第13話


 「う・・・ん・・・」

 ギュッと閉じる最後の抵抗をする瞼に、それでも無情に覗き込んでくる天井照明の赤い光。まるで水槽の中に沈んで、ゆらゆらと水面を見上げているような揺らぎの不規則な網になって視神経を刺激する。眠っていた眼球を潤す為の涙のベッドが熱い涙となって寝る頭蓋のこめかみを一筋掠めて枕に流れ落ちる。

 「あぁ。」

 なんだか、淡く、そして温かい夢を見ていたんだ。しかし、それは何だか悪夢のようだった気もする。恐ろしいくらい優しく驚かされた夢だった。自分は意思を持って夢の中を彷徨い、そして、何か探し物を見つけて、それを両手で拾い上げたのは覚えている。しかし、それがなんだったかが思い出せない。夢によくある忘却の寂しさに、また今回も悩まされようとしている。

 「・・・あ、起きた。おはよう、アンリ君。」

 「蘭さん、おはようございます。・・・おはよう?今は何時ですか?」

 「今はね、もうすぐ夕方じゃないかしら。」

 「ぼく、蘭さんとお昼寝して。」

 「気持ち良かったね。」

 「はい、凄く気持ち良かった。」

 「もう1回寝ちゃおっか。」

 「でも連理が帰ってきちゃうかもしれないですよ。」

 「2度寝って、なんだかいけない事してる気分になっちゃう。」

 「蘭さん、蘭さん・・・。」

 「ふふふ、よーしよーし。いい子いい子。」

 薄手のワンピース越しに感じる彼女の胸の膨らみと温かさ。

 「よーしよーし。いい子いい子。」

 「いや、僕は悪い人間だ。」

 「な~んで?」

 「嘘を付いてたんです。」

 「どんな嘘?」

 「好きな人に、好きって伝え忘れてました。」

 「あ~、いけないんだ~。」

 「それと、好きな人の大切なものも、こっそり奪ってしまってた。」

 「いけない子は、ギューってしちゃう。」

 「うぅ、蘭さん・・・。」

 「蘭ですよ~。それで、あなたのお母さんですよ~。」

 「母さん・・・。」

 「ねぇ、アンリくん。」

 「なんですか。」

 「どうして、嘘を付いてたんだ。」

 「それは、傷つけたくなくて。」

 「本当は自分の都合のいいように気持ち良くなってたいだけだったんだろう。」

 「違う。色んな事に流されて、自分じゃどうしようもできなかったんだ・・・。」

 「嘘付きだ。俺の秘密まで知ってしまった。」

 「ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。」

 「ねぇ、アンリくん、顔上げて。」

 「はい。」

 「あなたがいるのは、誰の隣?」


 わからない。見分けが付かなかったんだ。




  ◇


 「わあぁあ!!」

 実際に声を上げていたかは分からない。それくらい寝起き様に自分自身を叩き起こした叫びは、水底で吐いた泡を一心に追いかけて、やっと顔を出した遭難者のそれと違いなかった。

