16
◆
思えば、結局僕は都会の夏が嫌いだった。一番嫌だったのは、休みが無い事。それは別に学校とか、仕事とか、そういうものに休みがない事じゃなくて、もっと本質的に、自分にとっての休日があったとして、自分が何もしなくていい日の朝に目が覚めたとしても、自分がいるその世界の、自分以外の部分。例えば、薄いアパートの壁を隔ててほんの3m先の道路をスクーターで走り抜けて行ったおじさんとか、重い身体をベッドから起こして開けた冷蔵庫の中には何にもなくて、折角だから昼から酒を飲んでやろうと思って繰り出した近所のコンビニに入ると聞こえてくる店員さんの接客の声だとか、そのまた頭上のスピーカーから忙しなく流れるコマーシャルだとか。そういう、自分がどっぷり頭の先まで浸かっている”あの世界”の、僕という存在の身体から1mmでも体外に出た外界にあるあらゆる要素が、僕の休みたい気持ちに関係なく働き続けているんだ。僕は結局、そういう世界の中で”自分”という殻を分厚くして、「自分さえ良ければそれでいい。」と言い切って実行できるほど、我の強い人間では無かったと、上京して数年と経たずに痛感した。
それで、そんな嫌気が最高潮になるのが夏だった。ゴチャゴチャしてごみごみして、でもそんなのお構いなしに充満する蒸し暑さに仕方なしに窓を開けたり、それでも駄目になって仕方なくエアコン付けて、薄い壁の向こうでガタガタ言わす軸のブレた室外機の音に今度は我慢しなければいけなくて、服も薄着になって、冬には纏えた物理的な”殻”も、脱がないとやってられなくなる。それに、あんなに死ぬ程暑い癖して、結局誰も仕事も勉強もサボりやがらないんだ。しんどいだけのんびりやろうぜ、なんて、都会に上手く染まれた奴らには聞こえない言葉みたいだった。
やっぱり俺も父さんが言ってたみたいに向いてない人の1人なのかもしれない。昔は強情言って強がったけど、今となっては一番苦しめられたのは自分だ。
でも、1つくらい都会で良かったって思った事もある。それは、ここよか価値観がくだけてた事。皆、自分の好きな事を言えるようにして、言えなきゃいけないから、できる範囲の事を全部して自分を演じてた。それは、結構楽しかった。そんで、偶に気の合う奴ができて、そんで、そんな繋がりをいくつか辿っていくうちに、気になる子なんかが出てきたりして。親の目が無いから、皆好き勝手してるから、そんな事してじゃれ合ってるうちにお互い楽しくなって。それで・・・。
「楽しかった、なぁ・・・。」
「翔ちゃ~~ん!」
「ん?なぁに~?鈴ねぇ!」
「かえる!おっきいかえるいたよ~!」
「か、かえる~!?どんなの~!」
「捕まえた!見て見て!」
「えぇ・・・。どれどれ・・・。」
2mちょっとの高さがある小さな河川敷の土手に腰かけてぼんやりしている間に、きっと余所の人が見たら二度は振り返るような黒髪の美女が、いつも通りの明るめの黄色いワンピースを太腿の途中くらいの丈まで託し上げて小川の中でバシャバシャはしゃいでいる。微笑ましいんだか、流石の母さんでもはしたないって怒るんじゃないか。
「見て見て!」
「うわ、ホントにでっけ・・・。」
「えへへ。」
「よくそんなん鷲掴みできるね・・・。」
「え~?翔ちゃんだってできるでしょ~?」
「でも、俺はあんまり好き好んでしなかったよ・・・。」
「・・・そっか。じゃあいい!川へお帰り~!」
ゲロゲロ。
「あっ。」
「ふぅ。ナイスダイビンッ・・・!」
そこそこの大きさの水しぶきと鈍い水面への衝突音を出して蛙は川に帰って行った。
「あれって、どんな感じなんだろ。」
「いや~。夏って感じだねぇ。」
そう言いながら、鈴ねぇは川ですすいだびしょ濡れの手をその辺の乾いた雑草に擦りつけてハンカチ代わりにしていた。
「翔ちゃんも川入ろーよ。冷たくて気持ちぃよ。」
「いや、俺はいいよ。足濡れるし。」
「え~。そっかぁ・・・。気持ちいいのに。」
「それに鈴ねぇ、肝心のあなたの足はそんなにずぶ寝れでもいいんですか?」
「・・・あっ。」
「昔から変わってないというか、何と言うか。」
「どうしよ。ちょっとお洒落なサンダル履いて来ちゃった。」
「ほら、鈴ねぇ、足これで拭きな。」
「タオル持って来たの?」
「なんか、こうも予想が簡単に当たると、ちょっと複雑な気分だよ。」
「えへへ、流石は私の可愛い弟だね。」
「バカ・・・早く拭けよ・・・。」
「・・・え~ん?」
「・・・なに?」
「翔ちゃんが拭いて。」
「はぁ?」
「翔ちゃんが拭いて!」
「・・・分かったよ。ここ座って。」
「ヤッタ・・・!」
鈴ねぇがノシノシと河川敷を登ってくる。ワンピースをうんと託し上げているせいで大股に坂を踏む長い脚が太腿の半分以上まで露わになって、まだ日焼けのない肌が昼の白光をそのままの色で反射させるから、まるで目の前の小川の水面みたいにキラキラして見えた。
「そんな大股で・・・見えちゃうよ・・・。」
「ん?なにか言った?」
「いいや。じゃあ、足出して。」
「ふふ。・・・はい!」
「わっ。・・・もう。」
