15
◆
夢を見た。
暗い森の中にいた。
頭上の高い所で雨粒が葉に当たる音がする。
葉を伝って大粒の水滴が、地面に落ちてきて、
足元で音が響いていた。
そのまま森の中を、奥へ奥へと歩いていく。
目の前に巨大な木が現れる。
木の幹にはしめ縄が巻かれていた。
気をジッと見つめていると、
木の幹を
白い蛇が這っていた。
背後で鈴の音がした気がしたんだった。
振り返ると、金色に美しく輝く毛並みの狐がいた。
狐にジッと、こちらを見られている。
見入ってしまっていたのだろう。
狐のただならぬ雰囲気に、いつの間にかに。
いきなり、頭上から水が落ちて来たんだ。
見上げたら、大きな大きな水滴が滴っていて、
それを、ジッと見つめていると、
ジッと見つめていると、
水滴が落ちて来た。
水滴が顔に覆いかぶさって、その水滴は顔から流れ落ちなくて、
ずっと顔に纏わりついた。
息が続かなくなって、
大量の泡を口から吐き出して、
視界が・・・暗く・・・。
◆
ハッと目が覚めた。全身に大量の汗をかいていた。
そういえば窓を開けたまま寝てしまっていたんだった。昨日はそのまま倒れ込むように寝てしまったから。
都会の夜と違い、この場所は明け方になるとすっかり空気が涼しくなる。寝始めには暑くて汗をかいたのに、それが明け方の涼気で冷えてしまったのだ。
「寒い。・・・喉乾いた。」
まだ皆が寝静まっている早朝の青い景色の中、階段を静かに降りて、少しずつ顔を出して来た太陽にうっすらと色付いていく廊下をトボトボと歩く。相変わらずここの朝は寂し気だと思った、そんな時だった。
視界の端、そこそこの広さの庭の奥の林に、一匹の狐の影を見た。
「あ、狐・・・。」
とても美しい狐だった。金色の体毛に覆われた、ほっそりとしながらも丸みのあるシルエットから緩やかに伸びる長い首が、上げた視線でこちらをジッと眺めていたのだ。見惚れるような美しさだという感想がなんの迷いもなく喉まで湧いて、しばらくは、その場に固まったようにしていた狐と目を合わせる時間が続いた。儚い青い景色の中に浮き出た金色の影には、なぜだか親しみに似た懐かしさを感じる。久しぶりに大自然の空気を浴びて、昨日の話も聞いて、こんな気分になっているのか。
「・・・おーい。きつねー。」
金色の影は、呼んだ瞬間に林の向こうに消えてしまった。
「あ、行っちゃった。」
やはり野生の獣には人に甘えてみたいなんて愛嬌は無いのだろう。
「何してるの?」
朝の静寂を破る自分の良く知る声が何の気配もなく背後から背中を刺した。その所為で一瞬血の気が引いたのは、この肌寒い廊下においては最早冬の日の如く素肌に仄白い無数の斑点を浮かび上がらせたことを、咄嗟に右手で撫でた左腕の二の腕が教えてくれた。
「・・・鈴ねぇ?」
「おはよう、翔ちゃん。」
「起きてたんだ。」
「うん。」
「・・・もう、気配が無いからビックリしちゃったよ。」
「・・・ふふ。ごめん。」
髪を下した鈴ねぇのシミ一つない頬に浮かんだ笑窪に落ちた、まだ醒めきらぬ夜の残滓としての真っ黒な影が、少しだけ、鈴ねぇの笑顔を、どこか得体の知れない存在のように浮かび上がらせた。
いや、そう感じているのは、きっと夜と朝の合間に横たわる闇の所為だけじゃない。この不安の正体を、彼女に伝えなければいけない。
「鈴ねぇ。あのさ。」
「なぁに。」
「実は昨日の夜、母さんたちから鈴ねぇの事、聞いたんだ。」
風の無い廊下に留まる空気が自分の周りだけを体温で温められてるみたいに、胸の辺りに熱が込み上げてくる。
「そっか。」
「鈴ねぇ、それで」
「私の事、怖い?」
「・・・。」
正直に伝えるべきだと思った。父さんたちから話を聞いて、鏡を受け取る間にはもう、そう決めていたから。
「・・・怖くない、って言ったら、嘘になるかもしれない。」
「・・・そっか。」
「でも、正直嬉しかった。」
「どうして?」