 「なにしてんだ・・・俺・・・。」

 時計はまだ3時半を指している。なにもかも馬鹿みたいだ。

 「クソ。寝れねぇよ。」

 喉に手を当てる。水が飲みたい。

 階段を降りると、居間の灯りが点いていた。

 「・・・あら、アンリ起きたの。」

 「喉乾いて。」

 「そう。」

 「母ちゃんは?」

 「私もよ。」

 キッチンで2つ取ったコップをちゃぶ台に並べて麦茶を注いだ。

 「ありがとうアンリ。」

 「実は、悪夢を見ちゃって起きた。」

 「そう、まぁ、そう言う事もあるわよ。」

 「うん。」

 「・・・どんな夢見たの?」

 「なんでそんな事聞くの?」

 「悪夢って、何か良い事があった時に見るのよ。」

 「そうなの?」

 「脳がね、バランスを取るの。良い事があって幸せになった脳が、そのままずっと幸せなままでいるせいで、冷静さを欠かないように、悪夢を見てバランスを取ってるのよ。」

 「初めて聞いた。」

 「だから、凄く嫌な事があった時は楽しい夢を見るの。」

 「それは・・・少し楽しみかも。」

 「ね。いいよね。」

 「・・・実は最近、好きな人がいるんだ。」

 「まぁ!それで?」

 「それで、実は、その子と両想いだった。らしい。」

 「まぁ!この子は私の知らない所で!この色男!」

 「やめろやい。でさ、そっからなんだけど。」

 「なに?」

 「その子が凄い隠し事をしてたんだ。」

 「へぇ。借金とか隠し子とか?」

 「そんなとんでもないものじゃないよ!なんていうか、趣向?のような。」

 「いいのよそれくらい。」

 「うん。自分もそう言ったんだけど。」

 「じゃあ、アンリ。そんなあなたに、お母さんのアドバイスを授けましょうか。」

 「・・・なに?」

 「お母さんね、あなたくらいの年の時に、付き合い始めた子がいて、それで、やっぱりあなたと同じようにその子の事で悩んでたわ。」

 「・・・ふ~ん。」

 「でね、実は母さん、その付き合ってた子以外にも、もっと好きだった人がいたの。」

 「・・・うん?」

 「その好きな人っていうのは・・・まぁ、幼馴染みたいな人だったんだけど、付き合ってた子っていうのは、違って。で、そのお付き合いは向こうから告白されて始まって。」

 「なんかちょっと分かんなくなってきたぞ?」

 「要は、お母さんも悩んだのよ。どっちも好きでどっちからも愛されて、でも、そういう曖昧な状態に自分自身が一番絶えられなかったの。」

 「・・・それで、母さんは結局どうしたの?」

 「・・・どっちとも別れちゃった。」

 「・・・そうなんだ。」

 「残ったのはアンリだけ。」

 「・・・。・・・前々から気になってた事あったんだけど、今聞いていい?」

 「いいわよ。」

 「母さんって、何歳なの?」

 「内緒。」

 「うわ、ズル・・・。」

 「・・・えいっ!」

 「うわ母さんなにすんだよ。」

 「このバカ息子~!」

 「いてて。ほっぺ抓んないで。」

 「私がおばあさんに見えるっての~!」

 「見えません!見えませんから!」

 「・・・アンリ、耳貸しな。」

 「・・・ん?」


 ――。


 「・・・マジかよ。」

 「ビックリしたでしょ。」

 「・・・うん。」

 「あはは、ほらほら、アンタも2度寝しちゃいなさい。」

 「・・・じゃあ、母ちゃんが好きだった人って、どんな人だったの?」

 「あんた、まるでラブロマンスの女の子みたいね。」

 「うるさいなぁ。」

 「幼馴染のお兄ちゃん。」

 「あぁ。それはまぁ、そうなんだ。」

 「あと女の先輩。」

 「・・・え!?」

 「早く寝な!」

 「ちょっと待てって母ちゃん。」

 「ね~な~さ~い!」

 「・・・こっちがモヤモヤするわ。」

 「・・・あっ、そうだアンリ。」

 「なに?」

 「今日の昼、家にお客さんが来るんだけど。」

 「俺も昼は外出てるよ。」

 「わかった。よろしくね。」

 「うん。おやすみ母ちゃん。」

 「おやすみ。」

 なんだか全てが夢の続きのような微睡みにまみれている。ぼやけていく、朝には忘れているかもしれない。そんな虚ろな気分は解けないまま、結局再び布団に潜り込んだ。




  ◇


 「結局まだ眠い・・・。」

 ジリジリ日射しが炙る石階段に足をかけながら、自分が石焼きの肉にでもなった想像がずっと頭の中でジュージューと焼ける音を立てている。

 今日、連理はどんな話をするんだろう。

 頭の中で弄んでいるこの予想と妄想の反復が早朝の悪夢に繋がったことなんて、もう分かってはいる。それでも辞められなかった。

 この気分は初めてじゃない。蘭さんの置き手紙で屋敷の裏から忍び込んだ時も、たしかにこんな気分だったのを思い出す。

 やっぱり親子だ。よく似ている。

 「はぁ、そろそろだ。気を引き締めろよアンリ。」

 最早見慣れた白い塗り壁の回廊を、石畳を、進んでいく。緊張は、不思議な事にしていない。むしろ、今のこの気分は、なんだ。何もわからない暗闇じゃないんだ。なんとなく、予想がついてしまう事に囲まれて、しかし、塞がれた視界の不自由さにまごつくような、そういう淡い不穏さなのだ。

 「不穏さ、か。全部な。最初からだ。」

 数寄屋門の真下にできた日陰の隅に立って、真っ直ぐ屋敷の玄関を見た。

 そこには、なんだかもう見慣れた気分の少女、が1人、ポツンとこちらを向いて立っていた。




  ◇


 よく見ると、いままで見たワンピースじゃない。上下の色が違って・・・女子生徒用の制服だ。それも、セーラー服のように見える。髪型も両サイドを根元で結ったツインテールが真っ直ぐ肩の辺りまで落ちている。

 少女の元へ歩み寄る。

 「やぁ。今日は、お招き頂きありがとう。」

 「・・・うん。こちらこそ。・・・来てくれて、ありがとう。」

 「・・・やっぱり、似合ってるなぁ。」

 「結構、練習したから・・・。」

 「・・・部屋行こうぜ?」

 「・・・うん。行こ。」


 2人で静かな廊下を歩く。

 「そういえば、蘭さんは?」

 「今日は外出するって。」

 「そうか。それは、」

 「都合がいい・・・。」

 「・・・あぁ。」

 2人で2階に上がる。




  ◇


 襖が開かれて飛び込んだ風景の、予想と大きく違っていた事が1つあるなら、それは部屋の広さ。今まで四畳半ほどの空間だと思っていたその部屋は、実は隣にもう1つ四畳半を繋げた長方形の部屋になっていた。

 「なんか、知ってる部屋と違うな。」

 「うん。布団、隠してたの。あと、服とか。」

 「まぁ、そうだよな・・・。今日は、いいのか・・・?」

 「・・・。」

 「ま、そんな事・・・。・・・お邪魔します。」

 「・・・座って。」

 「うん。」


 いつも通りのちゃぶ台を囲んで向かい合う。堂々としようと思い胡坐をかいた目の前で、当の人間は、膝にかかる程度のスカートの裾を軽く指先で押さえるように、足を閉じて正座をしている。座り方まで女の子らしいのは、考えて見れば当たり前なのかも知れないけれど、少し不思議な感じもする。

