第9話
◇
「アンリー!次で最後だぞー!気張れよー!」
「あいよー!」
茜坂は入り江の港町としての一面を持っている。坂の中腹には鉄道駅がある為か、町の中に入ってしまうと、坂道は健在ではあるものの、いわゆる明らかな水産の町のような磯の香りや魚市場の表情は消えてしまうけれど、ちょうど自分が住んでいるような坂の下方区画の辺りは、そうした町の雰囲気の境界線として、「上がれば街、下れば港」という、なんともこの町の性質をよく見渡せる環境にある。
そんな場所で育った自分にとって、小さい頃から港は最高の遊び場だった。そして自分を育ててくれたのも、またこの港の人情に違いない。
「うんしょー!」
「よいしょー!うぉっ!?船長これ1人の荷物かよ!?」
「おーい!そっちから空いてるの2人ー!」
「潰れちまうよ!」
「踏ん張れアンリ!」
「おう!」
遊び場だった港は、最近になって稼げる場所にもなった。今自分に育ち盛りの子供ほどもある大きさの紙箱を渡している船長は、小さい頃から自分をよくしてくれたこの港の男で、この入り江の端から端へ鉄道便の代わりに郵便物や小包を運ぶ小型郵便船を操縦して生活している。最近、だいぶ身体も出来上がってきた自分を見込んで駄賃の代わりに荷下ろしの仕事を手伝える事になったのだ。だから今こうして大粒の汗を流しながら、荷室から次々と顔を出してくる荷物の山を地上の郵便局員たちに受け渡す作業をしている。
「ほれ、今日の分。」
「ありがとうございます船長。」
「夏休み楽しんでるかい?」
「勿論。」
「学生は勉強もそこそこによく遊んでおけ。今しかできないこともある。」
「うん。・・・でも宿題も多いよ・・・。」
「馬鹿野郎。宿題くらいさっさと終わらせちまうんだ。それくらいやって”そこそこ”だぜ、アンリ。あんなオンボロ船だって航路と燃費の計算ができなきゃ一丁前に動かす事だってできねぇんだ。」
「そうだね、船長。」
「その駄賃で好きなもんでも買いな。じゃあまた頼むよ、アンリ。」
「ありがとうございました!失礼します!」
「おう!」
家までは駆け足で5分くらい、午前の2時間程度で終わる荷下ろしが済んでしまえば今日1日は自分の好きなように過ごすことができる。何をしようか。駄賃もある。
「ん?」
最後の曲がり角を曲がって玄関が見えると、その前に1人の人影を見た。
「誰だ・・・?」
服装はズボンに肘まで捲ったシャツと革靴。この暑い季節にしては挑戦的なまである服装の腕には脱がれたベージュのコートが畳んでぶら下がっている。熱中症になってしまうんじゃないか。
そんな風変りな背の高い男が、まさか自分の家の玄関に立って留守を伺っている。
客人をもてなすのなんて慣れてないのに。
「あの~・・・?どちら様ですか?」
「え!?あぁ、私は今この家の人に訪ねているんですが、生憎不在のようで、平日に訪ねたのも悪かったですが・・・」
「え~と、つまり・・・ウチになにか用ですか?」
「は?ウチ?君は・・・君は、アンリ君かい!?」
「え、はい。」
「そうかあのアンリ君か!君がね・・・!」
「どなたでしょうか!」
「君のお母さんから聞いてないかい。・・・私の名前は、・・・坂下究。君の母親の、兄。伯父に当たる人間です。」
「・・・あぁ!」
出会いは突然に。
◇
「すいません、母も今は不在みたいで。」
「いや良いんだ。あの子にも今日来る事は伝えそびれたし、それに、僕としては、アンリ君ともいつかこうしてお話がしたかったんだ。」
今のちゃぶ台に向かい合って座る男は、母の話が確かなら、元々この家の家主でもあった筈で、なら別にもっと崩れていてくれてもいいのに、背筋を伸ばして真っ直ぐ正座で向かい合ってくる。客人の態度だ。逆にこっちの方が居心地が分からなくなるじゃないか。
