18

  ◆


 相変わらず真っ暗な田舎の夜空は、折角設けられた浴室の窓にただただポッカリと虚空を灯らせるだけ。その黒を背景にすれば、湯舟から上がっている朧気な湯気すら、真っ白なレースのカーテンの揺らめきとして視界を楽しませる。

 肩までお湯に浸かってジッと息をひそめると、音の無くなった世界の中で、閉めた蛇口から水滴が桶に落ち弾ける音だけがスローテンポなリズムを刻み始める。まるで僧侶の叩く木魚のようだ。

 だから、浴室に向かって廊下を踏む足音にも、その足音の主にも、すぐに気付く事ができた。脱衣所の扉をノックした足音の持ち主は、こちらの返答も待たずに引き戸を開ける。今度は浴室の扉が鳴って、曇りガラスを軽く叩く拳の甲が声を飛ばしてきた。

 「翔ちゃん?」

 「な~に~?」

 「もう上がる?」

 「いや、もうちょっと入ってるけど、それが~?」

 「・・・。」

 「・・・鈴ねぇの好きなようにすれば?」

 「・・・嫌じゃないの?」

 「・・・怖いの!」

 「・・・なんで!?」

 「あ~。なんでって言われると・・・。難しいんだけど。」

 「恥ずかしいとかイヤだとかじゃなくて、怖いんだ?」

 「う~ん・・・。『一緒に風呂に入って恥ずかしいのは、俺より鈴ねぇの筈』なのに?『なんでその鈴ねぇが俺とわざわざ風呂に入りたがるのかがわからない。』から怖い。って言うのが、正確かも。」

 「あー。なるほどね・・・。」

 「わかって・・・、くれましたか。」

 「うん、わかった。だから・・・。」

 だから・・・。

 脱衣所からゴソゴソという音が浴室扉を突き抜けて、それを湯舟スレスレに浮かべていた耳が受け取って暫く経ってから、案の定、右耳が浴室扉が開く音をキャッチした。


 「・・・あ、あはは。入っちゃった・・・。」

 「やっぱり恥ずかしいんじゃん・・・。」

 「これからあんまり恥ずかしい恥ずかしいって言ったら、祟るから。」

 「すいませんでした・・・。気を付けます・・・。」

 「うん・・・。」


  ◆


 「・・・でも、懐かしいなぁ。」

 「なにが~?」

 「小さい頃は一緒に入ったなぁって。」

 「・・・まだ翔ちゃん小さかったからなぁ~。」

 「どっちかって言うと、鈴ねぇの方が入ろうとしてきたんだよ。昨日や今日みたいに・・・。」

 「・・・そんなこと、ない。」

 「いや、俺はもう一人で身体も頭も洗えるって言ったのに。」

 「・・・そうだったか。」

 「・・・まぁ、もう気にしてないけど。」

 「そっか。なら、良かった・・・。湯舟入って良い?」

 「あ、うん。・・・ってか狭くない?」

 「上手く入る。」

 「上手くって・・・。うわ、うわぁ・・・。」

 「なんか嫌そうじゃない?」

 「いや、嫌っていうか・・・」

 「正直に。」

 「・・・やわらけぇ。」

 「・・・ふふ・・・あはは!正直すぎだよ!この~!」

 「うわちょっと暴れるなってお湯こぼれるから。」

 「あ、そっか。ごめんなさい。」

 「・・・ちょっと落ち着こう。俺も、今結構頭が混乱してる。」

 「・・・ちょっと脚開いてくれると嬉しいかも。」

 「あ、すんません。」

 「うん。」


  ◆


相変わらず窓の外の虚空は浴室窓を阿保みたいに黒一色に染め上げていて、まるで掃除の適当だった黒板に付きっぱなしのチョークの拭き後みたいに、暴れたせいで若干ぬるくなった湯舟から上がる湯気の朧げな白線を寂し気に浮き立たせた。そんなものをぼぉっと見上げ続けている俺の事を、心の中で別の自分が「甲斐性なし!」と罵倒している。

 「ー~♪ー~♪ ー~ー~♪」

 丁度肩から真っ直ぐ腕を伸ばした時の指先くらいの距離で、身体を綺麗に丸めた体育座りで「ン」と「フ」の間くらいの音を楽しそうに鼻から奏でている裸の美女は、こちらの気苦労も知らなそうに首をゆっくりと左右に揺らしていた。その動きが作る湯舟の揺れが、自分の胸板の触覚を通じてそう教えてくれている。