 「・・・本当に、よくできてるな・・・。」

 本心だ。今目の前にいるのは、白と濃い緑色で構成されたセーラー服を来た可愛らしいツインテールの女の子だ。先入観を抜いて、今日が2人の初対面だったのだと思えば、彼女の服の奥に潜む真相に思考が巡る事も無いかもしれない。

 「えへへ・・・。なんか照れるなぁ。」

 「前々から細いと思ってたけど、こんな形で活きるんだなぁ。」

 「別に今が良い訳じゃ無いんだ。ぼくだって、アンリみたいに逞しい人、かっこいいと思うし。」

 「こっちまで照れるな。」

 「えへへ。お返し。」

 彼女、は、耳にかかっていた、恐らくはカツラの髪を痒そうに退けながら、逸らし目でこめかみを搔いている。右に崩れた正座の姿勢が、傾けた背骨のカーブから緩やかに繋がる骨盤が、確かによく見れば女性らしからぬ丸みの無いシルエットを、スカートの奥に覆い隠しているようだ。また、演じられた少女の表情は、自分でそれを確かめているようで、平たく半分閉じた視線の流れる先に、落とした憂鬱の片鱗を惜しんでいるような目の潤みは、彼女の母親とはまた違った妖しさを醸していた。

 「・・・口調は?」

 「なんかね、女の子の格好してるうちに、自然と。気持ち入るっていうのかな。」

 「役者の才があるんだな。」

 「演じてるのかな・・・。寧ろ、心地いいっていうか、もう一人の自分が作れちゃった~。みたいな楽しさがあるの。」

 「ふ~ん。」

 「ねぇ、気になる事、なんでも聞いて。答えられる事だけ、答えるから。」

 「じゃあ、逆にどんな事は答えたくない?」

 「え?あ~。ん~。・・・意地悪だなぁ。」

 「後々嫌な事が分かるのって、嫌だろう?」

 「・・・アンリにされて嫌な事って、もうあんまり無いかも。元々覗き魔だし。」

 「・・・否定できないのが痛い。」

 「それで言えば、一番最初、誰かに見られてるって気付いた時は、真っ先にこの事がバレたんじゃないかってヒヤヒヤした。」

 「たしかに。そうかもな。」

 「そうだよ!本当にドキドキしたんだから!」

 「あの時はごめん。」

 「もういいって。」

 「お前の事が気になってたんだよ。」

 「もう・・・いいって・・・。」

 「俺、お前のそういう顔好きかも。」

 「な!人の気も知らないで!」

 「悪い悪い。・・・じゃあ、いつからその趣味は始めたの?俺と知り合う前からやってたんだろ?」

 「これは・・・従姉の姉さんにそそのかされて・・・。」

 「それって軽井沢の!?」

 「そう。小さい頃、遊びで姉さんの服着せられて、化粧までされて、そしたら・・・案外・・・楽しくて・・・。」

 「どこにキッカケがあるかわからんな・・・。」

 「ほんとだよ。」

 「この間さ、駅の辺りで、会っただろう。」

 「うん。会ったね。」

 「じゃあ、あのワンピースは?偉く上等そうだったけど。」

 「姉さんのお下がり。実は・・・これも・・・。」

 「良いのかよ・・・大切な制服・・・。」

 「軽井沢で一日中着せ替えられて、これが一番似合うからって・・・。」

 「凄い人だな。」

 「私をこんな風にした人だから・・・。」

 「説得力がある。」

 「・・・ねぇ、アンリ。この服どう?・・・似合ってる?」

 「・・・ちょっと近くで見ていい?」

 「・・・うん!いいよ。」


 崩れた正座を正した連理は、そのまま弾みをつけて上体を持ち上げ、膝立ちでほぼ全身を自分に見せつけてきた。それによそよそとちゃぶ台を回って向かい合う。

 「そのポーズは・・・」

 「か、可愛いだろ!仁王立ちで胸を張る訳にもいかない・・・。可愛くないから・・・。」

 「胸・・・胸は・・・」

 「今日は何も入れてない。熱いし、胸のリボンもあるから。」

 「大きさが変わるってのは、なんだか不思議だな・・・。」

 「女装はコツがあるの。胸も、相当上手く盛らないと違和感が出るから、こういう首や胸に大きなリボンや飾りがある服は色々誤魔化せる。」

 「確かに。」

 「あとは、太腿とか膝みたいな大きくて性別の特徴が出やすい部分はあんまり見せない。このスカートも、立つとちょうど膝小僧にかかる位の長さにしてる。」

 「なるほど。」

 「まぁ、足は細いんだけど・・・膝はやっぱり、性別が出る。あとは肩・・・。」

 「・・・あぁ、確かに、近くでよく見ると、なんとなくあるな、違和感というか・・・。」

 「そう。・・・で、どう・・・?」

 「・・・可愛い。連理!可愛いよ!」

 「ほ、ホントか!」

 「あぁ、勿論、俺が馬鹿みたいに素直なのは知ってるだろう。」

 「そりゃ、そうだけど・・・。」

 「それに、駅前の書店で初めて見た時から、可愛いのは知ってたから。」

 「えへへ、ありがとう・・・。・・・は?」

 「え・・・?」

 「・・・駅前の本屋?」

 「本屋でさ、立読みしてたよな?」

