◆


 「ただいま~。かあさ~ん。」

 この家は古いだけじゃなくて中々広い。元々平屋で子沢山な百姓家系が3世代全員で雑魚寝していたような家を、更に2階建てに増築しているのだから。家の奥の方にいたら、玄関でボヤいた程度では絶対に気付かれない。

 玄関に膝をついて廊下の奥の方を見つめている間に、横で足をブンブン振ってサンダルを脱ぎ捨てた鈴ねぇが踵が床板にぶつかる鈍い音を微かに立てながらピョンピョンと先に上がって行ってしまった。廊下をスキップする後ろ姿は楽しそうにはしゃぐ子供のようで、相変わらずの掴み切れない性格にほっこりとしてしまう。

 「――鈴ちゃんおかえり~。きゅうりありますよ~。・・・あ!翔太もおかえり。長旅お疲れさん。疲れてるでしょ。のんびりしなさい。」

 「ただいま母さん。」

 「夕ご飯までまだ時間ありますからね。その間にお父さんに挨拶して、おじいちゃんにおせんこ、してあげてね。」

 玄関にへこ垂れてる自分を一瞬視界に留めて以降は、なんだか忙しなさそうにしながら再び台所に消えてしまった。

 「・・・折角数年ぶりに息子が帰って来たって言うのに・・・。まぁいいか。」

 膝にポンと手を当てて立ち上がり靴を脱ぐ。

 脱いだ靴を並べる時に視界に入った鈴ねぇのサンダルも一緒に揃えてやる。まだサンダルに仄かに残った鈴ねぇの体温と足の汗のぬめりを、指の腹がうっかりねぶった。

 「・・・。」

 リュックを掴んで居間に上がる。


 自分がいた時よりもかなりスッキリとしている。何しろ、この家から自分と言うヤンチャな餓鬼がそっくりそのまま数年退去していたのだ。もういい年をした両親と藁編みが趣味の祖母にとってはこれくらいの方が居心地が良いに決まっているだろうという事は、簡単に想像がついた。

 「あ、ここの箪笥なくなってる。どうりで変な感じがした訳だ。」

 純和風の木造建築にとって、箱物の家具というのはそのまま部屋を仕切る壁にもなり得る。6尺はある箪笥を部屋の隅に置いてしまえば、それだけで空間を抜ける視界は幾分遮られ、感じられる部屋の広さや、建物の構造はまるっきり変わってくる。

 「じいちゃんに挨拶しないと。」

 自分が上京する少し前に祖父が亡くなって物を減らせた事も、きっと影響しているんだろう。


 仏間に行くと、9畳ほどある部屋の中央、仏壇の正面に置かれた座卓で編み物を広げている祖母がいた。

 「あーん・・・?わぁ!翔ちゃんじゃ!翔ちゃんが帰ってきよった!」

 「ただいまおばあちゃん。」

 「おかえり~翔ちゃん。疲れたろ、のんびりしぃな。」

 「うん。その前におじいちゃんにも挨拶したくて。」

 「んだんだ。じいちゃんもよう喜んどるでな。」

 「うん。」

 仏壇の前に敷かれた紫色の座布団に膝を揃えて久し振りの線香を上げる。先祖代々の仏壇ではあるけれど、自分が実際に知っている人は祖父だけだ。

 「おじいちゃん、翔太、帰りました。」

 とても身体が頑丈な人で、死ぬ半年くらい前まではしょっちゅう川釣りに連れてかれた。大学受験の勉強が忙しくなってから付き合いが悪くなってしまい、気付いた時には床に伏していた。じいちゃんも別に怒ったりなんかせず、最後まで試験頑張れよの一言だった。優しくて頼もしい人だった。

 白い煙が線香の先から1筋2筋と別れ、また折り重なって天井に上がっていく。天井に行くまでの間に有耶無耶になるのは、きっと線香の煙が途中であの世と繋がってるからなんだ、と。これは祖父が小さい頃に僕を怖がらせる為に言った冗談だった。あっちの祖父の目の前に、僕の立てた煙は届いただろうか。


 「ばあちゃん、父さんどこかな。」

 「多分リビングじゃねぇか。」

 「ありがとう。」


 仏間の隣に並ぶ、これもまた9畳ほどの畳敷きの居間の向こうにリビングがある。元々は1つだけの居間だったのを、改築でフローリング敷の洋風リビングを1つ増やしたのだ。今はお昼ご飯や夕食用に家族全員で集まって使う場所で、リビングにはテレビもソファもあるから好きな時に好きな人が使う。

 居間からリビングに繋がる襖を開くと、案の定そこには、ソファに座って冷やした胡瓜を齧る父親の姿があった。

 「お、翔太帰ったか。」

 「ただいま父さん。」

 「胡瓜、美味いぞ。」

 「うん、頂きます。」


 爪楊枝を一本取って透明なガラスの平皿に盛られた乱切りの胡瓜を1つ持ち上げる。軽く白ゴマと胡椒が振ってある冷やし胡瓜は、うちの母親の得意なつまみ。恐らくは軽く味の素も振ってある。暇があれば糸唐辛子まで乗るけれど、多分今日は忙しかったのだろう。