 「はぁ・・・。」

 「・・・意気地なし。」

 「俺、今日はもうこれ以上視界を下げないから。」

 「そんな事言ったら、後で髪洗ってあげる時」

 「もう洗った。」

 「むぅ。別に見てもいいって言ってんじゃん。」

 「そういう子は大抵、こっちが意気揚々と見たり触ったりすると人一倍怒るんだよ。」

 「まるでその目で見てその手で触って来たような言い方だなぁ。」

 「あぁ、そりゃぁ・・・そりゃあ・・・。」

 「・・・。」

 「・・・。そんなこと、ないかも。」

 「・・・むすばれてるなぁ。」

 「え?なんか言った?」

 「なんでも。」

 「鈴ねぇ。なんかお風呂だと元だね。」

 「まぁ、身体があったまってるから。」

 「きっと血行が良くなって美人に拍車がかかってるんだろうなぁ。」

 「・・・翔ちゃん。ちょっと腕、上げて。」

 「・・・やだ。」

 「上げて。」

 「・・・はい。」


 湯舟から上げた腕に付いた水分が気化して、一度は火照った前腕が少しずつ熱を失っていく。同時に胸の前でザパンと大きく響いた水しぶきの音が何を意味するのかも、概ね想像がついてしまう。

 「もうちょっと腕伸ばして~。」

 「もうこれ以上は・・・」

 「わかった・・・。ほい。」


 掲げた両手の指の腹から手の平にかけ、もちりとした感触が1cmくらい沈み込んでからその奥で硬いゴムのような質量がこちらの押す力に抵抗してきた。

 「どこでしょう。」

 「・・・腰。」

 「なんででしょう?」

 「なんか・・・こう、腰のくびれをしてる。」

 「本当?」

 「・・・うん。」

 「じゃあ次の問題。ちょっと腕の力抜いて。」

 「うん。」

 そっと手頸を掴んで来た両手が、クレーンで吊るしたみたいに自分の腕を持ち上げて行って、何となく、予定調和的に、軽く曲げていた両の指の背に上からサラリとした肌の感触と、柔らかくて少し重みのある曲面が、自ら舐めさせているような甘い摩擦を以て撫で上げさせた。

 「・・・ん。」

 両の中指の一番突き出た節が引っかかりを軽く弾いた感覚を逃さなかった。

 浴場の宇宙遊泳を終えた二機の星型宇宙船は、計画通り2つの丘の頂上に不時着したという有線信号を脳味噌がキャッチした時には、自分の肩はすっかり湯気の天の川に熱を奪われてしまっていた。

 「翔ちゃん。」

 「なぁに。」

 「私を呼んで。」

 「なんて?」

 「名前を呼んで欲しいの。」

 「・・・鈴ねぇ。」

 「・・・。」

 「鈴ねぇ?」

 「『お姉ちゃん』って、呼んで。」

 「お姉ちゃん。」

 「・・・。」

 「おねーちゃん?」

 「・・・。」

 「ね~え~ちゃん。」

 「・・・。」

 「・・・お姉ちゃん?」

 「・・・。」

 「・・・あのさ、」

 「なに・・・?」

 「固くなってる。」

 「・・・なんかね、すっごい気持ちいいの・・・。」

 「・・・どういう事?」

 「わかんない・・・。でも、声がね、胸を伝ってね『お姉ちゃん』って、直接伝わる感じがして、凄い気持ちいい。」

 「・・・なんか素敵かも。」

 「こんなに気持ちいいんだ。お姉ちゃんって呼ばれるの・・・。」

 「・・・。鈴ねぇ、恍惚としてる所悪いけど、あんまり湯船から出てると身体冷えるよ。」

 「うん、寒い。」

 「鈴ねぇ、ほら。」

 胸から離した手を少し広げて胸を晒すと、すぐに流れ込んできた女体の柔らかさは、まるで濃厚なクリームを全身に浴びたかのように滑らかで重かった。すっかり上半身を密着した裸婦の肉体にお湯で温まった自分の体温が伝わっていく冷たさは、やっと反らしていた首を直した直後に網膜に飛び込んで来た、黒いまつ毛の奥の瞳にも重なった。

 「こんだけ近いと何にも見えないや。」

 「見えなくたって、隠せてない。」

 「うん。全部わかる。」

 「・・・恥ずかしいかも。」

 「今更無しだろ?」

 「身体温まるまでこのままね。もう少し深くしてほしい。」

 「わかった。僕も肩冷えちゃって。」

 「ありがとう。翔ちゃん。」

 小さな自分が姉の柔らかい腿を押した。

 「ねぇ。」

 「気にしないでよ。」

 「・・・まぁいいや。・・・あったかぁい。」

 「うん・・・。」

 はしゃいだせいでお湯が少しぬるくなってしまった。


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