「暑くないですか?今冷茶を取ってきます。」
「あ、あぁ、ありがとう!確かにここの夏は暑い。戻ったのが久し振りだから忘れていたよ。」
「いつぶりなんですか?」
「そうだなぁ。2年ぶりくらいになるかもしれない。」
2年前にも来ていたのか。自分とは会わなかったということか。一応客人のようではいるけれど、かなり近縁の親戚だし、少しくらい砕けてみてもいいだろうか。
「伯父さんの服見た時ビックリしました!内地はまだ涼しいんですか?」
「いや、外の気温は変わらないね。ただ、仕事柄室内にいる事が多くてね、そこら中で扇風機が循環しているし、なにより、暑さよりこういう外見の、見てくればっかり大事にしなきゃいけないから。」
「は~ん。都会も大変だ。」
「百合から僕の話は聞いていないのかい?」
「百合・・・あぁ、母さん。母さんの手紙は、読んでません。伯父さんの話も聞くけど、なんだか聞いてるとこっちが恥ずかしくなっちゃって・・・。」
「あぁ・・・、まぁ、昔から、えらく懐かれていたから・・・。あんまり年が近くないんだ。小さいうちに預かってさ、2人暮らしなもんだから、僕も最初は親代わりみたいになっちゃって。もう少し厳しくすればよかったって、今になって思う。」
「・・・ま、俺にはあんまりピンと来ない話です。どうぞ、麦茶です。」
「ありがとう。・・・はぁ!生き返るっ!」
「良かったです。」
「麦茶ってさ、その家の味になるって言わないかい?」
「あぁ!わかります!俺も友達と遊んだりする時、人ん家の麦茶飲んで、違うなぁ・・・って、思う事あります!」
「そうそう!今の場合、俺はこの麦茶に正に家の味を見たよ。」
「やっぱりこの家にも住んでたんですよね。」
「あぁ、俺、学校の先生をやってたんだ。」
「初めて知りました。」
「そうかいそうかい。それで、まぁこういう地方の公立で教えるっていうのは、もう転勤ばかりの宿命でね。それでこの家には、やっぱりこの町の学校に転勤した時に、百合と探して入居した。」
「ぼくが今まさにそこに通っています。」
「あぁそうだろうとも。この後校長先生にも挨拶に伺うんだ。」
「あの校長って、そんなに前からいるんですか?」
「ぼくの時は教頭だったよ。出世したんだね。」
「・・・若い頃の母さんって、どんな感じでした?」
「とても可愛げのある子だった。僕に懐いていたからね。あと、元気な子だった。2人しかいない我が家のムードメーカーさ。いつも賑やかだった。」
「なるほど・・・。なんか、分かるかも。」
「逆に、僕は今の百合の事も聞きたいな。」
「今の母さんですか?う~ん・・・、まぁ、概ね伯父さんの仰る母さんがそのまま大人になった?ような感じですかね。・・・ただ酒を飲むと羽交い絞めにされます。」
「はははは!アイツの寝相の悪さは酒癖にも出たか!」
「最近、少し飲みが荒い気がしてて。」
「今度手紙にも書こうかな。」
「まぁ、折角の兄妹仲に水を注さない程度に・・・」
「そんなの分かってる。君は心配しなくていいんだ。それに、また近いうちに妹とも直接会いたい。やっぱり顔が見たいんでね。」
「じゃあこの辺りに泊まるんですか。なんならウチに・・・」
「いや、大丈夫だ。・・・ホテルを取っているんでね。」
「そうですか。分かりました。母にもそう伝えておきます。」
「あぁ、頼むよ。日曜日に伺うから。」
「わかりました。」
「じゃあ僕は行こうかな。」
「もう行くんですか?」
「あぁ、校長は話が長いんだ。君も知ってるだろう?早めに行かないと、日が暮れちまう。」
「アハハ!」
「アンリ君。」
「はい?」
銀縁の眼鏡をかけた品の良い壮年の男性が、真剣な目付きで自分を見つめてきた。目を見られている感じじゃない、自分の出で立ち全部を視界に収めているような感じだろうか。
な、なんなんだ!?
