◆


 食後の微睡みは満腹感に圧迫された意識から来るのか、それとも無意識のうちに溜まっていた長旅の諸々の疲れなのか。ただ、もうしばらく動きたくないという感覚にちょうどよく用意された、この真っ暗い夜の広がりに、呆けてみるのも悪くないと思えた。日頃の、嫌でも電飾の光がチラつく都会の夜とは全くの別モノだ。最近の熱すぎる夏のせいで、庭のあちこちから昼に貯め込んだ分も含めた色々な生き物たちの鳴き声がおし寄せててくるけれど、特別意識を向けずになんとなく、この庭の向こうにそびえる山の影、ゾッとすほどの暗闇に思いを馳せていれば、そんな事は何も気にならなくなってしまえた。

 左隣にする気配の正体はクロだろう。今は満腹で振り返る気にもならないけれど、多分自分が引っ張って来た扇風機の風が直接当たらないように扇風機との間に自分を隔てているのだ。猫の寝る場所はこの家で一番快適な場所と相場が決まっている。やはりこの広々とした縁側は我が家の魅力だ。

 ふと、右の肩に風が来た。扇風機の風じゃなくて、もっと一瞬のふわりと肩を押す風。

 鈴ねぇだ。


 「どうしたの?」

 返事も無く、鈴ねぇは肩を並べて隣に座って来る。


 「こっちの夜は暗いね。」

 「うん。」

 「あと涼しい。」

 「うん。」

 寄せて来た肩がくっ付いた。

 「・・・。」

 風がざわめく草の音を起こした後に、余波がぶつかった風鈴が軽く鳴る。ガラス玉の軽い高音を遮るような物はこの木の家には、今の自分達の間には無く、一度鳴ったそれらは自分たちの身体を突き抜けて木の柱や梁や踏み石に解けて消えていった。

 「鈴ねぇがくっ付くから暑いかも・・・。」

 触れた肩の境界には逃げ場の無い二人の体温が蓄積される。

 「・・・。」

 自分の言葉に反抗したいのか、今度は顔まで肩に寄り掛かって来た。

 思えば、この田舎での自分と鈴ねぇは、本当に近しい距離で生活を共にしていた。もっと小さい頃、まだ生い茂った雑草に顔まで隠されてしまうような背丈だった頃は、近所に都合のいい同級生なんていなかったから、自分はどこに行くにしても大抵、付き合いは鈴ねぇだった。鈴ねぇはあの頃から変わらず、夏は白や落ち着いた黄色のワンピースを着ていて、よく山に行って二人で遊んでいた。疲れた時は負ぶって家まで帰ってくれた。気怠い夏の午後は昼食の満腹感に誘われて二人で畳の昼寝をしたりした。その時の腕枕の感触が、正に今、肩に当たっている柔らかさと何の違いも無かったのを思い出してしまった。

 ここに帰って来てからは思い出してばっかりだ。


 やっぱりちょっと鈴ねぇが暑い。


  ◆


 立ち上がった白いTシャツの後ろ姿が、敢えて強めにしていた扇風機の風を「弱」と「中」の間に捻り、とぼとぼと部屋に戻って行く。一瞥もくれずにひんやりとした床板に顎と腹を押し当てている黒い毛むくじゃらは、相変わらず葡萄の目をしばしばさせている。

 対照的に熱を求めていたようだった。背中を追って、吊られたように立ち上がると、数歩の距離をトコトコと追いかけていく。

 残った夜の闇にぼんやり溶け込む黒い毛むくじゃらのシルエットは、昼が忘れていった夏の心綺楼。

 不意に蛙の鳴き声が止んだのは、

 きっと狐が出たからだ。

 草が揺れている。


  ◆


 風呂に入る為に着替えを自分の部屋に取りに行って、階段を降りようとした時だった。鈴ねぇが、階段の下からチラリとこちらを覗いて見上げている事に気付いた。

 別に気にしてはいない。昔から無口な代わりに家の中ではよく、まるで自分が今から楽しい事でも始めるんじゃないかとでも言いたげな顔で背後をトコトコと着いてくる人だった。それも思い出した。

