◆


 「佐藤さん!大丈夫ですか?」

 「・・・いや・・・すいません。なんだかここ、空気が重い感じがして・・・。」

 「取り敢えず座りましょう。」

 俯く彼の顔色がどんどん悪くなってきている。

 「・・・一体ここはなんなんですか?こんな場所がある事を初めて知った。それに、なんだか・・・。」

 「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ・・・。昔っからここにあった祠ですし、別にそんな変な噂も聞いた事ないですから・・・。」

 そう言っている最中にも、佐藤さんの呼吸がどんどん荒くなっていく。こうなってしまうと自分も焦りが勝ってくる。

 「顔色も悪くなってきてる・・・。どんな感じで体調が悪いんですか?」

 「・・・首が・・・なんだか、呼吸が・・・。」

 「どうしよう・・・。」

 呼吸に関しては自分は特別息苦しさは感じていない。何かの持病?でもそう言う事は本人がすぐにわかるんじゃないか?

 「いや・・・翔太さん・・・これはなんていうか・・・。この場所から離れたい・・・。」

 「わ、わかりました!すいません!そうしたら山頂デッキに・・・」


 「痛っ!」


 一際大きな声を上げた佐藤さんがその場で膝を落としたのを見た。

 「佐藤さん!?どうしました!?佐藤さん!?」

 「・・・首が!何かの虫に刺されたみたいだ・・・。」

 「肩を貸して下さい!取り敢えず落ち着いて休める山頂デッキまで戻りましょう!」

 首を抑えていない方の腕を自分の首から肩に回して、相手の体重を自分に受け止める。ふらつきながらも一緒に足を動かしてくれている佐藤さんにつられて転ばないように、ヒヤヒヤしながらケモノ道のような坂を下りて行った。


 広場を出ていく時にチラリと背後の祠に目をやった。そこには西日がかった日射しに照らされた、自分の良く知る祠が佇んでいるだけで、やはり自分には特別おかしなことがあるようには思えなかった。


  ◆


 山頂デッキまで降りてベンチに腰を下ろした佐藤さんの顔色は、さっき程悪くは見えなかった。逆に言えば祠での顔色が悪すぎたのかもしれないが、相変わらず首の刺し傷らしきものは痛んでいるようで、顔に貼り付けた苦悶の表情はそのままだった。


 「・・・佐藤さん、これ、氷の入った水筒です。これで患部を冷やしてみたりできませんか。」

 「あぁ・・・ありがとう・・・。」

 水筒を受け取った佐藤さんが、一度荒れた呼吸を止め、浅く深呼吸をしてから、恐る恐る首を抑えていた手を放した。

 「うん・・・?なんだこれ。」

 「やっぱり・・・刺し傷がありましたか・・・?」

 「いや、刺し傷っていうか・・・ホクロ・・・?」

 「え?」

 「佐藤さんってここに、2つ並びのホクロあるんですか?」

 「・・・分からないです。自分は今まで気づきませんでした。」

 「なんだろ・・・。」

 彼の首筋に縦に2つ連なったその黒点は、正直ホクロなんだとしたらかなりの大きさだった。両方とも同じくらいの大きさで、直径2ミリほどある真っ黒な点は、まるで何かの噛み傷のようで、血もなにも出ている痕跡はない。

 「取り敢えず、血も何も出てないです。そのホクロみたいなやつが気になるだけで、他には傷のようなものも見当たりませんでした。」

 「ありがとう・・・。じゃあ、いきなり首の筋でも伸ばしちゃったのかな・・・。いやぁ、最近少し運動不足気味だったのが祟ったのかもしれない。」

 そう言って少し表情を和らげたものの、いまだに佐藤さんの顔からは冷や汗が噴き出しているし、やはり一緒に登っていた時の彼と比べれば明らかに元気と呼ばる雰囲気も無い。

 「今のうちにさっさと下山しちゃいましょう。今ここを出れば日も沈む前に下に着けると思います。」

 「わかりました。ご迷惑おかけします。」

 「いや、慣れない場所に誘ってしまった僕が悪かったです。すいません。」

 「・・・よし!それじゃあ、降りましょう。」


  ◆


 普通のペースで歩けばきっと1時間やそこらで降りる事もできただろう。しかし、結局登山口に到着しようという時にはだいぶ日も紅くなる時間になってしまっていた。何しろ、整備されているとはいうものの、れっきとした山道に他ならない。中には階段に見せかけて偶々木の根がそういう形に露出しているだけという場所や、平たい安全な足場に見えて、その実日頃の雨風でかなり滑らかになっている岩なんかがそこそこにある訳で、やはり体調不良で若干ふらついている人がいるとなると相応に気を遣わされた。救いがあるとすれば、そのふらつく当人にそれなりの登山の心得があった事だろうか。もしこれが家族や自分自身だったら、そもそもこんなにすんなりと下山する事も難しかったのかもしれないと、降りながら素人頭なりに思い知らされたのだ。

 思い知らされた、というより、気付かされたことはそれだけでは無かった。この帰路は、登りの途で自分に山の危険を説いてくれた佐藤さんの言葉を一語一句納得させられるのにも十分な時間だった。普段なら気にしていなかったような山道の細かな諸々の構造、気にしていなかったというよりも、気にしなければいけなかった筈の事というのが、程よく足取りのおぼつかない状況に晒されたことで意識の中にぐんぐんと姿を現していった。

 そうした仄かな危機感と自戒のサイクルは、次第に、半ば分かっていた事のように、1つの事柄へと否応なく辿り着いてしまう事が、よくよくわかった。一度は示し合わせて口をつぐんでしまった疑問だ。


 鈴ねぇの事。それがなぜ自分の中で今更こんなに大きな疑問の種になってしまったのかと、考えてばかりになってしまった。思えば、鈴ねぇはこの道をあんなずっかけのサンダルでずっとかくれんぼをしていたらしい。佐藤さんは曖昧な記憶のせいだと言っていたけれど、たしかに幼い記憶の中で鈴ねぇに負ぶわれていた自分が見ていた、鈴ねぇのうなじや、髪の香りや、景色の高さは・・・。


 『翔ちゃん、みいつけた。』


 林の奥から何度も呼ばれたような気がする。それは自分のよく知っている声だけど、どこか自分では絶対に理解できないような得体の知れなさ、そういう不安や過去への疑問が作り出した幻聴なんだろうという事は、分かった。僕にとっては、この山にはきっと僕自身の幼さや、純粋だった頃の記憶の残滓すら纏ってしまっているのかもしれない。

 薄暗くなる森が増幅させる不安は、昨日の夜に見た真っ暗な闇と同じく、自分にどろりと忍び寄ってくるようだった。

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