 「・・・定食屋からじゃなかったのか?」

 「・・・やべ。」

 「お前!相変わらずだな!」

 「いや、偶々だったんだよ。偶々本屋にいて、そしたらお前が・・・」

 「で、俺の後つけて定食屋入ったんだ。」

 「・・・そうだ!」

 「この変態!ぶっ飛ばしてやる!」

 「なんだと!男はお前みたいな綺麗な女性見たら気になるだろう!?お前だって!」

 「そ、そういう問題じゃないだろう!それに俺は違う!この~!」

 「わっ!」


 連理が両腕で飛び掛かって来た。肩を押す力の強さは明らかに女性らしくない、というより、身体に芯があるような、女性特有のしなやかさがないような・・・なんだかそういう、曖昧で根拠が無い諸々の情報が、一気に脳味噌に「女性じゃない」という情報と、しかし明らかに少女に押し倒されているという視覚的な情報になって同時に浴びせかけてくる。女装という行為、現象に対する意識の混乱を鍋で煮詰めたみたいな戸惑いが、連理の腕を振りほどく行為を遅らせた。連理に馬乗りにされる機会が来るなんて。

 「・・・ごめんって。」

 「・・・はは、・・・アハハ!アンリに勝っちまった。こんなデカい身体して、俺みたいな女の子にも勝てないんだ。よわ~!」

 「なんとでも言え。」

 垂れさがったカツラの髪に鼻先をくすぐられている。ついでに荒げた連理の吐く息も、彼、彼女、の頭と髪が作った天蓋とカーテンに囲まれて、まるで目の前に1つの小さな空間ができたみたいに、お互いのますます上がる体温をそのまま反映していく。

 四つん這いで腰の辺りに跨られている。

 「化粧は、どうしたんだ?」

 「お姉ちゃんから習って、それで、自分でも練習して。」

 「自分で買ったのか?」

 「・・・駅前の化粧品店で。母さんの化粧品は、物が良すぎてとても手が出せなかったんだ・・・!・・・初めて買いに行く時は、それはそれは、怖かった・・・。」

 「あまりにも男らしい勇敢さだ・・・。」

 「・・・男だからな。」

 「こんなに可愛いのに?」

 押し倒された仕返しのつもりで左の頬を撫でてみた。

 「うわぁ!化粧崩れちゃうよ!」

 「あぁ、ごめん。でも、俺は別に、化粧してなくてもお前の事は・・・。」

 「・・・う~ん。こんな間近で言われると。・・・恥ずかしい。」

 「連理。お前は、」

 「・・・ぼくは?」

 「俺が思ってたより、」

 「より・・・?」

 「・・・面白い。」

 「・・・この!」

 「おい首は絞めるな!」

 「この~!」

 「クッ!こっちだって!」

 上半身を起こし、連理の股の間から腰を引き抜く。丁度腰と腰が合わさった位の場所で、立てた左膝で連理の尻を軽く小突いてやった。蘭さんと一緒に風呂に入った時に、テンションが上がりすぎた彼女にやっていた事だ。これをすると前に飛び退けた身体を腰に乗せて抱くような形にできる。落ち着いて話し合える体勢にしたかったのだ。

 しかし、明らかに蘭さんとは違う感触が左腿にぶつかった。もっと柔らかくて、弾む感触はまるで水の入った袋のような・・・。

 「んぁっ!」

 「あっ、ごめっ」

 驚いた連理が飛び掛かるように腰に落ちて来た。

 「ぶへっ!」

 「・・・っ!」

 なんとか背筋を張って倒れずに受け止めた連理の細くて小柄な身体が、フルフルと腕の中で震えている。

 「連理大丈夫かっ!?」

 「お、お前ぇ~・・・!」

 「痛かったよな!?すまん、なんだか失念してて・・・。」

 「・・・なんか、凄いジンジンする・・・。」

 「・・・それって、痛いんじゃないのか?」

 「痛いっていうか・・・なんだ痺れてムズ痒い感じ・・・。」

 「・・・おいおい。」

 「アンリ・・・、俺やっぱりおかしいのかもしれない・・・。」

 「・・・連理。」

 「アンリ・・・。」

 距離感がそうさせた。重ねた唇には最早昨日のような遠慮がちな態度は感じられない。お互いが散々この雰囲気に焦らされていたせいで、沸騰しそうなくらい熱くなっていた顔の体温を証明するように、恐る恐る唇の間に差し込まれた恥ずかしそうな舌先が火傷しそうなくらいの熱を煌々とこちらに伝えてきた。

 「・・・ん、ん、んぁ。・・・なぁアンリ・・・気持ちいいか?」

 「連理は?気持ちいい?」

 「なんか、よくわかんない・・・。頭グルグルする・・・。」

 「俺も・・・。連理が可愛すぎて、頭が混乱してる。」

 「・・・嬉しい。」

 「じゃあ、お返ししないとな。」

 「え・・・?」

 「唇少しだけ開いて、それでちょっと突き出して。」

 「・・・こ~お?」

 「そう。じゃ、リラックスして。」

 「ん~・・・。」


 ほんの1cm程度開いた上下の隙間に唇を嵌め込み、軽く押し付けながらその真ん中で舌を這わせ込む。少しして前歯の先を擦るくすぐったさがあって、その後に、いよいよ熱くて柔らかい肉の切先に触れる。