変な所でもあっただろうか。確かに、今は凄く汗まみれだ。多分、蘭さんが見たら有無を言わさず風呂に放り込んでくる、それくらいには港の軽くない軽作業をしてきた訳だけれど・・・。
「あ、あの・・・。」
「・・・うん。やっぱり、似ているな。」
「誰にです?」
「・・・百合にだよ。」
「そりゃ、息子ですから・・・。」
「あぁ。・・・あぁ、そうだとも。君は、百合の子供だ。」
「はい・・・。」
「・・・うん、じゃあ僕は行く。」
「はい。」
「百合によろしく!」
「わかってますって!」
立ち上がったスーツの男は来た時よりもずっと清々しそうで、そして玄関に向かう背中はどこか力強くも見える。
「アンリは勉強も友達も上手くいってるかい。」
広い背中が語りかけてくる。
「はい。最近は仲のいい同級生から勉強を教わって。落第予備軍はすっかり抜け出せそうです。」
「ハハ!結構結構!」
伯父さんは坂の上に去って行った。胸ポケットに畳んでしまっていた紺色のネクタイを途中の潮風が吹き飛ばしたらしく、去る背中の肩の奥からたなびいて、まるで男の代わりに別れの挨拶に手を振っているような気さえした。自分も軽く見えないだろう手を振り返す。
伯父は自分が母に似ていると言ってくれた。なんだか少し嬉しかった。しかし、自分だって彼がそう思う為に自分を見つめていた時間、持ち前の人間観察の特技で持って伯父を観察していたのだ。
伯父には言わなかったが、鏡で見る自分の顔と伯父の顔はどこか似た面影があった。近親者の繋がりを感じるのには十分な位に。
短い時間だったけれど会えて良かったと思う。
「さて、どうするかなぁ。」
昼飯を食おう。腹はとっくに減っている。何を食べよう。
「あ、そうだ!」
丁度自分には駄賃がある。それも船長に働きを買ってもらって、今までの自分からすればかなり融通の利く金額を貰えてしまっている。それも、昼飯に都合を付けられるくらいには。
「外で食べよう!」
◇
茜坂には鉄道と港がどちらもある。この坂道だらけの街が繁栄したのはそのおかげだと小さい頃学校で習ったのを思い出す。港寄りの家を出て坂を登り、学校の前を通り過ぎて、そこからさらに西北西に10分ほど歩いたところに、鉄道駅はある。
普段はあまり来ない。それも今の自分の生活には茜坂の外の事はあまり関係が無いからで、偶に母に引き連れられて買い物の荷物持ちをしなければいけない時に乗るくらいだ。ただ、今日自分が駅に向かうのは鉄道に乗る為じゃない。駅の周りというのは大抵その街で一番栄えている地域で、兎にも角にも食事処が多い。
どうしても高低の激しい土地のせいか、近代土木技術の粋のような中空の駅舎によって生み出された薄暗い高架下には無数の居酒屋が軒を連ね、赤提灯に酒の文字を入れて吊るす所やら、割引情報やらおすすめの品を書いた看板を思い思いに張りつけた所やらが昼間から焼き鳥網の煙を路地に吐き出している。まるで近場に火事でも起きたんじゃないかというくらい充満した埃っぽいモヤが、真っ直ぐ続いている筈の道の向こうの景色すら隠してしまうような有様で、しかしその中に充満する肉や色々な調味料の甘じょっぱい薫り、そして楽しそうに酒を飲む人々の喧噪が、そこでしか味わえない下町の美味しさを演出しているのである。
「まぁ、居酒屋になんか入れないんだけど。」
酒の一杯も飲めないガキに空いてる席はない。「席に座るのはまず最初の一杯を頼んでから」というのがここの決まりだと、偶々船長に付き合わされて入った時に教えて貰った事がある。今日の自分に許されるのは、そんな店々から焼き鳥タレの焼ける匂いを嗅ぐ事だけ。
「偶にしか来ないんだ。少し散歩をしよう。」
