7
◆
一瞬何が起こったのか理解できなかった。ついさっきまで一緒に和気あいあいと会話をしていた人に、いきなり身体を引っ張られたことに動揺している。尻もちを着いて背中から逆さに見上げるような体勢で視界に映った景色は、今まで何度も見た事のある筈の登山道。それもここは、丁度中腹辺りのY字路で、やはり良く印象に残っている場所の筈なのに、全く知らない場所のように感じられた。
「いたた・・・。どうしたんですか・・・佐藤さん・・・。」
「どうしたはこっちのセリフだよ青木さん!いきなり道のない崖の方に歩いて行って!落ちたら大怪我じゃ済まないかもしれないんですよ!」
「えぇ・・・?そんな大袈裟な・・・。」
取り敢えず佐藤さんの善意から来る行動なのが分かったから特段の怒りとか、そういう気持ちは湧かなかった。シャツに泥汚れが多少付いたのもそこまで気にしなくていいレベルだろう。それより、自分が何の気なしの興味本位で足を踏み入れようとした場所、それも小さい頃から何度も鈴ねぇと入った事がある場所が、そんなに危ない場所になっているのかの方が、よっぽど気になる。
「えぇ、ここってそんなに危ない場所だったかなぁ。」
起き上がって、今度は佐藤さんを心配させないように少しわざとらしく、恐る恐るY字路から外れた林の方を覗き見た。
確かに言われてみれば険しい崖のようにも見えるけれど、やはり自分が小さい頃怪我もせずに下っていた場所。日頃の雨なんかで多少細かな凹凸には違いが出ているかもしれないけれど、今まで通りの、どこか懐かしさを覚える斜面の景色だった。
「まぁ、言われてみれば、もう当時のような野生児でも無いし、足を踏み外したら危険かも知れないですね。」
「・・・いやぁ、青木さん、子供とかそういうのは関係ないですよ・・・。やっぱりこの崖はそんなに気軽に入って良い地形じゃないですって・・・。」
隣に並んで一緒に斜面を覗いた佐藤さんは相変わらず神妙そうな顔をしていた。正直、今ここで登山が趣味のお巡りさんに反論する事に個人的なメリットは感じない。それに、自分の考えとは違うにしたって、一応は身を案じて咄嗟の行動を取ってくれた人の意見に耳を貸さないなんて事は、何より自分にはできない失礼だ。
「不用意な事をしてしまってすいません。気を付けます。」
「あ、いえいえ、別に自分もそこまで怒っていませんから。ただ、やっぱりちょっとビックリしちゃいました。」
「あはは・・・すいません。」
「よし、また山頂を目指しましょう。」
「はい。」
「・・・ところで青木さん、さっきあなた『小さい頃よく隠れてた』って仰ってましたよね?」
「あ、はい。小さい頃に鈴ねぇとかくれんぼをしていて、あの辺りによく隠れていたんですよ。」
「・・・え?鈴さんは、それを見つけてくれてたんですか。」
「はい!僕、鈴ねぇから隠れ通せた事無かったんですよ。」
「・・・え。鈴さんは・・・。・・・。」
「ん?どうかしましたか?」
「いや!なんでもないです!さ、行きましょう。」
「はい。」
◆
「実は僕、山岳救助チームの講習を受けているんです。」
佐藤さんが不意に教えてくれた。
「へぇ~!じゃあここに転属したのもそういう事情ですか?」
「まぁ、ゴリゴリの山岳地帯勤務はもっとベテランの人がいるので、自分は緊急時呼ばれたら手伝いに行けるような、現状はそんな感じの人事なんじゃないかとは思ってます。」
「あぁ、なるほど。だからさっきの肩を引っ張るような咄嗟の行動も早かったんですね。」
「まぁ、ああいう時はなりふり構わず本気でやれ!っていうのは自分の恩師や先輩たちから散々言われた事なので・・・。」
「かっこいいなぁ。」
「・・・ありがとうございます。」
「じゃあ、やっぱりさっきみたいな所はこれからもあんまり入んないように気を付けます。山岳救助のプロが言うんだから、きっと今まで無事だった方が奇跡みたいなものだったんでしょう。」