 先端に感じた感触に驚いて一瞬引かれた舌は、すぐに自分からこちらの舌先を探しに戻ってきてくれた。お互いに触れ、擦り合わせ、食み、埋め合う感触と、それをすればするほどに溢れるお互いの唾液に溺れそうになる。触れ合いはさらに滑るように、なめらかに、加速していく。

 両腕を連理の細い腰のくびれから背中に回し、軽く腕を組むように抱き寄せると、連理もまた手持ち無沙汰だった両腕をこちらの首に回して抱き着いてきた。

 お互いの支えるべき所を支え、完全に安定した状態。

 「あ・・・あんりぃ・・・」

 「どうかな・・・?結構、自信あるんだけど・・・。」

 「・・・もうちょっと、しよ。」

 「オーケー。」

 色々な事、自分がここまで引きづって来た、色々な悩みやら不安やら、そういうものを一気に溶かしてしまえる時間が来ている。目の前で一生懸命に体温を捧げている大切な人が、とうとう自分を受け入れてくれたんだ。余計な事は考えるな。目の前の熱にだけ集中しろ。今目の前で自分と時間を共にしてくれている人間の幸せの事だけ考えるんだ。それが自分の幸せになったんだろう。




  ◇


 「・・・なぁ、アンリ。」

 「何、連理。」

 「そのさぁ・・・実はさ・・・その・・・」

 「・・・言ってくれなきゃ分かんないよ?」

 「・・・う~。意地悪・・・。ホントは分かってない?」

 「何のことだか。」

 「んん・・・。」

 わかってる。

 「その・・・、さっき蹴られてジンジンしちゃったとこ・・・。」

 「そこが?」

 「今、ずっと抱き着いてたからさ・・・グリグリして・・・それで。」

 「これの事?」

 「んぁっ!」

 気付いていた。身体を密着させて、キスをしながら頭を動かす度に少しずつ揺れる身体の、背骨のうねりがいつからか大きく、わざとらしくなっていた事は。腹に当たる硬い感触も。

 「んん・・・。なんかアンリ、いつもより意地悪じゃない?お前そんな性格だったっけ?」

 「そうかな。」

 「ん・・・、まぁ、アンリはいつも変態だけどさ・・・。」

 「言ったな!止めないぞ!」

 「んん!あっ!ん~っ!・・・もっと、ギュってしてほしいかもぉ・・・。」

 「お前はお前で女の恰好すると甘えたがりになるのか?」

 「やっぱり性格悪くなってる!」

 「違うって、ほら、気持ちいいように動いてみろって。」

 「ん・・・、気持ちいいって言うか、ずっとムズムズが続いているっていうか・・・。」

 「なぁ、今思ったんだけど、下着って、」

 「・・・見るか?」

 「いいの?」

 「ん・・・。」

 連理が真っ赤な顔でスカートの前側左右をゆっくり摘まみ上げる。

 「なぁ、笑うなよ?」

 「笑わないって。」

 「本当だぞ?」

 「約束する。」

 「・・・わかった。」

 止まった腕が再び動き始めた。

 品のある濃緑のスカート地。どうやら連理に女装を叩き込んだ親戚のお下がりらしいが、その事を思い出すと、余計に得体の知れない背徳感が、今連理が尻を押し付けている自分の部分にゾクゾクとした興奮を誘う。