 思えば小さい頃は、思春期やら反抗期やらの始まりも相まって、そういう風にいちいち自分の後を着いてくる鈴ねぇが少しうざったくも感じた事もあったけど、如何せん自分の身の回りで一番近しい遊び相手だったし、小さい頃から普遍的に抱いていた好意とか、そういう、ちょっと口に出すのも恥ずかしいような色んな事も含めて、嫌いになれない人だった。そんな事も思い出す。

 今は数歩後ろで軽くスキップしている。何がそんなに楽しいのかは正直わからないけど、まぁ昔っからこんな感じだ。

 「風呂の前にちょっとトイレに・・・」

 風呂場の脱衣所に並んだトイレに入る時、一瞬廊下の背後を確認してみた。やはり、なんだかニコニコと笑顔を貼り付けた鈴ねぇが後ろで指を結んで、なんだかモジモジと立っていた。


 トイレの中。

 ・・・なんか、着いてきてる?

 なんか用事でもあるのかな。

 いやあれは昔っからか?

 ・・・どっか行ったかな。

 流す。


 トイレを済ませて扉を開ける時、恐る恐る隙間から外の廊下を覗いて見た。

 鈴ねぇは、扉から3mくらいの所で壁に寄りかかって待っていた。

 飼い主のトイレを扉の前で待ってる猫みたいだ・・・。うちのクロはあんまりやらないけど・・・。

 取り敢えず、今は風呂に入らないと。


  ◆


 脱衣所の引き戸を開けて入り、引き戸を閉じて、洗濯機の上に着替えを置く。

 「バスタオル、バスタオルは~。」


 鈴ねぇが、引き戸を開けて入って来た。


  ◆


 「鈴ねぇ!?どうしたの!?」

 こちらの呼びかけに振り返った鈴ねぇは、なぜか少し驚いたというような顔をしてキョトンと見つめ返してくる。

 謎の沈黙が脱衣所を数瞬包む。

 「え、今から俺、風呂入ろうと思うんだけど・・・?」

 「・・・。うん!」

 「いや、そんなニコニコで『うん!』じゃなくてさ。」

 「・・・うん?」

 「いや、首傾げないでよ。こっちだよそれをしたいのは。」

 「フ~ン・・・。」

 「なに、不満そうなの・・・。」

 一瞬俯いた鈴ねぇは、空かさず脱衣所の棚扉に手を伸ばし、手慣れた手つきでバスタオルを取り出した。2枚。

 「いやいやいやいや!流石に!」

 「・・・え~!」

 「『え~!』って何!普通、どっちかって言うと逆じゃない!?」

 「昔は一緒に・・・。」

 「中学上がる頃にはもう別々だったじゃん!」

 「翔ちゃんが逃げるから。」

 「・・・逃げるって言われるのは、なんか不服だな・・・。とにかく!早く脱衣所から出てって!早めに上がるから。」

 「・・・うん。」

 やっと、あの鈴ねぇでも理解してくれたようだ。でも、このまま当人が自主的に出て行くのを待っていてもなんだか出て行ってくれなさそうな気もする。ここは率先してそうした方が良い流れを作って行こう。

 「ほら!僕もう服脱ぐからさっさと出る出る!」

 言いながら上半身の汗で湿ったシャツを脱ぎ捨て、ズボンの紐を解いて指を腰ゴムにかけるところまでやった。流石にここまで捲し立てたら鈴ねぇも恥ずかしくなって出ていくんじゃないか?