 一かけの緑色を奥歯の方に放り込んだ。

 「うん。美味しい。」

 「だろ。」

 「畑の?」

 「そうだ。美味くできた。」

 「うん。」

 「東京はどうだ。」

 「東京、ってほど中心じゃないけどね。もう人ばっか!どこ行ったって人、ひと、ヒト。疲れちまったよ・・・。」

 「あっちの人たちはよく我慢できるよなぁ。俺なんか満員電車なんか乗ったら叫んじまうかもしれん。」

 「・・・偶にそういう人も、いるよ。」

 「そういう人は合わなかったんだな。ま、便利な所だろうがな。」

 「父さんも憧れた事ある?」

 「ない。」

 「・・・鈴ねぇ、どこかな。」

 「鈴ちゃんなら多分縁側ん所だろ。」

 「クロも?」

 「最近もよぉ昼寝しとるわ。鈴ちゃんもな。」

 「相変わらずだね。」

 「こきゃなんも変わらん。偶に人が死ぬくらいじゃ。」

 「やめてよ縁起でもない。クロにも挨拶しようかな。」

 「おう。昼寝の邪魔するなよ。」

 「その前に、胡瓜をもう1つ。」

 「おう!どんどん食えよ!」


  ◆


 「クロ~?」

 もう一度居間に戻ってから、今度は母の料理する音が聞こえる台所とは反対側の襖を開ける。

 襖を開けるや否や、目を刺す強い日差しがいきなり居間に入って来た。だから昼間はいつもこの襖を閉めてある。逆に、日射しが浴びたければ向こうの部屋に行けばいいのだ。


 目の前で寝転がっている、耳の先から尻尾の先まで真っ黒な猫と、対照的なくらい真っ白なワンピースを着た女性の事だ。

 仰向けに寝っ転がって目を閉じている鈴ねぇの横で、なんだか似たような格好で腹を天に向けて伸びている黒猫の構図は、どこかおかしくて、美しいと思った。

 吸い込まれそうな寝顔とは正にこの事だ。


 「・・・暑くないの?」


 「・・・ん、ん~っ!」

 「ンナォァォ・・・。」

 1人と1匹はやっぱり殆ど同じような伸びをした。


 「クロ、ただいま。」

 「・・・。フンス。」

 一瞬、皮を剥いた葡萄の実のような瞳でこちらを見たが、再びつまらなそうに顔を前足に埋めた。一先ず挨拶は済んだ事にしたい。

 「鈴ねぇ、リビングに胡瓜あったよ。美味しかった。」

 「・・・。」

 「・・・もう寝てる。」


 シミ一つない頬が白い光を反射してぼやける輪郭の中で、ただただ夏の幻のように刻み込まれた変わらない部屋の光景を、この数年一度だって見て来なかった事に、やっと気付いた。


 「・・・はぁ、俺も休もう。」

 リビングに戻ってリュックを取り、台所の母親に声を投げる。

 「母さーん。俺の部屋って使えるー?」

 「使えるわよー。でもちょっと物も置いてるからどかしてちょうだい。」

 「はーい。」


 玄関まで戻り、廊下から分かれるように出現する階段をノシノシ登る。曲がり角の壁には自分が物心ついた頃から家のどこかには飾ってある山の狐の絵が掛けてあって、それを視界から外すように左を向くと、数段先に部屋の扉が並んだ廊下が出現する。

 少し足音の響く床板を踏んで、左手2番目の引き戸が自分の部屋だ。


 「はいよ、ただいまっと。」

 少し埃っぽくなった部屋は、確かに母の言った通り段ボールが5個ほど積んである以外は殆ど変わっていない。入って左奥の勉強机の上には、大学受験の時に使い倒した英語辞書と単語帳までそのまま並んでいる始末だ。

 「時が止まったみたいだ・・・。」

 足元の段ボールを試しに足で押してみると、意外に重くて動かない。本でも入ってるのだろうか。


 鍵を回して窓をいっきに開け放つ。すると、遠くの空から来た風の裾が、ふわりと部屋に舞い込んだ。しかし、気持ちを切り替えられるほどの涼しさは伴っていない。代わりにプレゼントされたムワリと膨らむ熱気が部屋の埃を軽く舞わせ、少なくともこの部屋が久しぶりに呼吸をした事は確かだった。


 「空、広ぇー。」


 くすんだ緑の山肌にも挟み切れない群青色の広がりは、まるでペンキバケツを倒したみたい大空にぶちまけられていた。塗り損ねた白い部分がもくもくと形を膨らませて、そののんびりと流れる速度が、そのままこの田舎町の時間の流れになっていた。

 自分のよく知る、故郷の風景だ。


 「・・・やっぱり暑いな。」

 物置から扇風機を取ってくる事にした。

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