 現れた白い布地は、確かに普通は生じないような、前側の生地を内側から押し上げるような緊張に対して、想定外というような生地の張りを表現していた。

 「どう・・・かな・・・。」

 チラリと盗み見た真っ赤な俯き顔をからかって、表情の変化を楽しみたい気持ちをグッと堪える。どうも、自分は連理といると皮肉屋っぽくなってしまうきらいがある。

 「可愛いじゃん。」

 「・・・なんか軽い。」

 「もっとわざとらしく言った方が嬉しかった?」

 「・・・ううん。ありがとう。嬉しい。」

 「それにしても・・・」

 「・・・あんまりジロジロ見んなっ!」

 「見てって言ったり見るなって言ったり、忙しい奴だな。」

 「俺、自分の、見られるの、イヤかも・・・。」

 「そりゃ、誰もそんなに見られて嬉しい事もないと思うけど。」

 「そうじゃなくて!・・・折角女の子の格好してるのに・・・なんで見せなきゃいけないんだろうって・・・。」

 「・・・あぁ。」

 確かに。

 「なぁ、連理。じゃあさ。」

 「なに?」

 「・・・そっちで、とか、どうだ?」

 「そっちって・・・。」

 視線と顎で促した先に敷きっぱなしの布団がある事に気付くのに、部屋の主がそう時間を取る事も無かった。

 「アンリ・・・本当に・・・?」

 「なんだ?嫌か?」

 「・・・。お前って凄いな・・・。」

 「なんでだよ。ほら、行くぞ。」

 「えっ!?あっ!ちょっと、降ろし・・・っ!自分で行くから!自分で行くから~!」

 煩い奴だな。褒めたら黙るかな。

 「折角可愛いついでに抱っこしてやってるのに。嫌なら降ろすけど?」

 「・・・いい。ありがと・・・。」

 腕の中で顔を近付けただけ、赤くなって縮こまるのも可愛かった。




  ◇


 「ほらよ。ベッドだぜお姫様。」

 正直疲れた身体には少し重かった。最後の最後で連理を布団に放ってしまった。

 「うわ!おいアンリ、繊細さに欠けるんじゃない?」

 「うるさい・・・」

 煩く動き出した唇を唇で塞いでやる。舌を回す元気が目標を失って、諦めたようにそのまま差し込んだこちらの舌に絡んでくる。良い手を知れた。今度はこちらが上の体勢で、さっきとは違って自分の方が自由が利く。

 しばらくして息が切れた連理が自分の胸板をパシパシ叩いてきてこの勝負には決着がついた。

 「やっぱりお前・・・こういうの結構・・・」

 「正直、蘭さんとするより楽しい自分がいる。」

 「・・・反応に困ること言わないでよ。」

 「ハハ、ごめんごめん。」

 「・・・母さんとは、どんなことしたの?」

 「聞きたいのか?」

 「聞きたいのと、聞きたくないのの間、って感じ。」

 「でも、俺は連理としてる方が、興奮してるかも。」

 「・・・変態っ!」

 「変態でいいさ。お前とこうしてられるなら。」

 最早止め時を見失っている。お互いに。全てが甘痒く余韻を残し、取り留めも無く目の前の快楽に対する誘いとなって押し寄せてくる。




  ◇


 「なぁ、ちょっと暑いんだけど。」

 「その制服借りもんなんだろ。」

 「うん・・・。」

 「こうも暑いと汗かくだろ。あんまり汚すの良くないと思うんだ。」

 「俺もそう思うけど・・・でも・・・」

 「なぁ、2人で布団被ってさ、顔だけ出してれば、身体も見えないし、いいんじゃないか・・・?」

 「・・・うん。」


 そこから始まった熱は時を忘れさせた。夏の熱射と隔絶した1枚の布団の中にあって、2人の放つ熱はそれ自体が夏よりも熱かった事に何の間違いもなかった。窓から入り込む蝉の喧噪は、荒らぐ吐息の風情を邪魔する事に少しの効果も見せなかった。お互いに求めるものの全てが眼前、腹の上にあり、また求めれば自然な形で捧げられもしたのだから、数瞬の時も持せずに全身をじっとりと覆った無味の汗は、乾く喉を置き去りにお互いの心を潤した。言葉が無くとも話しかけられたような目線の重なりや諸々の交わりは、全てが吐息の靄に霧散しながら再び敷き布団と掛け布団の隙間の闇に抜け、その奥で蠢く2つの蛇に涼し気な束の間の休息を与えるのだった。思考の隙間に時折握られたお互いの童心と肉欲の化身としての己らが、扱かれる快感に引ける腰を戻し、またその応酬というように連続する痺れの頂きには、ただ2人の疲労と甘い狼狽の震えだけが堪らず呼応するだけだった。ただただ目の前にあるのは少女のような悶えとその実不釣り合いに腹を押し返してくる硬さだけで、ただそれだけで満足できた。





  ◇


 「なぁ連理。」

 「なんだアンリ。」

 「俺たち何やってるんだろうな。」

 「俺も丁度考えてたところなんだ。」

 「あぁ、やっぱりそうだと思ってたんだ。」

 「あぁ・・・。」

 「・・・。」

 「・・・。」

 「・・・。」

 「・・・。」

 「喉乾いた。」

 「あぁ、喉が乾いた。」

 「お茶は。」

 「もう無くなった。」

 「連理の方が疲れてるだろ。俺が麦茶取ってくるよ。」

 「ありがとう。お願いする。」


 2人で並んで寝ていた布団から抜け出してドスドスと畳を歩いていると、いつの間にか脱ぎ捨てていた服が足に引っかかった。腰を折って拾い上げ、最低限だらしなく無い程度まで着込んで部屋を出た。


 窓の少ない2階の薄暗い廊下は夏の盛りも嘘のようにひんやりとしていて、裸足で出てしまったから床板の冷たさまで嘘みたいに身体を冷やした。蒸し風呂のようだった布団から抜け出して流し放しの汗すら最早結露のように冷えかかっている。

 「いや、さっきがあつすぎたんだ。今だって涼しい訳じゃないだろう。」

 早く連理にもお茶を届けないと、カツラは付けたままだったからきっと俺より暑い筈だ。

 階段を降りながら先程までの連理を脳裏に浮かべている自分がいる。少女の顔と男の感触のギャップに果てて尚冷め遣らぬ身体の疼きをまた沸々と波立たせてくるのだ。幸せの余韻にぼやけかけた視界は疲労によるものかもしれないし、この眩暈には若干の知恵熱めいた病理の影すら感じさせる。全く浮世離れした経験の切先に立っているのだ。