 振り返る。そこにはこちらをジッと見つめる鈴ねぇがいた。


 「・・・え?」

 「・・・うん!」

 いきなり膝の辺りで掴んだワンピースを託し上げようとし出した。


  ◆


 「出てけー!」

 「ゃ~ん!」

 抱きあげて脱衣所の前の廊下に放り出して、速やかに脱衣所の鍵を閉める。外から未だに寂しがる犬みたいな鳴き声が聞こえているけれど、仕方ない。

 今日はなんだかんだ疲れているのだ。風呂くらい一人でのんびり浸からさせてくれ。

 それにしたってなんで鈴ねぇはあんなに自分にぴったりくっ付いてくるのだろうか。昔からと言えば昔からだけど、今日は流石にしつこい気がする。

 ・・・まぁ、自分も数年ぶりに帰って来たし。電話でも待ってるって言ってたし。

 ・・・。

 服を脱いで浴室に入った。


  ◆


 一通り身体も洗って、母が沸かしておいてくれた湯舟に飛び込む。昭和な作りのくすんだステンレス浴槽が、澄んだ温かみのある青の陶磁器製タイルが敷き詰められた浴室の壁にインダストリアルなコントラストを与えている。普段住んでいるアパートのカビで黒ずんだ乳白色のユニットバスとは一味違う。

 自分はこの浴室が、実はお気に入りだったりもする。


 空気に当たって冷めていく水面の水がほんの数ミリの隙間を開けてモクモクと真っ白な湯煙に変身していく。そのランダムな揺らめきをボゥっと眺めるのが、自分にとっての癒しの時間なのだ。


 この家の風呂は外からの音が結構聞こえてくる。特に水回りでまとまっている台所の音なんかは、会話の残滓も壁越しに抜けて、浴室の湿った空気を震わせてくるのだ。


 ―――に鈴ちゃん。―――なの。―――アハハハ!


 母の笑い声が聞こえる。恐らく話し相手はトボトボと台所に歩いて行ったんだろう鈴ねぇだ。誰がどんな調子で話しているかはわかるけど、何の話をしているのかまでは正確には聞こえない。そういう盗み聞きだ。


 ―――ちゃんも、――んでるわよ。そ―――。


 母が代わりに慰めてくれているようで少し安心する。


 ―――。


 ん?なんか足音が近づいて来た。


 ガラガラ。

 

 え?


 コンコン。


 「はい。なんですか?」

 「・・・翔ちゃん。」

 鈴ねぇだ。

 「なぁに?」

 「さっきはごめんね。」

 「はは。いいよ別に。」

 「・・・それだけ。」

 ―――。

 脱衣所の扉が閉まる音がして、鈴ねぇの足音はすっかり遠くへ行ってしまった。

 「・・・うん。・・・うん、えへへ。」

 「・・・。」

 一度全身を湯舟に沈めて、自分の中の気持ちが悪い自分を溺死させた。


  ◆


 しっかり湯舟で温めた身体が感じる、外からの風は、最早寒いくらいに涼しい。田舎の夏の夜はこんなに涼しかったのかと身体で思い出す。うっかり窓を開けたまま夜が来て、そのまま今まで1階で過ごしていたからこんなに部屋が冷えていたのだ。

 「これなら冷房要らないな。」

 半袖から露出した腕を擦りながら窓を閉めようと縁に手を掛けた。

 不意に視界に飛び込んだ。

 いや、視界が飛び込んでしまった。

 街灯も何もない夜中の田園風景が生み出す漆黒は、その奥から動物たちの鳴き声を響かせても尚、底知れぬ深淵のように自分の意識と遠近感を狂わせる気がした。

 「うわ、真っ暗。」

 小さい頃は毎日この夜の中を過ごしたというのに、すっかり数年の生活が忘れさせてしまっていたんだ。

 「おっかねー。」

 ピシャリと窓を閉めてついでにカーテンも閉めると、なんだか途端に部屋が狭くなったような感じがする。今借りている部屋の半分くらいしかない広さに、なんだかよく分からない段ボールが5個おまけされていればそうも思うのかもしれない。

 テレビも無けりゃゲーム機も無い。スマホを付けたってやたらと忙しないニュース記事を見せられるだけで、そんな物はこの田舎にはなんの得もありゃしない。詰まる所、今の自分にとって一番賢い行動は、明日から付き合わされるんだろう草むしりやら荷物運びやらの為に体力を回復する為の睡眠である。

