◆


 この家の夕ご飯が6時半に始まる事をすっかり失念していた。

 『自分の生活』ではありえない時間だったから、母が階段の下から自分を呼ぶ声で目を覚まして、その頃には空もすっかり沈んだ茜色に染められていた。

 母から預かって2階に上げた布団を敷いて試しに飛び込んだら、気絶するように昼寝に突入していたのだろう。

 少し慌てて階段を下りる。


 「遅いぞ翔太。」

 「翔太の席はそこね。ご飯大盛りがいい?」

 「うん。お願いします。」

 「やぁ、翔ちゃんと、久し振りの夕食だぁねぇ。」

 「うん。時間が早くてビックリしちゃった。」

 「翔ちゃんは、都会じゃどんな時間に飯くっとうか。」

 「そうだな、最近は夜の10時半くらいが多いかも。」

 「馬鹿にするなよ翔太。そんな時間に飯食ってどうすんだ。」

 「本当にそれくらいの時間になっちゃうんだよ。」

 「ほうか。」

 「はいこれ、翔太のご飯ね!」

 「ありがとう。」

 「母さんビール。下の方のヤツ。」

 「は~い。」

 受け取ったご飯茶碗をどこに置けるか3秒悩んだ。何しろ1畳半はあろうかという机の真ん中に置かれた大皿3枚と、それより一回り小さいお皿が2枚。さらにそれを取り囲むように、各人の前に置かれた取り皿と汁茶碗と醤油皿と箸置きと・・・。まるでパズルみたいに敷き詰められていく食器の間に、このご飯茶碗を収められるスペースが無いかを見定めるのは、中々頭の働かせようがあった。

 「凄い量だな。」

 「母さん奮発したなぁ。」

 「刺身まである。」

 「俺も偶には魚食いたくてな。クーラーボックス詰んで車出したんだ。」

 「今もあそこの魚市場?」

 「いんや。これや3年前にできたデッかいスーパーで買った。」

 「あー。ここにもそういうのできたんだ。」

 「でっかいぞ。連れてっちゃる。」

 「あぁ!うん!楽しみ。」

 母さんがやっとエプロンを脱げて、ドタドタ居間に入って来た。

 「さぁさぁ食べましょ!」

 台所から入って来た母を見た時に視界の下の方に映った鈴ねぇが、ニコニコ目を細めて食事の始まりを待っていた。


 そうだ。これ、上京するまで自分が毎日見ていた景色じゃん。


 母が親父の隣に座る。


 全員が座布団に膝を下ろした。向かいに座る父だけが胡坐のままで、自分もつられて正座に直る。一瞬物音が消えて、まるで今まで生活音に掻き消されていたみたいに、仏間の線香の香りが唐揚げの醤油の香りに被さって鼻先を撫でた。


 「そんじゃ、いただきます。」


 「「 いただきます。 」」


 すぐに居間は箸とお皿の奏でる喧噪に包まれた。

 大皿に盛られているのは唐揚げとお刺身とお稲荷さん。中皿にはほうれん草のお浸しと胡瓜の合わせ盛りと金平ごぼうだ。味噌汁はわかめと油揚げと豆腐。油揚げと豆腐が両方入ってるのは昔からだし、外食以外で味噌汁を飲むのも意外に久し振りかもしれない。

 唐揚げと金平ごぼうをまずは取り皿に取って、そこから空いているスペースにマグロとサーモンの刺身を盛ってみた。

 「凄い量のお刺身でしょ。お父さんが捌いてくれたのよ。」

 「あれ、お父さんも捌けるの?」

 「じいちゃん程じゃないがな。」

 「知らなかった。」

 「お父さん張り切ってたのよ。」

 「うるさい。」

 「はいはい。これビールね。」

 「おっ、ありがとう。コップは。」

 「はい。」

 母さんが父さんにガラスコップを2つ重ねで手渡した。


 あっ・・・。


 「母さんとばあちゃんは。」

 「こっちで分けますから。」

 「そうか。」

 そう言うと父親は手元で手際よくビール瓶の栓を開け、コップ2つに均等に2:8でビールを注いで見せた。

 「あ、えっと。」

 「ほら翔太。」

 「あ、ありがとうございます・・・。」

 丸めた両手で受け取ったコップは直前まで冷やされていただけあってキンキンに冷えていて、この一瞬でもう結露したコップが冷たい汗粒をツルツルの肌に伝わせていた。

 「お父さんね、最近ご飯の10分前に冷蔵庫のビールを冷凍庫に移すのよ。」

 「これすると氷が無くても冷たくなって旨いんだよ。」

 「あぁ・・・そうなんだ。」

 「翔太。お前と酒飲むの初めてだったよな。」

 「うん、はい。初めて。」

 「・・・そうかそうか。」

 そう言って父は自分の分のコップを手元に寄せ、コップの泡を一瞬ジッと見つめてから、すぐに顔の前に掲げた。気付けば一度は騒がしく食事を取っていた全員が再び箸を置いて、代わりにビールの注がれたコップを持っている。自分も持たなきゃ。