 「凄かった・・・。」

 「そうね・・・。」

 「連理があんなに可愛いなんて・・・。」

 「びっくりよね・・・。」

 「男も、ああなれるものなんですね・・・。」

 「あなたもなりたいの・・・?」

 「・・・え?」


 隣を並んで歩く蘭さんの姿があった。




  ◇


 「わっ・・・!」

 「あっ、声出さないで気付かれるでしょ!」

 「いつの間に!」

 「こっちのセリフよ!どんなもんかと思ってウキウキで帰ってきたらあんなことになってるんですもの!」

 「いや、だって連理が・・・」

 「まぁ!連理からなのね!そうなのね!」

 「いや・・・どちらかと言えば自分からかも・・・」

 「アンリくんからなの!」

 「というかなんで蘭さんがそんな事気にするんですか。」

 「そりゃ、気になるでしょ!」

 「まぁ、そうかも・・・。」

 「そうよ。」

 「・・・それよりも自分たち喉が乾いてて。連理の代わりに麦茶を取りに来てて。」

 「あぁ、そうなのね。ダメよ水分補給はちゃんとしなきゃ。」

 「すいません。なんか舞い上がっちゃって。」

 「まぁ、そうよね。お茶用意するからちょっとキッチンで待ってね。」

 「ありがとうございます。」


 キッチンの中をタカタカと歩き回る蘭さんの姿をボゥっと眺めている。

 「今日は外出しているって連理から聞きました。」

 「そう。ちょうどさっき帰って来たのよ。」

 「覗かれてたって知ったら連理怒りますよ。」

 「私は可愛い息子の成長が気になってるだけなのに・・・。」

 分かりやすくションボリした背中を見ていると、悪いとは思いながらも少しクスクスと笑いが込み上げてもくる。

 「僕はバラシません。」

 「ほんとぉ?」

 「なんたって同じ覗き仲間ですから。」

 「・・・アンリ君はやっぱりタダ者じゃないわ。」

 「そんな事ないですよ!」

 「まぁ、いいです。連理だって、きっとあなたじゃなければあんな秘密を告白できなかったわ。正直な気持ちもね。連理に代わって、ありがとう。」

 「いいえ。それに、もう連理からちゃんと伝わってます。」

 「・・・本当にありがとう。」

 ションボリしていた背中は何の報せもなく、そのままどこか落ち込んだような、寂し気な表情に変わってしまっていた。いつもの彼女のような若々しい快闊さではなく、どこか年相応の悩ましさを纏った面影に、初めてかもしれない彼女の「大人」を感じている自分がいる。

 今の自分には、彼女に伝えるべきことがある。

 「それと、連理も、蘭さんに。」

 「連理が私に・・・?」

 「蘭さんの事が大好きだって、どうしたって俺の母さんだって、言ってました。」

 「そう・・・。そう・・・。・・・そうね。」

 「・・・蘭さん?」

 「アンリ君、ちょっとこっち来て。」

 蘭さんの背中が言葉を投げてきた。

 「どうしました。」

 彼女のどんな気持ちにも応える義務がある、そんな気がした。ひょっとすれば、もう今までの彼女との遊びは終わるだろうから。

 「・・・アンリ君!」

 振り向き様の強い、強い抱擁が、疲労した自分の身体をガッシリと縛って左右に揺すりをかけた。


 「蘭さん!?」

 「アンリ君!ありがとう・・・!本当に!ありがとう・・・!」

 言葉の端に滴る彼女の雫の揺らぎが鼓膜を驚くほど強く震わせている、そんな錯覚を感じるほどに、彼女の抱擁は力強く、そしてそれ故に自分の腰と腕から身体を伝わる彼女の心の振動が、自分の背筋をヒリヒリと撫でている。

 「蘭さん、別に僕は、何もしてない。ただ状況に流されて、自分の欲に流されて、それが偶々あなた達にとっての意味になっただけで。」

 「そんなの関係ないの!私、あの日夕焼けの茜坂で道に迷うアンリ君を見つけて・・・。・・・本当は分かってた。あなたが連理の言う新しくできたお友達だって。でも、声を掛けてしまって・・・。自分の欲に抗えなかったのは、私の方だったの・・・!」