勢いよく突き出された足に座りながら体勢を崩してしまった。こちらは汚れても良いようなTシャツだけど、水しぶきがかかるのなんてお構いなしって感じだ。
胸の前に差し出した手の平に自分から脹脛を下ろしてくれたのは幾分拭き易くて助かる。
「・・・翔ちゃん。もうちょっと優しく拭いて。脚が革靴になっちゃった気分。」
「あっ、ごめん。つい・・・。」
「そんなに汚れてる!?」
「いや別に。ちょっとボーっとしてて。」
「大丈夫?お水飲む?」
「いや、拭いてからね。」
「うん。・・・あ、今は気持ちいい。」
「そう?良かった。」
渇いたタオルで目の前の真珠みたいな足に浮かんだ水滴を1つずつ吸い込ませていく。元から産毛の1本も生えてないみたいだ。・・・そういう、体質なのかな・・・。・・・あ、でもこの人、神様なのか・・・。じゃあ、こんなのに突っ込むのは野暮だな・・・。
「うーん!良い天気~!日焼けしちゃいそう。」
自分に足を拭かせている鈴ねぇは優雅に伸びをして上半身を乾いた芝生の上に転がしてしまった。きっと今は、ぼぅっと頭上を浮かんで滑っていくモクモクした白い雲に思いを馳せているんだろうか。
「雲さんモクモク~♪雲さんモクモク~♪」
本当にそうらしかった。歌いながら天に向かって真っすぐに伸ばした腕の先でパーの手をヒラヒラ回している。多分指の間からの木漏れ日で遊んでいるのだろう。
「もくもく~♪もくもく~♪」
「ちょっと鈴ねぇ、人に足拭いてもらってる時に足バタバタしないでよ。」
「え~ん!?いや~!!」
「ちょっと鈴ねぇ!いくらなんでも!・・・あ。」
相変わらず自分は、今までこの人に敵ったことなんて一度も無かったことを今更思い出した。まさか、脚の影、それが狙ったように視界に飛び込んで来てしまった。
「ん~?どうしたのかな~?」
「いや、その・・・見え、てる・・・ていうか。」
「え~?なにかな~?」
「いや・・・言えないよ、そんなの・・・。」
「言えないようなモノ、見ちゃったの?」
「いや、別に・・・。」
「じゃあ、翔ちゃんが見ちゃったっていうソレは、何色?」
とうとう自分の手から持ち上がった脚が、伸ばした足首の先の指で自分の頬を軽く突ついて来た。もう見える見えないなんて話にならないくらいに露わになった布地の色を、俺は、俺は、
「はむっ!!」
「え!?ちょっと待って!?」
「むーっ!」
「やだやだ!足食べないで!あ、アハハ!ちょっと待って!くすぐった!アハハハハ!イヤッ!指噛まないでー!」
最大限の仕返しの気持ちを込めて口から離れるその直前まで吸いついてやった。
「どうだ!これが都会で恥もプライドも捨てた悲しい男の成れの果てだ!!」
「うぅ・・・酷い・・・。ちょっとからかっただけなのに・・・。」
「鈴ねぇのちょっとも大概だよ。」
自分の唾でテカテカ光ってる姉の足を見つめていると、あまりにも強い罪悪感が押し寄せてくるのを感じて、なるべく見ないようにした。ただ、足先だけを見なかったとしても、目の前で散々バタついた姉の惨状も、十二分に自分の罪悪感を掻き立てて余りあった。
「鈴ねぇも、早くその白いの隠しなよ・・・まぁ、この田舎なら人が通る事も滅多にないけど・・・。」
「白・・・?・・・あぁ!・・・もう、翔ちゃんってそんなだったっけ?」
「別に。」
「都会に行って変わっちゃったのかな?」
「別に・・・。まぁ、俺も男だし・・・。」
「・・・そっか。」
「うん。」
「からかってごめんね。翔ちゃん。」
「別に気にしてないよ。寧ろ、こっちの方こそごめん。」
「・・・じゃあ、取り敢えずこの足、もう1回拭いてほしいな。」
「え?あぁ!勿論。ごめんごめん・・・。」
「くすぐったかった・・・。あっ!だめまだ余韻あるかも、むずむずする・・・!」
「ごめんだけど、それはちょっと我慢してて。」
「うぅ・・・。」
夏空の下で繰り広げたちっぽけな馬鹿騒ぎを見下ろしていた分厚い雲が、その湿った影でさっきまでカンカン照りにしていた日射しからひと時の物陰を2人に提供してくれている。
「こんな気分になったの久し振り。」
「まぁ、俺もしばらく帰ってなかったから。」
「翔ちゃんって、まだ川が怖い?」
「え?別にそんな事ない、と思う、けど。」
「・・・そっか。なら良かった。じゃあ、次は川釣り行かない?」
「いいけど、鈴ねぇって川釣りしたっけ。」
「できるわよ。神様だもん。」
「そっか。」
「うん。」
「ねぇ、神様ってどんな事できるの?」
「へ?」
「いやぁ、なんていうか、純粋な興味として、さ。」
「・・・神様に対して中々挑戦的な事を聞くね。」
「あっ、そうか、これって失礼な事か・・・。すいませんでした。」
「・・・ふふ、アハハ!もう足まで舐めてるのに。」
「たしかに・・・。」
「でもいいよ。教えられる事なら。」
サンダルを履き直し、麦わら帽子を直して立ち上がった神様が、優しい眼差しで手を差し伸べてくる。
「ほら、行こ。」
「・・・うん。」
山の向こうの雲が黒い。遠い空から重く響いて来た雷鳴を聞いて、雨と晴れの境目で、川沿いに流れる2つ影が風に追われた。
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