 「そんじゃま、今日は数年ぶりに翔太が帰って来たんで、折角の御馳走だもんで、・・・。え~・・・。


 ・・・。


 ・・・乾杯!」


 「「かんぱ~い!」」


 目の前のビールをグッと喉に流し込む。予想通り恐ろしく良く冷えた麦の苦みが喉に押し寄せ、ゴクリと喉を鳴らした時にはもう、午後の気怠い暑さなど吹き飛んでしまうような気分だった。

 「旨いか!翔太!」

 「うん!旨い!」

 「そうかそうか!」

 なんだかもう赤くなってる顔の父が嬉しそうにビールを飲み干した。

 「ぷは~!旨いなぁ!」

 「うん。」

 「ほいや。他の飯もどんどん食えよ!食いきれんほどあるんだからな!」

 「うん!」

 取り敢えず、手元にある唐揚げを1つ箸で取って半分噛みちぎった。

 ジャクリ、と、完全に切れていない揚げ油がほんのり纏わりついた黄金色の衣の中から、まだ揚げ油の温度が冷めやらぬ鶏肉のしょっぱい肉汁が舌と上顎をヤケドさせに飛び出してきた。

 そう。これが我が家の唐揚げの味。若干塩辛いくらい醤油の味がして、そのすぐ後からやっぱり過剰なくらいよく効いた生姜の香りが押し寄せてくる。これが我が家の、お母さんが揚げる唐揚げの味だ。

 「美味しい~!」

 「やだやだも~!いっぱいあるからどんどん食べなさい。」

 どうしてなのか、実家の唐揚げの味はこうもハッキリとそうわかるのは。

 「お稲荷さんも食べ。」

 「あ、うん!」

 恐らく祖母が作ったものだ。昔から縁日とか宴会とか、そういう時にはご飯とは別に出てくる。しかしそれが気になった事は全然ない。祖母の作るお稲荷さんは、まずお揚げが黒糖のタレでよく煮てあるから凄く落ち着いた甘塩っぱさがある。それで中身もご飯が詰まってるんじゃなくて、ご飯よりも多い量のレンコンの酢漬けとか、枝豆とか、カニカマとかカンピョウとか銀杏とか、とにかく詰められる五目が全部入っている。それが程よくほんのり甘酸っぱい酢飯と一緒になっていて、もうご飯ものというよりもご飯に合うおかずに化けてしまうのだ。昔から、うちの伝統的なご馳走だ。


 「・・・ん。美味し。」


 声に左、団欒が囲む机の端を振り向いて見る。そこには昔と変わらぬいつもの席で、美味しそうにお稲荷さんを摘まむ鈴ねぇの姿があった。

 このお稲荷さんは何より、鈴ねぇのお気に入りなのだ。結局鈴ねぇが一番食べてるし、昔から皆、鈴ねぇが美味しそうに食べてる姿を見るのが好きだった。長方形の机の一番北側、5人で食べるから所謂お誕生日席に着いている鈴ねぇの姿を、何となく全員が視界に入れてご飯を食べる事になる。

 だから、やっぱり鈴ねぇが美味しそうに食べている食卓が一番幸せに感じる。これは、この家族が全員感じている事なんだろう。

 お稲荷さんを小さくついばんでは、俯いてモグモグと口を動かしている鈴ねぇが、ゴクリと一度喉を動かしてから正面に向き直る。幸せそうにニコリと、まるでお面に描いたように均整の取れた微笑みを撒くと、それだけで皆、なんだか救われたような気分になるのだ。

 「鈴ちゃんいっぱいお食べな。取れないのあったら取ってあげる。」

 「うん!じゃあ、サーモンと金平!」

 「はいよ~。」

 「おいおい、鈴ちゃんの方が翔太よりよく食ってるじゃねぇかぁ?」

 「マッ!この馬鹿おやじ!女の子に失礼な事言って!」

 「アハハハ!ほら翔太も負けずに食え!アハハ!」

 珍しいくらい楽しそうな父親の顔はもう真っ赤になっていた。

 自分も空いた取り皿にお稲荷さんを2つ取って手元に置く。天井の明かりに黒く照り返すお揚げの肌をジッと見つめる。一つそっと指で掴んで、半分くらいまで口に頬張った。コメが少ない分崩れやすいのを慎重に気遣って中身を覗くと、やはり色とりどりの五目がぎっしり詰まっていて、こんなものの正体を見ないまま口の中に放り込んでしまえる事が、恐ろしく勿体なく、贅沢な事に思えた。

 「翔ちゃん、美味しいね。」

 懐かしい、食卓に輝く鈴ねぇの笑顔が飛んできた。

 「うん!美味しい。」


 すっかり暗くなった庭からの風が汗ばんだ背中を撫でるし、身体もさっき飲んだビールが回って内からジンジン熱くなってきている。

 ここに来て何度目かの、実家に帰って来たのだという実感を浴びた。

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