 「蘭さん・・・。」

 「あの日、君が帰ってから冷静になって自分を責めたわ。私はいけない事をしたんじゃないかって。その後も何度も、あなたと遊びたい自分と、母としての私の間で悩んで。」

 「・・・でも、蘭さんは僕と会ったじゃないですか。」


 自分を絞める腕の力が抜けて、拘束の為の抱擁が終わったことを理解した。いつもの密会の時のような優しいしがみ付きになったのだ。

 「・・・月草の手紙、覚えてる?」

 「覚えてますよ。忘れるわけない。」

 「あの時、君が来なければそれっきりのつもりだったわ。」

 「僕は行ってしまった。そんな悩みの渦中にある1人の女性に、大人としての分別あるあなたを期待して、責任を押し付けて、のこのこと庭に忍び込んでしまった。」

 「・・・2人とも、間違ってたのね。間違えたまま、馴れ合いに堕ちたんだわ。」

 「・・・でも、運よくこうして、3人で、分かり合えたじゃないですか。」

 「・・・そうね。なんでかしら・・・。・・・不思議ね。奇跡が起きちゃった。」

 「奇跡じゃない。最初から、あなた達親子は心で通じてたんじゃないですか。」

 「・・・それに気付かせてくれたのはアンリ君よ。」

 「・・・ありがとうございます。」

 「アンリ君。私、あなたの事が大好き。息子の友達として、息子の恋人として。1人の女として。」

 「・・・僕もです。」





  ◇


 「ねぇ、アンリ君。もう私とは会わなくなっちゃう・・・?」

 抱き着いて横顔まで自分の胸にくっ付けていた蘭さんが、そのまま上目遣いに訊いた。

 「・・・連理には、そうしてもいいと言いました。蘭さんに殴られても構わないとも。」

 「・・・アンリ君に振られたら、私、悲しくて君のこと殴っちゃうかもしれないわね・・・。」

 「僕はいいんです。蘭さんが悲しんでるんだから。」

 「・・・こんな優しい子、殴れる訳ないわ。」

 「・・・。」

 「アンリ君、これから会うかどうかは、君が決めて。私が泣いたっていいのよ。大人ですもの。」

 「蘭さん・・・。」

 「・・・でも、最後に1回だけ。」

 「1回だけ?」

 「・・・お願い。」

 唇を食まれる。自分と言うアイスクリームが掠め取られているみたいな気分だ。いつものような煽情的な舌の絡みではない。もっと口全体、顔全体、顎を使って、喉奥から手を伸ばす心そのものが求めてきているような情熱。一瞬引きそうになる口と頭と、その中で物事を咀嚼しようとしている脳味噌そのものが、彼女の優しさやその奥の実際的な切なさに共鳴してしまうのだ。抗う気力など毛頭浮かばない。ただ、また、彼女の為のキスをしてあげたいと、拙い自分でも分からずにはいられない。

 これだけ深く唇を重ね合わせても心臓の鼓動は死んだように落ち着いていて、鼻先が暑くなるような緊張と快感もない。ただただ慰みが横たわるなら、このキッチンには昼下がりの仄暗い静寂が用意されたのだ。

 「・・・。今夜連理とも話すわ。」

 「そう、ですか・・・。」

 「多分、私も連理も、話せるようになったから。」

 「連理に」

 「言わなくていい。あなたが帰ったら、絶対に話すんだから。」

 「・・・明日も来ます。連理に会いに来ます。」

 「わかったわ。」

 「そろそろ戻らないと、アイツも喉が乾いてる。」

 「そうね。はい!これ、麦茶。持ってって!」

 「ありがとうございます。・・・それじゃ。」




  ◇


 「連理、戻ったぞ。」

 「あ、おかえりアンリ。」

 連理は、布団の上で再びセーラー服に身を包んでカツラのツインテールを小首を傾げながらまとめ直していた。灯りが点いていないせいで若干薄暗い気怠さが降った四畳半の寝室に南の開いた窓から、鬱陶しいくらい埃っぽい金色の日射しがくっきりと射しこんで、丁度女の子座りをしてこちらを振り返る連理の、露わになった右腿の半分から先を撫でまわすみたいに日光に晒していた。

 「お前、スカート。」

 「うん、暑いから短めに巻き上げて見た。結構短くしてみた。」

 「良いのか。膝は隠すとかなんとか。」

 「・・・アンリには、良い。もう裸でくっ付いちゃったし~♪」

 「そうか。まぁ、それなら俺もいいんだ。それよりお茶持ってきたぞ。飲もう。」

 「あ!ありがとう!」

 連理が布団の上で立ち上がってトコトコとこちらに駆け寄ってくる。

 「・・・やっぱりセーラー服似合ってるよお前。」

 「えへへ~、嬉しい。」

 どうやら服装を直して再び女の子に戻った事は何となく分かった。それ以上に、どれ程練習したのかも見当が付かないけれど、この連理はやはり「本物」と見紛う程に、よくできているのだ。


 「俺は疲れたから今日はもう帰るよ。」

 「うん。わかった。」

 「・・・なぁ、連理。お前、蘭さんとは・・・」

 「話すよ。ちゃんと2人で向き合って。」

 「・・・そっか。」

 「ありがとう。アンリ。」

 「俺は、何もしてないよ・・・。」

 「ねぇ、アンリ。」

 「なんだ・・・って!うわっ!」

 「大好き~~!」

 「おいお茶が零れる!」

 「知らないも~ん!」

 「あのなぁ!・・・はいはい、分かったから。俺も好きだよ。」

 「どっちのぼくのことが?」

 「・・・どっちもだよ。」

 「アンリ・・・ありがとう・・・」


 今日はこんな調子ばっかりだ。

 やっぱり親子だ。この2人は。

 「頑張れよ。」

 「うん。応援してね、アンリ。」


 そうして、やっと遠藤邸を発った。

 これだけの午後を過ごしてもまだ高い夏の日は、自分が降りる坂をその名に染めるのをまだまだ勿体ぶっているようだ。気が抜けるくらい眩しい空に眉を顰めて下ろした視界に映るいつも通りの屋根先の影の連なりをゼェゼェとなぞって下駄を鳴らすのだ。

 残った疲労は、またしても目の前の状況に流されただけの無力な男に課せられた重りに感じた。




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