「・・・大好きな鈴ねぇの事を、ちゃんと知る事ができて。ずっとどこかで感じてた、鈴ねぇの事とか、不思議な所とか、疑念・・・とか、そういうものにちゃんと答えがあったのが分かって。それで、」
「それで?」
「それで、結局そういう事を全部知っても、僕にとっての鈴ねぇは何の幻でもなくて、ちゃんと僕の大好きな鈴ねぇのままだったから。」
「翔ちゃん。」
「なに?」
突然、胸の辺りにあった熱に実体ができた。自分の熱だと思っていた所に別の熱が重なったからだ。首に大きく回された腕に引き寄せられる。目前に迫る白い顔の下で、さらに強く押し付けられた一際熱い柔らかさに弾みのついた心の鼓動が全て伝わってしまう恥ずかしさが、また更に心臓の鼓動を加速させていく。普段の彼女らしからぬ半ば強引な抱擁に戸惑っているのは自分だけでは無いようで、自身からおでこと鼻の先を軽くくっ付けてまでして尚、ほんの3、4cm先の瞳はやり場が無いように泳いでいた。
「・・・ひょっとして、ここまでしといて恥ずかしがってる?」
「・・・翔ちゃんでも言わないでほしい事もある。」
「ごめんって。」
「翔ちゃん。」
「なに?」
「ずっと会えなくて、寂しかった。」
あまり、鈴ねぇがこういう風に、感情を直接伝えてくれるような事は無かった気がする。
「ごめん。・・・自分も、多分そうだったんだと思う。」
「・・・そうなの?」
「うん。向こうで電話越しに鈴ねぇの声聞いたから、帰りたいなって思えた気がするんだ。」
「・・・嬉しい。」
「僕も。」
少しずつ黄色い日が射してきた庭の影に紛れて、彼女の少し荒い呼吸が胸にかかる。しかしそれはお互い様なのかもしれない。
「ねぇ、目、閉じて。」
「・・・開けてちゃダメ?」
「閉じてっ!」
「わかりました・・・。」
―――。
遠くで鳥が鳴いたのが聞こえた。
「翔ちゃん。鏡、持ってる?」
「うん。持ってるよ。」
たぶん、鈴ねぇになら言っていいのだろう。この鏡は鈴ねぇと自分の繋がりを表すものだから。
ポケットの中には、昨日の夜、取り出す事の無いまま眠ってしまったせいで入ったままになった鏡があった。おそるおそる取り出して鈴ねぇと自分の間に掲げる。
「ずっとこの鏡を、翔ちゃんに持っていて欲しかった。」
「そうだったの?」
「でも、小さい翔ちゃんにいきなり色んな事を伝えちゃうと混乱すると思って。お父さん達には黙って貰っていたの。」
「うん。ありがとう。鈴ねぇ。」
「でも、もう、全部話せるね。」
「うん。」
「ねぇ、まだ帰るまでしばらくいるでしょう?」
「え?・・・あぁ・・・うん。そうかも・・・?」
「じゃあ、昨日みたいに一人でどっか行っちゃわないで。私と一緒に色んな所行ってみない?」
「え、うん!俺もそれがいい。」
「ふふ、やった。じゃあ、朝ご飯食べたら庭の裏の方で集合ね。」
「別に家の中でもいいんじゃない?」
「・・・だって、やっぱりちょっと恥ずかしいし。」
「鈴ねぇ・・・。なんか意外かも。」
「えぇ!?意外かな!?そうなのか・・・。」
「いや、別にそんなつもりじゃ!」
「・・・ふふ。じゃ、そう言う事で。待ってるから。」
そう言いながら、鈴ねぇの細い指が鏡を掲げる自分の手を包むように伸ばされて、朝に冷やされたひんやりとした指が指切りの代わりのように鏡ごと撫でてくる。
欠伸が出る。
「・・・。ふぁ~・・・。」
「まだ眠いの?」
「うん、なんだかよく眠れなくてさ。」
「そっか。」
「うん。それに、なんか変な夢見ちゃって。」
「・・・ごめんね、私のせいで、ちょっと疲れさせちゃったのかも。」
「うん。でも気にしないで。ちゃんと朝ご飯の時には起きて待ち合わせ場所行くからさ。」
「うん。ありがと。じゃあ、おやすみなさい、翔ちゃん。」
「おやすみ、鈴ねぇ。」
いったん台所の冷蔵庫まで寄ってお茶を飲んでから部屋に戻った。気付けばそこそこに明るくなっていた朝空が二度寝の罪悪感を煽ってくるけれど、今の眠気を前にすれば敵じゃなかった。
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