」

 「どうかした?」

 「なんでもない。ほら頂上行こ。」

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