 布団に飛び込んで掛け布団に包まる。日頃寝ている汗臭いベッドと違って、少し押入れの埃の香りを付けたふわふわの布団がこんなに気持ちのいいものだったなんて。この帰省で一番感動している事かもしれない。

いや、夕ご飯の美味しさの方が大きいかもしれない。

 「あ、電気。」

 目の前にぶら下がる紐を掴んで引っ張ると、糸の先で針金がバネのように鈍く鳴る音がする。それと同時に電気が消える。

 「・・・ん。・・・ん?豆電切れてる・・・。まぁいっか。」

 さっき窓を閉めて遠ざけた筈の夜の闇が、途端に部屋に流れ込んできた。寝転がってる自分の鼻の先にある筈の電灯の紐すら、今は真っ黒に塗りつぶされている。


 何もない世界に自分の入った布団だけがぽつんとある。そんな気がしてくる。


 目を閉じているのか、開けているのかも分からなくなる。


  ◆


 部屋の引き戸が開く音。

 誰かが入って来た音。

 自分の枕元に歩いてくる。

 立ち止まって、

 目の前に膝が置かれる。


 自分を見下ろす気配がする。


 目を開けて答え合わせをする。

 「・・・やっぱり鈴ねぇだと思った。」

 「起こしちゃった。」

 「起きちゃった。」

 「ふふ。」

 部屋の中だけの小さな夜空に2つ並んだお月さまが薄っすらと漏らす眼光を、光の枯渇した眼球がすかさず捉えた。

 「一応聞いとくけど、何してるの?」

 「・・・寝顔見たくなっちゃって。」

 暗闇の中で、顔の右手、上の方向で明け透けに開き直った声が、ぼやけたミニチュアの夜空から飛んでくる。

 「鈴ねぇってさ、」

 「なぁに?」

 「なんか夜の方が元気だよね。」

 「まぁ!うふふ。」

 「小さい頃からさ、なんか当たり前みたいに思ってたんだけど。」

 「けど?」

 「数年会ってないと気付くなぁって。」

 「・・・やっぱりほどけてたかしら。」

 「え?なんて?」

 「なんでもないわ。」

 言いながら声が近づいて来たような気がした、矢先、鈴ねぇの白い手が自分の頬を撫でて来た。昔から、なぜだかこの手が凄く安心したんだ。

 「今もさっきも、いきなり入ってくるとびっくりするよ。」

 「でも、伝えてなかったし。」

 「うん。・・・うん。わかったよ。」

 「ふふ。翔ちゃんが小さい頃思い出しちゃう。」

 「僕が小さい頃も、鈴ねぇこうやって寝てる僕の事見下ろしてたよね。」

 「うちわなんか仰いであげたよね。」

 「懐かしいなぁ。」

 暗闇の中で髪をかき分けるようにに手遊びで弄りながら頭を撫でられていると、本当にそのまま小さい頃にタイムスリップしたみたいな気分になる。あの頃は本当に毎日こうして、鈴ねぇと一緒に・・・。

 「ふわぁ・・・。」

 「うふふ。おやすみなさい。翔ちゃん。」

 「うん。おやすみ、鈴ねぇ・・・。」

 「・・・。」

 「・・・。」

 重くなる瞼に負けて深くなる呼吸と共に意識が・・・


  ◆


 暗い廊下に並ぶ真ん中の扉から静かに出て来た女は、肩で小さく息を吐いた。夜闇に沈んだ廊下でも仄かに白く浮き上がっているのだろう身体のシルエットは、彼女の長い首筋に密度のグラデーションを以て生えていく後頭部の髪の毛まで、全てがよく作られた人の美しさそのものに思える。


 「・・・誰かいるの?」


 「・・・。」


 「・・・クロ?」


 「・・・。」


            なォ~ん。


 ―――。


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