「はい、実際自分はそう思います。ああいう危ない斜面の雑木林に足を踏み入れたら、よく知っている筈の場所でも簡単に遭難するし、助けるのも大変になることがあるんです。実際、行楽シーズンに日帰り登山に訪れた人がうっかり既定の登山ルートから林の中に転げ落ちてしまった時なんかは、結局登山道からほんの数mの距離で見つかったりする事もあるんです。」
「へぇ~。」
「それくらい自然林は方向感覚を見失いやすい。翔太さんも気を付けるように。」
「はい、わかりました。」
まさか何気なく散歩に誘った人からこんなに色んな話が聞けるなんて思わなかった。それと同時に、自分が今までどれ程無謀な事を続けていたのかも、思い返してみて自分で勝手に反省が脳内をグルグルと飛び回っている。
しかし、そうすると、今まで全く気になっていなかった事が、ぷかぷかと水面に浮き出るように頭の中で疑問に変わっていった。
「じゃあ、鈴ねぇも大丈夫だったのかなぁ。」
「それ、聞こうかどうか悩んでました。」
きっと今まで聞きたくてうずうずしていたのだろう。自分の独り言のようなささやきに間髪入れず返答が帰って来た。
「やっぱり思いますよね。」
「・・・というか。」
「・・・というか?」
「実は自分、今の翔太さんの話を聞いて、・・・いや、実はこの村に転属してきてしばらくしてからずっとだったかも知れない。色々気になってる事があったんです。あなたのお姉さんである、青木鈴さんについて。」
「・・・というと?」
「自分、今から変な事を言うかもしれないんですが、いいですか?」
「はい。自分は、多分大丈夫です。」
「分かりました。じゃあ・・・。」
「はい。」
「鈴さんって、なんだか、いつ頃の話を聞いても、若い、今くらいの女性じゃありませんか?」
「え?」
一瞬何を言っているのか分からなかった。だって、今の鈴ねぇは自分から見てだいたい2~4歳くらいは年上の見た目をしていて、つまり、例えば自分がよく鈴ねぇとかくれんぼをして遊んでいた頃なら、自分が10歳になるかならないかくらいの筈だから、そう考えると鈴ねぇの年齢は・・・。
「・・・あれぇ?鈴ねぇって、何歳なんだぁ?」
「・・・ちなみに今、どんな感じで思い出してましたか?」
「いや、さっき言ってたかくれんぼをしていた思い出を、アレしてたんですけど・・・あれぇ?鈴ねぇって俺おんぶして帰ってたよなぁ?」
「・・・ちなみに、この登山道をって、事、言ってますよね?それ?」
「・・・あ。できんのか、それ。」
一瞬、周りで鳴きまくっていたセミの声やら鳥の声が全部止まって、深緑の森が静かにこちらを見ているような悪寒が身体を走った。
「・・・すいません。この話、ここまでにしても大丈夫ですよ?」
「・・・ありがとうございます。・・・自分も、ちょっと、色々思い出してみます。なにせ、小さい頃の記憶だから・・・。」
「はは!まぁそうですよ!小さい頃の思い出ですから、曖昧な事もあります。自分もそうですから。」
「はい・・・。」
「いやぁ!変な事聞いてすいませんでした!忘れて下さい!わはは!」
「はい。あはは。あ、もうすぐ山頂ですね。」
気付いた時には、豪雨の如きセミの大合唱が頭から肩に降り注ぐ中、木の葉の切れ間から差し込んだ黄色い光の水溜まりにすら、まるでこちらを覗き込んでいるような猜疑心を注がれているんじゃないか。そんな予感に囲まれているような気分だった。
何よりこの事を意識から遠ざけたがっているのは、他でもない自分自身なんじゃないか。
口から出掛かった言葉を飲み込んでからは、また他愛のない散歩道に戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます