第12話

  ◇


 喉が乾く夏の昼だ。俺はひたすら、鉛筆の先を数学の宿題ノートに擦り付けている。20秒に一度巡回してくる扇風機の風にページが飛ばされないようにノートの紙面を抑える事だけが、今この空間における自分の許された自由だろう。

 別に立ち上がっていいんだ。便所に行ったっていいんだ。俺は、ある意味、いや完全に自分の為に、ここに来ている筈だろう。

 なんでこんな重い気分のまま、宿題に頭を沈めていなければいけない。

 それを解決したいなら、俺は今から、目の前で机に向かっている、この男、に、まだ何も分かっていない何かについて、話し合わなければならない。


 「なぁ、連理。」

 「・・・なんだ、アンリ。」

 「喉乾かないか。」

 「そうかな。まぁ、そうかもな。」

 「な?じゃあ、俺ちょっと水飲んでくるからさ、」

 「いや、俺がお茶を取ってくる。待っててくれ。」

 「・・・あぁ、そうだよな。すまん。」

 「いいんだ。」

 そう一言だけ言って、連理は部屋から出て行った。


 この部屋に1人だった事は殆ど無かったかもしれない。連理が普段から生活している部屋なんだろうが、塵1つ落ちてない、綺麗に使われている部屋だ。部屋の隅には制服やシャツがかかっていて、それは、当たり前だが、男物だ。

 今頃、連理は蘭さんからお茶を受け取っているのだろうか。それとも麦茶を作っているのは1度会った事のある女中さんか。そういえば、連理から”初めて”蘭さんを紹介してもらった日に会った以降、あの女中さんの姿は見た事がない。自分は、人目を盗んでいたとは言え、かなりの回数蘭さんと密会をしていたから、その内全ての日にあの女中さんは来ていなかったのか。そんな事が、あるのか。いや、蘭さんがそういう風にしていた可能性も、ある、かもしれない。

 部屋の襖が開いて、ヤカンを持った連理が戻って来た。

 「ほら、麦茶。」

 「ありがとう。連理。」

 「・・・ふ、いいんだよ、別にさ。」

 連理は、今の自分には罪悪感すら感じさせるような優しい笑みを自分に向けた。なんでそんな風に笑ってくれるんだ。俺は、昨日・・・。いや、ひょっとしたら昨日の、アレは連理じゃなかったのかもしれない。そうであってくれたら。

 「・・・はは、なんかすまんな。」

 こんなに下手な作り笑いをしたのは初めてだった気がした。




  ◇


 「・・・アンリ。いいか。」

 「・・・なんだ。・・・なんでも聞いてくれ。」

 「お前は、俺の母親についてどう思う。」

 「・・・すまん、本当に、どういう質問なのか、わからない。」

 「あぁ、いいんだ。聞き方も悪かった。だから、その・・・。俺の母さん、かなり、綺麗だろう?」

 全く、同意の言葉しか浮かばないのだ。恐らく誰よりも首を縦に振って頷ける人間の1人であることは、もう、認めざる負えない。

 「・・・あぁ、正直、初めて会った時は、少し、いやかなり、驚いたよ。・・・その、まぁ・・・。うん。」

 「俺の母さんは綺麗すぎる。」

 「・・・でも、それが、なんだって言うんだ・・・?母親が美人なのは素敵な事じゃないのか?」

 「あぁ、まぁ、普通はそうかもな。」


 目の前の色白の男の、わざとらしくもなく深く息を吸った事は、これから始まる彼の告白がどれほど真に迫り、また彼の中で覚悟され練り上げたものになるのかを察するに余りある空間の沈黙を演出してくれた。そう感じた。

 「父の慢性的な不在。最早幼な妻とも呼べるくらい若く美しい母親。手間のかからない息子。・・・この広い広い屋敷の真ん中で、そんな暇とまだ冷め遣らぬ若い情熱を持て余したのなら、一体、人はどんな行動を取るんだろうな。」

 「・・・すまん、やっぱり、今日の連理の言いたい事が、俺には、俺には、まだよく、わからないかもしれない。」

 まだ誤魔化す気力が自分に残っていた事に自分で驚いた。

 しかし、もう無いだろう。

 「俺が物心着いた時、そうだな、10年くらい前って事でいいだろう。俺がこの家の内情をなんとなく意識できる頃には、もうこの屋敷の中には、かなり頻繁に、父では無い男たちの影があったよ。」

 蘭さんと交わして来た幾つもの言葉の中からフラッシュバックする、『しばらくいなかった。』。彼女自身から聞けなかった、彼女の真意の片鱗を突き止めた気分だ。

 「・・・どうして、いきなり、そんな話をするんだ。」

 「・・・母は、お前に紹介した日の、ああいう淑女然とした事もできるけど、やっぱり、その実、かなり、いや相当賑やかな人でな。こんな言い方が正しいのか分からないんだけど・・・。人が、好きすぎるんだよ・・・。普通なら家族にしか注がないくらいのものを、気に入った人皆に振り撒いちまう人なんだ。」

 「おい!連理。」

 「なんだ。」

 「いくらなんでも・・・実の母親をそんな風に言うのは失礼じゃないか・・・?」

 「・・・アンリ、お前の言う通りだよ。ずっとなんて言えば良いか分からなかったんだ。俺はな、母さんの事、大好きなんだよ。もうバレてるかもしれないけど!・・・だから、小さい頃から複雑だったんだ。あんな風に、まるで、実は同級生の女の子なんじゃないかってくらい、明るくて優しい母さんに甘えたりするのが。そんな母さんが、息子の俺以外の人間にもそんな愛情を振り撒いちまうのがさ。」

 「・・・あぁ。」

 「これを話すのはお前が初めてだったんだよ。アンリ。」

 「・・・なんで、俺なんだ?」

 「初めてできた、友達だから。俺の事をこっそり観察するような変人かと思いきや、馬鹿みたいに素直で真っ直ぐでさ。友達んちにわざわざ饅頭買って持ってくるような奴。そんで、友達んち来て、わざわざクソ真面目に勉強ばっかする奴。信用できない訳ないだろ。」

 「そ、そっかぁ・・・。」

 「ハハ!ばーか・・・。それで、母さんの事・・・だけど。その・・・なんて言えばいいか・・・。」

 「・・・無理するな。」

 「・・・あぁ、ありがとう。ありがとう・・・だが、お前も」


 「俺も、お前の言う、お前の嫌いな奴らと同じ事をしてた・・・。多分、そうなんだろう。」




  ◇


 「・・・どっちからだ。」

 「どっちから・・・って」

 「どっちから迫った。それを、教えてくれ。母さんは今まで数人相手がいたが、中には母さんに迫った奴もいれば、暇を持て余した母さんの方から・・・っていうのも、いたよ。」

 「・・・連理に地図を描いて貰った時だった。道に迷ったんだ。言ったろう?そこで会って、向こうから誘われた。」

 「本当か?」

 「・・・信じられないなら、許してくれなくていい。俺には何の資格もない。」

 「・・・1つ、聞きたい事があったんだ。もし、母さんと関係を持ってる奴と、こうして話す事ができたら。」

 「なんだ。言ってくれ。」

 「母さんは、俺の事を何か言ってたか?」

 「何かって?」

 「俺がつまらない奴だとか、愛せないだとか。」

 「連理、お前・・・。」

 こいつは、

 「馬鹿野郎。」

 「何がだ!」

 「『大好きよ。当たり前でしょ。』って、蘭さんはそれしか言ってなかったよ。」




  ◇


 この男をこれだけ間近で、長い間観察していて、ここに来て初めて見る姿だった。ただ押し黙って眼下の畳を眺める狭い肩は震えるでもなく、荒く上下するでもなく、ただしかし、自分のような他人には決して推し量れないような複雑な感情をその中で咀嚼していることだけは、間違いのないことのように思えた。

 「なぁ連理。俺はふと思ったんだけども。」

 「・・・なんだ。」

 「お前と蘭さんはさ、もっと2人で面と向かってよく話し合うべきだよ。」

 自分で言って、自分がこの屋敷に足を踏み入れてから初めて、自分の意思でなにかを行動できたような気がした。蘭さんの意のままではなく、連理の迷惑にならないようにと気を遣う事も無く、初めて自分で思った事を自分の意思で、この屋敷の住人に伝えることができた。その事が自分の中にじんわりと恥ずかしいくらい響いた沁みたのを感じた。

 「・・・そうだな。俺も、母さんも、よくよく考えてみたら、それだけを避けていたのかもしれないな。」

 「そうだ、と、俺は思った。彼女、蘭さんも、お前に話せてないことや話したいことがたくさんあるんじゃないかって、そんな気は前々からしてたんだよ。本当だ。」

 「・・・まぁ、お前がそんなことで嘘をつくような奴じゃない事は、俺も知ってる、つもりだよ。」

 「ありがとう連理、なら、もしお前から言い出すのが嫌なら俺から。」

 「・・・でも、俺は今、いや、今回だけは、母さんを許せないことが、あるかもしれないんだ・・・アンリ。」

 「・・・なんだよ。その許せないことって。」

 「・・・母さんが、俺の初めての友達、俺にとって大切な・・・大好きな、友人を、俺からこっそりつまみ食いして、取ろうとしたことが、自分でも驚くくらい許せないんだ。大好きな人を。」




  ◇


 「大好きって・・・、お前。」

 「あぁ、お前のことが好きなんだ。俺。」

 「おいおい、それって・・・男同士だぞ、俺たち。」

 「そんなことは分かってる!分かってる、けど。」

 「けど?」

 「・・・言葉にするのが恥ずかしい。」

 ここで言い淀まれるのも個人的には心臓が煮えるほど恥ずかしいのだが。

 「・・・なぁ、連理。」

 「なんだ。」

 「俺はよ、お前のことは、まずは、友達として好きだよ。本当だ。」

 「・・・ありがとう。でも、今の俺の、この感情は・・・。」

 「・・・あぁ、なんだか、お友達で済むような、感情じゃないんだろうな。」

 「・・・うん。」

 「・・・でも、でもさ、ひょっとしたら俺も、お前と同じなのかもしれないな、って、思ったりする。」

 「どういうこと、アンリ。」

 「俺はお前ほど賢くないんだ。だから、ひょっとしたら、お前みたいに自分の気持ちをちゃんと自分自身で理解して、お前みたいに言葉にできていないのかもしれないな、ってさ。」

 「アンリ・・・。」

 「お前が嫌なら、俺は今日、蘭さんとの関係を辞めるよ。」

 「な、お前・・・できるのかよ。」

 「できるさ。・・・ちょっと残念だけど。なんなら、今すぐ下に行って蘭さんに『連理ともっと一緒に過ごしたいので別れます。』って思いっきり振って、ついでにぶん殴られてきてもいい。」

 「・・・母さんなら、殴るかも。」

 「・・・やっぱり?」

 「あぁ、別れ際の母さんはちょっと怖いんだ。」

 「・・・怖くなってきた。」

 「・・・いい。それはお前の好きなようにしろよ。」

 「なぁ、やっぱり、連理はもっと俺と蘭さんが色々やってた事を俺に怒っても良いんだぞ。というか怒るべきだ。というか、俺は今日怒られに来たんだ。ボコボコにされて絶縁されるかもなって思いながら来たのに。なんだか来る前より申し訳ない気分なんだが。」

 「やっぱりそうなのかな。」

 「なんで、お前は彼女のそういう事にそんなに冷静になってしまったんだ。」


 俺にとって、ずっと暗雲に包まれていたこの屋敷の妖しげな雰囲気が、突然その全容を現していくのを感じる。電灯も点いていない四畳半の暗がりと扇風機の生温い風に反して、自分は雪山のクレバスを覗き込むような腹の下の血の気が引く虚無感にぼんやりとした不安を永遠と感じ続けてしまう。


 「母さんは、結局ずっと母さんだ。俺にも優しいままだし、父さんが偶に帰ってくる時なんかは、ビックリするくらい父さんに甘えてるし。やっぱり父さんの事は大好きなままみたいだし・・・。小さい頃は今みたいに冷静じゃいられなかった。母さんの部屋を覗いたら知らない男が母さんといるなんて、考えたくもない事なのは、アンリも分かってくれるだろう。」

 「・・・わかる、とも。」

 「俺は母さんの出汁巻き玉子も好きだ。」

 「そういえば俺は食べさせて貰った事ない。」

 「食わせてやるもんか。」

 「あぁ。そうだよな。」

 「なぁ、アンリ。」

 「なんだ。」

 「驚くなよ。」

 「今度はなんだよ。」

 「俺、今日お前に告白できたのは、母さんのおかげだと思ってる。」

 「・・・なんで!?」

 「・・・俺が好きになった人を、母さんも好きになってくれたから。俺一人じゃ出しきれなかった勇気を、最後に母さんが押してくれちゃったんだよ。」


 「なぁ連理。」

 「なに?」

 「じゃあ、俺は今から、お前の気持ちだけ聞くよ。」

 「なんだ、どういうこと?」

 「蘭さんのおかげでお前の気持ちを聞く事ができたんだ。だから、」

 少しずつ伸ばした腕の先で、うな垂れていた連理の白くて指の長い手を持ち上げた。

 「お前の気持ちだけが聞きたい。お前の言いたい事、お前の好きな事、お前の嫌なこともさ、ちゃんと俺に言ってくれよ。な?受け止めるから。」

 「アンリ・・・。」

 自然な流れだった。連理と目が合い、呼吸が合い、気付けばお互いが身体を近付けて、握り合わせた手の感触は優しく。まるで熱が出たみたいに、顔が熱くなっていくのを感じた。この感覚を、2人で共有したいと思った。

 やはり、結局、始まりのタイミングなんか分からなかった。




  ◇


 「・・・連理、どうだ?ひょっとして、初めてだった?」

 「・・・いや、実は初めてではない。」

 「マジか・・・。」

 「男とは初めてだけどな。」

 「そうか・・・。」

 何に落ち込み、何に安堵しているのか、自分でもよく分からない、自分の中のもう一人の自分が、勝手に内側で腕を張って操ろうとしてくるみたいだ。

 「身体が熱い。」

 「俺もだ。」

 「でも、なんだか心地いいな。」

 「なら良かった。」


 今日初めて訪れたひとまずの平穏。気付けば昼も佳境という時間。南の空に高く輝いている日射しの光線が灯りのない部屋の窓をくっきりと畳に照射し、それだけで部屋はなんの不便もない明るさに満たされている。開け放った窓からはいい加減喧しいセミの声が流れ込んでくるのに、今の自分は一瞬前の出来事に高鳴った鼓動の音が鼓膜を内からドクドクと打ち鳴らしている。目の前で恍惚としている人間の、いつになく血色のいい頬を撫でて見たくなる。そんな気怠い午後に落ち着いた。


 これで、やっと、聞けるだろうか。


 「連理、いいか?」

 「なんだ?今日はもう疲れたよ・・・。」

 「そうだろうが、俺はお前にまだ聞きたい事を1つ抱えたままでいる。」

 疲労から畳に倒れ込みそうな上半身を腕で背中につっかえていた連理は、自分の投げた言葉に数秒の解釈を要した。高鳴る鼓動に同調するように弾んでいた胸板が静かに動きを止め、一筋に結ばれた唇は見上げていた天井に発する言葉を探している最中だった。

 「お前の気持ちは聞いたよ。でも、それでも足りてない説明を、最後にお願いできないか。」

 「・・・あ~。」

 よく悩んでいる。俺が今の連理だったとしても、ああなるに決まっている。いや、俺はああいう事をしたいとも思った事はない。だからこそ、こればかりは当事者から聞きたいことではあるのだが。

 「言いたくないなら言わなくても良い!・・・ただ、それだと俺はこれからもあれだけは戸惑う事になる。」

 「・・・なぁ、明日じゃダメか?」

 「わかった。ありがとう。」

 「うん・・・。実際説明が難しいんだよ。」

 「それはわかるよ。」

 「ありがとう。」

 「じゃあ、俺、今日はもう帰るか。」

 「帰るの?」

 「うん、1人の方が考え易いんじゃないかと思う。」

 「・・・確かに。」

 「じゃあ、明日の正午、来るから。」

 「うん。待ってる。」

 「じゃあ。」

 「なぁアンリ。」

 「なに?」

 「最後に、もう1回。」

 「・・・ハハ。いいよ。」


 蘭さんと比較するのは連理には悪いけど、仕方が無い事だというのも許してほしい。お前の唇の感触が彼女によく似ているのも悪いんだ。閉じた瞼から伸びる長い睫毛も、細い癖にほんのり柔らかくて優し気な頬も、全部あんまり似てるから悪いんだ。

 控えめに差し出される唇に触れる優しい感触が自分の好みなのだと気付けたことは、いつかちゃんと伝えようと思う。



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