駅前にあるのは別に居酒屋だけじゃない。土産屋に駄菓子屋に郵便局に本屋、八百屋、魚屋、そして日用雑貨と金物屋。茜坂商店街として定着した並びは、言うなれば、この街の機能が一挙に集まった場所なのだから。
「菓子でも買うか。いやでもこれから昼食だし・・・。別に土産物っていう気分でも無いしなぁ・・・。おっ!」
商店街の端、T字路の奥向かいに一際大きな建物が見えてきた。
「本屋か・・・。」
『茜坂書店』と書かれた南向きの飾り看板が昼の夏の日射しによって真っ白に化粧粉を振られて気怠げに佇んでいる。
「最近は少しは賢くなったし、何か感じるものも違うかもしれない・・・。」
この2月程で自分は大分賢くなった。なんたって勉強の「べ」の字も無い生活から、気付けば朝の予習に放課後の宿題まで、学年主席の2人に指導を付けて貰うような生活に変わったのだ。期末試験の結果だって驚くべき躍進だった。どれ位かと言うと、終業式から帰って、自分以上にびびり散らかしていた母さんに成績表を見せてやったら涙を流して抱き着いてくるくらいだ。馬鹿にされ過ぎだったんじゃないか?
「それに、連理の話にももっと着いていきたいしな。」
期末試験の勉強の折に連理から聞いた事を時々思い出す。「全く分からない事に出会った時は注釈を読め」というのもその1つだったが、そうした諸々の話の結論としては、大抵の場合「もっと本を読め」というのが連理の言いたい事だと理解した。自分と彼の思考を隔てている最大の壁は教養にある。それに、勉強ができないことを自虐的に晒しておきながらも、やはり知識で負けている事には少しの悔しさもよく感じた。連理にしても、俺があんまり馬鹿なままだとそのうち愛想を尽かしてしまうだろうし。それは大変不服だ。
書店の扉を潜った瞬間に居酒屋街に燻ぶっていたのとはまた違った埃っぽい香りと独特の紙の匂いが鼻に入って来た。真昼の明るさに打って変わって眠たいくらいに落ち着いた薄暗さの店内は、入って数秒後の暗順応を待つまで、足元に無造作に積まれている書籍の摩天楼を蹴り崩さないか心配にさせた。
あまりにもこの場に慣れていなさすぎる。もはや迷路に迷い込んだような心地だ。天井に細い鎖で垂れ下がる書籍の分類看板に目が止まるまで、軽く店内を半周はし、読む筈もない婦人誌棚の前で立ち止まって仕方なく美味しそうな料理写真が表紙の雑誌をパラパラと立読みするフリをしていた。
「科学の本は・・・この辺かぁ。」
隠す気も無く、宙に浮ける程の背伸び気分だ。こんな書籍の山も既知と、大半を一瞥できる人々の仲間入りがいきなりできるとは思っても見ていない。取り敢えず平積みの書籍の表紙を流し見て、そのどれかが連理の話に掠った時にまた来るつもりだ。
「どれどれ・・・。おいおい、結構高いじゃないか。」
紙の束に幾分の値が張るかなんて考えた事もなかった。このよく分からない呪文書で昼飯が1週間分食えるのであれば、それはもう天秤にかける必要もない事だ。
「ひぇ~。漫画だ漫画。たしか婦人誌の向かいだったな。」
天井の吊り看板を見上げながらトボトボと漫画コーナーに向かう。
「ここなら安心!なんでも分かるぞ!」
言っていて恥ずかしいのは分かっている。しかし謙虚でいるのもまた1つの賢さと自分に教え聞かせている。
面白そうな単行本を1冊開く。
◇
ページに集中していると、なぜか周りの音がハッキリ聞こえるような気がする。何故なのかはわからないけれど、勉強中もそうなる。
外の喧噪。数人の大人の足音。3,4人の男性と1人の女性だ。男のうち2人は並んで歩いている、足並みが揃っているからだ。女性の歩幅が短めで歩数の多い足音のリズムは特徴的で、特に砂利を擦るような音は草履の音。きっと服装は着物だ。車はいない、もっとも、この町には元から少ない。
鉄道が近付いてくる音。この辺はこの音が背景だ。ウチの周りは波の音と海鳥の声。
弱設定の扇風機の音。扇風機の風に揺れる吊り看板の鎖の音。平積みの文庫本の表紙が靡く時の紙の擦れる音。
他に数人店内にいる客が同じように立読みをしてページをめくる音。偶に場所を変える時に床のタイルを靴が叩く硬い音。
床に響き伝わる足音の中に紛れる店の前の人の気配。
全然漫画に集中できない・・・。やっぱり自分には本に対する集中力も課題だ・・・。
入口の引き扉が動いて、括り付けられた風鈴がチリチリと安っぽい鈴の音を響かせる。
ツカ、ツカ、と分かれて響く足音のテンポ。革製の靴、しかし重くない。ローファーか、女物。
急いではいない足取り。しかし迷いはない。探し物をしている人特有の立ち止まったり動いたりつま先の方向を変える時の、床に靴底が擦る音もない。まるで、外も内も関係なく店内をウォーキングしているみたいな足音だ。
足取りの軽さ。恐らく、女性だ。向かいの本棚、婦人誌か。
自分の立っている漫画棚を挟んで斜め向かいに立ち止まった。
やっぱり、女の子だ。
黒い革製のローファーに、白い足首までのレース飾り付き靴下、口の部分が折り返されてくるぶしの上辺りまで戻ったデザインのものを履いている。そこから伸びる色白な脛は膝の下辺りまで伸びた深みのある青色のスカートで隠されている。
持っている漫画本の上辺から視線を這わせるように、上半身に視線を伸ばす。
着ているのはワンピースだった。品の良い青色のワンピース。上等なものなのはよく分かる。肩回りの少し膨らんだような生地が、さらにその服の物の良さげな雰囲気を強調している。
暑そう・・・。
肌を露出すれば良い訳じゃないだろうけれど、それにしたってこんな濃い色のワンピースは今日のような夏日には合わないだろう。まぁ、他人には関係ない。
襟回りの生地は白くて飾り気は少ないけれど、角の丸いデザインに縦2つ並んだ小さいボタンが可愛らしい。
脚と同じく色白の細い首がある。
・・・こっちに気付いてませんように。
声なき祈りを紙面に吐いて眼球を持ち上げた。
シミ1つ無い細い頬に鼻筋の通った、しかし大きくはない控えめな鼻。キュッと小さく結ばれた唇。長い睫毛、額にかかる前髪。背中に伸びる長い黒髪。
綺麗だ。
見た所10代、自分と同年代くらいだが、こんなに綺麗な少女は学校にいただろうか。いれば男子生徒の間で噂が立つに決まっているだろうが・・・。屋敷街の人かな?夏の間だけ茜坂にいるのかもしれない。
読んだふりをしている漫画の内容も頭から抜けて妄想していると、婦人誌をパラパラと立読みしていた少女が雑誌を棚に戻す音が聞こえた。少女は向きを直して一直線に出口へ向かっていく。
「・・・そうだ。俺は腹が減っていたんだ。」
急いで、静かに漫画を棚に戻して、数秒遅れで書店を出る。入った時とは反対に一気に網膜に射し込んだ黄白色の光線に眩まされる視界の中、手を翳して作った陰になんとか見覚えのあるローファーの黒い踵を捉えてから、雑然とした街の景色にぼぅっと浮き出るワンピース黒いシルエットを追った。
◇
彼女が入っていったのは駅前の定食屋。偶然にも、自分が入ろうと思っていた店だった。というよりも、酒も飲めない人間に門戸を開いている食事処がここか、如何にもガラの悪いラーメン屋か、もっと上等な飯屋しかないというこの街の世情に伴った消去法を行えば、自然とここが選ばれるのも無理は無いのだろう。
ついでか本命か分からないけど、俺も昼食にしよう。
彼女は何を頼むのだろうか。
「いらっしゃいませ。ご注文は。」
水を持ってきたおばさんにその場で注文を聞かれる。この流れがこの店の暗黙のルールだという空気が、正に暗黙の下に己の視線をメニューに走らされた。最も、美食家でもない自分の頭が思い浮かべるような家庭料理の品々は、言うまでもなくほぼメニューに網羅されているようにも見える。客に考えさせる暇など、もうこの空間には無い。
「えっと、じゃあ、カレーと、天ぷらそば下さい。」
「魚のフライもどうかしら。」
「フライですか。」
「今朝上がった魚なの。」
「じゃ、お願いします。」
「毎度、食べ盛りさん!」
「・・・ははは。」
注文書に料理を聞き終える間もなくタカタカと席を巡っていく姿はどこか近代の機械的なニュアンスすら感じる。新聞で覗き見る都市の工業化という流れが鉄道のレールに乗ってこんな地方の港町にすら浸透しているのかもしれないと思うと、最早単なる食事の楽しみは超えたような気すらしてこないか。
注文巡回機おばさんがとうとう例の少女の元に流れ着いた。彼女は2度呼ばれるまで、恐らく自分の机のと同じくこの世のあらゆる家庭料理が網羅されたメニュー表も見て呆気に取られていたのだろう、目の前の店員の存在に気付かなかった。
自分を見下ろす店員の影に気が付いてメニューから顔を上げた彼女の驚いた顔は、書店で立読みしていた頃から今までで初めて見せる表情だった。丸く見開いた目には遠目に見ても分かる長い睫毛が揺れ、その目の丸に勝るとも劣らずポカンとアの字を漏らした唇に塗られた口紅の赤が目に焼き付く。
声は聞こえないか・・・。
注文を終えておばさんが離れると胸に手を当てて一息着いたようだった。
料理が来るまでの待ち時間はどれだけ短くたって短いなりの暇さがある。さっきの本屋で適当な文庫でも1冊買えば良かった。両手の指を組んで手前に来る親指と人差し指の先端の肌をくっ付けて、お互いに擦り合って見る。乾いた指先の皮膚が生み出す摩擦に負けて時折擦れる指がカクカクと動きを止める様は、バッタやアリのような昆虫が忙しなく顎の触覚を動かしている様子の、馬鹿げた真似をしているみたいだ。
蘭さんが恋しい。
自分の皮膚に触れ、それが乾き掠れているほど、その奥にある自分の肉の全く面白みのない硬さを感じるほどに、ここ最近毎日のようにくっ付いて、あらゆる手遊びを試しまくった彼女の身体の感触がフラッシュバックする。自分の腕のどこを摘まんだって、彼女のどの部分の触り心地にも張り合える場所なんか無い。
今日は避暑地から帰って来た連理が旅の疲れを癒さなければならない。そういう日だと思ったのだった。蘭さんにも伝えて、連理を労わる気持ちに素直な感謝と寝惚け様の抱擁を受け取った訳だし、こんな恋寂しさにさいなまれたって今日という日は充分に充実している。
示し合わせた指先からピントが外れた目が注目したのは、テーブル天板の木目模様。定食屋の歴史を刻むようにボロボロに剥げた黒い厚塗りのニスの奥には、まだこの木が大地に根を張って逞しく生きていた頃を彷彿とさせるお日様色の木肌が覗いている。
店内の正面奥、壁掛け時計の下に架けられたラジオから漏れ聞こえる天気予報は、今日の午後のにわか雨を報じていた。
「はいよ。カレーライス魚フライ付きと天ぷらそばね。」
「あっ、ありがとうございます。」
湯気を持ち上げているのはそばの方。カレーは、カレー。魚のフライと言われてどんなもんだろうと思っていたけれど、その正体は大名おろしのアジフライが1ケと、なんの魚かはわからないが片身のフライが1ケ、カレーのルーとライスの境界の辺りに乗っけられていた。
スプーンでいけるかな・・・。
取り敢えず実験のつもりでアジフライの角を分けるようにスプーンを差し込むと、ザクっと軽快な音を立てながら、しかし柔らかい身は丁度いい大きさにほぐれてくれた。なるほど、これなら大丈夫だろう。礼儀も作法も知らない。スプーンに引っかかるフライの断片ごと下のカレーライスを大きく一口分掬い上げて口に運んだ。
・・・美味しい!
