13
◆
「”あの子”はね、雨と一緒に来たの、翔太を連れてね。」
母さんが俯いていた顔を上げて、少し赤くなった目をこちらに向けて来た。
「おじいちゃんが家を出てからだいたい1時間くらいって時だったかね、皆シンとしてた時に、いきなり物凄い雷が鳴り出して、そんでいきなり、もう風呂をひっくり返したんじゃないかってくらいの大雨がまた降って来てね、皆でワーキャー言って、おばあちゃんに混じって念仏唱え始める人まで出てきて、皆パニックみたいになったのよ。」
「・・・それで?ごめん、話の要領が掴めていなくて。」
「その雨がね、パッ、って止んだの。そうしたら、それまでかかってた真っ黒い雲がサーッって消えてね。いきなり現れた月明かりが庭に射して、その光の下に、”あの子”と手を繋いで翔太が立ってたの、まるで何事もなかったみたいにね。」
「・・・ゴメン、俺、全然覚えてないや。ごめん。」
「いいんだ。それはもう俺たちは分かってるから、いいんだ。」
「・・・そうすると、多分だけど、その例の”あの子”っていうのが・・・鈴ねぇなんだよね?」
「鈴っていう名前を付けたのは、じいちゃんだった。」
「おじいちゃんが?」
「まぁ、じいちゃんが付けた、のか、”そうするもん”だったのかはわからねぇがな。」
「・・・俺と一緒に庭に立ってた鈴ねぇは、それで、その後どうしたの?」
「・・・そうだよな。お前は覚えてない、か。」
「うん、覚えてない。」
「お前が鈴ちゃんを家に入れたんだ。鈴ちゃんと手ぇ繋いでちょうどそこの縁側まで歩いてきて、お前が自分で『ただいま。』って言って来た後によ、鈴ちゃんにも『ほら、ただいまって言って。』っつってよ。それで鈴ちゃんも『ただいま』って言って、2人で、当たり前の事みたいに家に上がったんだ。」
◆
「マジで覚えてない。」
「きっと、なんか”そういうモン”なんだろう。多分、お前がいくら小さい頃の記憶と鈴ちゃんという存在を切り離そうとしても限界がある。そんな気がするっていうのは、もう俺らは想像がついてる。だから、お前はそんなに驚かなくても良い。」
「・・・ちょっと待って!?てことは、その時この家にいたっていう町の人はみんな鈴ねぇが人じゃないことは知ってたって事!?」
「まぁ、そうだなぁ。」
「それって、どうなの!?」
「どうも何もよ。そんな事気にしたって仕方ねぇだろ。そういうもんなんだからよ。」
「話を戻すけどさ、まとめると、俺が行方不明になって、皆で探して、夜になっても見つからなくて絶望してたら、じいちゃんが山の祠に行った。それで物凄い雨が降ってきて、それが止むのと、庭に俺と、知らない女の子が立ってた。それで、その子は俺と一緒に何食わぬ顔で家に上がった。そこまでは分かった。」
「物分かりが良くて助かる。流石は俺たちの息子だ。」
「こんな時に変に褒めないでくれ。それと、まだ多分聞いてない事もある。」
「あぁ、そうだな。」
「おじいちゃんが帰って来たのは、あなた達が家に上がってから少し経ってからだったわね。皆がまだ小さいあなたと、知らない女の子がまるで姉弟みたいに、楽しそうに遊んでるのを見て呆気に取られてた時に一人で帰って来たわ。相当急いでいたみたいで、もう全身びしょ濡れだった。・・・けど。」
「けど?」
「おじいちゃんがね、私たちの所まで来て、一緒にあなた達の姿を見たらね、あなたに『おかえり』って言う前に、女の子の方に声をかけたのよ。」
「なんて、声かけたの?」
一瞬、少しだけ、母の表情がにこりと笑みを取り戻したような気がした。
「忘れないわ。今でも昨日の事のように思い出せる。いつも通りの優しい明るい口調でね、言ったの。
『おかえり。疲れただろう。”鈴”、冷蔵庫のお茶でも飲みなさい。』
って。」
「それが、鈴ねぇの名付けの瞬間。って事か。」
「今思えば、鈴ちゃんはうちの冷蔵庫からお茶取ってくるのも全然迷ってなかったな。まるで生まれてからずーっとうちで暮らしてたみたいな足取りだった。」
「たしかにそうね。そういうのもあったのかしら、私たちもね、なんだか、『鈴』って名前を何回か口ずさんでるうちに、もう鈴ちゃんが家族でもいいかなって気持ちになっちゃったの。私たちがそんなんだし、家長のおじいちゃんもそんなんだしで、きっと近所の皆もそう言う事にするしかないって気持ちになっちゃったんじゃないかしらね。」
「そう、だったんだ・・・。」
◆
今自分の目の前で打ち明けられた話をどこまで信じていいのだろうか。正直、幾分かは嘘だと言われても、「なんだ嘘かよ!そうだと思った!」と言って聞き流せるくらいには、意味が分からない筈の事が、まるで雪崩のように自分の頭に、いや、自分がずっと信じて疑わなかった当たり前の日常の記憶すら浸食するように押し寄せてきている。
実際、巧妙な嘘ほど真実を交えて伝えられる。
何が間違いのない真実なのか。
ただ、今の自分を混乱させているのは、今聞いた事のうち、嘘であってほしい事ほど、なぜか自分の記憶や内的に比較可能な事柄、何よりこの肌が感じ取った実感として、それが本当の事だと説得されている事なんだ。実際、俺は鈴ねぇの確かな年齢が分からなかったし、記憶の中の鈴ねぇも、そうした事をあまりに曖昧にさせていた。今日、俺の運動靴を散々泥まみれにしてくれた登山道を、真っ白なワンピースと女物の華奢なサンダルで歩き回っていた鈴ねぇの記憶。まだ幼かった自分をそんな恰好で負ぶって帰ってくれた鈴ねぇの、夕日に落とされた、スラリとした影。本当みたいな嘘が本当だと否定されていく。妙な気分がほどけながら、しかしまた違った形に絡まっていくような。
「もう今日は充分すぎるくらい話した。」
恐らくそこそこの時間黙って考え込んでしまっていたのだろう自分に助け舟を出すように、腕を組んでいた父親が口を開いた。
「ごめん俺、考え込んじゃってたかも。」
「いいんだ。俺たちだって最初は悩んださ、得体の知れなさに不安にもなった。でも、まぁ、鈴ちゃんは結局、今までお前が感じていたように、『鈴お姉ちゃん』だよ。みんなそう信じてる。」
「えぇ。」
父の隣に座っている母も軽く頷いた。
「うん、わかった。話してくれてありがとう。自分なりに、慣れてこうと思う。」
「お前に渡したい物がある。」
一度は穏やかで明るい団欒に戻ってくれたかのような期待は甘い裏切りを受けた。一瞬は笑顔を取り戻したように見えた母さんも再び表情を引き締めて正座を直してしまった。同じく隣で柄にもなく背筋を伸ばした父親が、机の下、膝の辺りでゴソゴソとモノを探しているような素振りを見せた後、”ソレ”を机の上に差し出した。
「これだ。」
「これって、・・・鏡?」
「あぁ、鈴ちゃんの事を知ったお前は、これを持っているべきだと思ってな。」
手のひらに収まるくらい大きさの丸い鏡だった。金属のようにも、陶器製のようにも見えるうっすらと乳白色の色味を帯びた銀色の鏡が、ニス塗りの濃い茶色の卓上に静かに置かれ、反射した頭上の電球の丸い明かりを、丸い鏡面の内にうつしていた。
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