しんゆう
虹空天音
日記
「夏休みってどこ行ったっけ?」
その一言から、全て始まった。私自身、何もわかっていない。記憶がなく、別にどうでもいいことのように、私は思ってしまったから。今日もただ無心で制服に着替えていた。
床がきしむ音と、ハンガーが落ちる音が重なった。お母さんは顔色一つ変えずにもう一度続ける。
「驚いてないで、覚えてるでしょ、日記一生懸命書いてたじゃない。あの夏はお父さんとかお母さんが付かずに、おばあちゃんと一緒にしっかり田舎に行って、成長したなぁって思ってたのよ」
「……そうだっけ」
曖昧に返事をする。日記。それが重要なことっていうのは分かった。でも、どこにしまった? そもそも私って、日記なんて続けて書けるほど辛抱強い性格でもないんだけど。お母さんは諦めたようにため息をついて家事をし始める。掃除機の鳴る音から離れ、ドアを開いた。
「行ってきます」
また今日も退屈な日々が始まるんだろうなと思った。だって、夏に思い出なんてない。今年もきっと、何もない。夏休みまでの学校一日。クラスメートはまた、笑いながら予定を話し合っているのだろうか。
カバンをガサゴソとあさる。プリントを詰め込んだせいでぐしゃぐしゃだ。欲しいプリントがどこに行ったのか全く分からない。
焦ってあたふたしていると、どさ、と何かがカバンから落ちて床に転がった。ボロボロで、ところどころ破れて黒ずんでいる。こんなの、バッグの中に入れた覚えなどなかった。なんだか、頭が痛い。ズキズキと悲鳴を上げている。
恐る恐る拾って、じっと見つめてみる。それは、古いノートのようだった。普通の行が作られたノート。題名の欄には「しんゆう」とだけ。やっぱり頭が痛かった。私は、これを忘れていた?
「どうしたの?」
先生の声が反響している。ぐっと息をのみ込んで、ノートをがさっと元の通りにカバンに入れた。
「大丈夫です。ただ、ノートが落ちてしまっただけなんで」
「そう? ならいいんだけど」
立ち去る先生の後ろ姿を見ながら、深呼吸をして心を整える。もう一度、カバンをのぞいてノートを手に持つ。
このノートは、本当に一体何なんだろう。なんか見たことがある。平仮名……私の筆跡に少し似ている気がした。「しんゆう」の字をなぞる。そして、意を決してページをめくる。
「あのこのことは、おもいださない」
一ページを除いて、全てのページが破り取られていた。黒いクレヨンで乱暴に書かれた「おもいださない」。あのことはなに? 私は誰と会って、なんでこのノートを書いて、他のページを破り取ったの?
授業を受けてぼんやりしていた頭が、だんだん冴えてくる。これはきっと、夏休みの……。
思い出したい。そう、思った。何を私は忘れたの? 何で自分で記憶を消したの? 痛い。何もかもが痛い。お母さん。私は……。
「えっ? 夏休みにどこ行ったかって? それを今朝聞いたんじゃない」
そうだった。最初にお母さんが朝に尋ねてきて、思い出したから……。
あのノートが夏休みに関係しているのなら、小学校時代のもののはず。じゃあなんで、中学校のバッグに入っているのだろう?
「う~ん……確か、古い別荘の方に行ったんじゃなかったっけ? おばあちゃんに同行を頼んで」
「そういわれれば……そんな気が……?」
はっきりしない。やはり頭の中に霧がかかっている、そんな感じ。意図的に隠されていてモヤモヤする。
「じゃあ私……そこへ、行ってみる」
「えぇ⁉ そりゃあ、今日学校終わって夏休みだけど、いきなりすぎるんじゃない?」
お母さんの反応はもっともだ。だけど、今確かめに行かないと、絶対に分からないような気がする。自分の一部分を知らないまま育っていってしまうようで、それは絶対に避けないと、いけないような気がしていた。
田舎、おばあちゃん、夏休み。あれ? 電車に乗ったような気がする。そこから何分も歩いた。階段が多くて、緑がいっぱいで……。
よし、思い出したことを書留めよう。そして、それを頼りに、記憶を取り戻す。
眠たい。酔うより前に眠気が来てくれて少しはありがたいが、この眠気にどうにかして打ち勝って、目的地に着かなければいけなかった。気晴らしでスマホに手が伸びる。その時、アナウンスが鳴った。
『■■駅に~』
その駅名を聞いて、ズキンとひどい痛みを覚えた。辛い。これ、どうしたら。
でも直感で、ここだと思った。いや、確信した。ここで、降りよう。私のいくべきところは……。
電車を降りた。改札を出て、駅を後にする。そして、空を見上げると、真っ青に広がる鮮やかさをじっくりと見ることができた。
いつの間にか痛みは引いていた。何故かはわからないが、妙に心地よい。風も、この感覚も、とても。
しらみつぶしに道を歩いていると、ふと突然日記を開きたくなった。日記は必要な気がしていたので持ってきていた。日記を開ける。すると、初めは一ページしかないはずだったのに、なぜか追加のページがあった。いつの間に。私が見落としていた?
「あのことあったみち」
その途端、くらっと頭が重くなった。うとうとと、眠かった目がさらに閉じる。これでは本当に眠ってしまう。しかも、道端で。
「あのこはきれいなふくをきてた」
目の前が暗くなる。そうか、記憶が、必死に、閉じられてる扉を開こうとして。その抵抗で、私もきっと弱っているんだろう……。ただの仮説だけど。
ほんと、眠いな。
「ねえ」
「友達に、なろうよ」
色のある世界。あのこが私に声をかけてくれた日。こんなふうに、森の中の道。物語に出てきそうな雰囲気のある場所で、楽しい楽しいと、二人で駆けまわったっけ。
「こっちきて」
一緒に手をつないで走ったひ。案内してくれたのは、かわのちかく。あそこでおさかなをたくさんとって、みんなでたべた。いまのことのようにおぼえている。
「一緒に歌おう」
きゃんぷふぁいやーをかこみな■ら、いっし■にうたったひ。たのしいなあ、たのしいなあ。
「一緒に、こっちに来て遊ぼう」
うん、わかった。わたし、もうひとりじゃない。にせもののおかあさんのところにいきたくない。あなたとあそぶ。
「ありがとう」
そのこが、にっこりとわらった。わたしはうれしくなった。あそんでいられる。わたしはずっと、なつやすみをおわらせられないでいい。がっこうに、いかなくてもいいんだよね。
「ずっと、一緒に遊ぼうよ」
なつのおもいで。にっきにかきとって、えいえんにわたしのなつをおわらせないで。わたしはしょうがくいちねんせい。このこといっしょにずっとあそぶの。
ずっとずっと、えいえんに。
森の中の小道。転がった二つの白骨死体は、まるでお互いを思うように、しっかりと抱き合って倒れていた。
「お母さん」はどこかへ行って、二度と姿を現さず、「クラスメート」は森へ消えて、こちらも、二度と姿を現さなかった。
しんゆう 虹空天音 @shioringo-yakiringo
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