予想以上でも以下でもない。ただただ求めていた素朴なカレーの味だった。思えば家では2人だけの食事が常で、料理が特別得意な訳でもない母がカレーを作ってくれた記憶はあまり無いから、素朴な味とは言えども今の自分には偶の外食を感じさせるのに充分すぎるご馳走だ。もう1つの魚のフライも、どんな味かと思えば癖が無く、寧ろ身によく脂が乗っていて噛めば噛むほど口の中に旨味の溶けた脂が広がっていく。カレーの味にも負けていないから、食べ進める程に美味さが増していくような気さえする。良いものを頼めた。
そばも旨い。
少し出汁が甘めな事に気が付いた。砂糖でも入っているのだろうか。しかしこれはこれで美味しいと思える。何よりこの出汁の上手い所は、この出汁を衣に吸った天ぷらもほんのり甘くて美味しいことだ。海老天は、若干身が小さいと感じたけれど、自分のような学生でも食える値段の天ぷらで、しかも出汁のよく沁みたフワフワの衣があっては全く気にもならない。紫蘇の天ぷらもサッパリサクサクして美味しい。
目の前の飯に完全に集中力を吸い取られていた頭に、店員のおばさんの良く通る声が飛んできて、ぶつかった自分の鼓膜を響かせた。
「はいよお嬢さん。醤油ラーメンね。」
醤油ラーメン!?あんな上等そうなワンピースで醤油ラーメンをすするのか!?
視線をそっと向けた先には、案の定煌々と湯気を立ち昇らせる丼を前に、今更懸念に気が付いたらしい少女が静かにあたふたしているのが伺えた。
やっぱりか。
カレーを食べ進めながら偶にチラリと見ていると、どうやら片方の手に持ったレンゲに麺をよそって跳ねないように食べているらしい。なんだか窮屈な食べ方だと思う。
そばとラーメンは啜りたいなぁ。
視線を手元に戻す。目の前にはそろそろ汁も丁度良く温くなって、何の心配もなく啜れるそばの器がある。
あんまり気を散らして食事をするのも失礼な話だ。
箸先に数本摘まんだ紫風味の浅黒い麺を一息に啜った。
◇
気付けば目の前の皿はすっかり綺麗に平らげられていた。夏の日の運動後の空腹を前にして傍から邪念の潜り込む余地なんかどこにも無かった。
「おばさん、お勘定。」
「はいよ~。お金出して待っててね~。」
どうやら、この店は机で金を渡すらしい。確かに、定食屋のメニューなんてどれも値段が知れてるし、大抵キリの良い数字にまとまるようになっている。現に、自分が食べた2皿で千円きっかりだ。よく食べた。サッサと勘定して、皿を取り上げてしまった方が仕事が速いのだろう。
「はい、千円!」
「どうぞ。」
「は~い。ありがとう。あ、魚のフライね、お父さん負けてくれるって。」
「え、いいんですか。」
「また来てね。はい、200円おつり。」
「ありがとうございます!」
思いがけず戻って来た100円玉2枚を握りしめて定食屋から出た。
◇
「いやぁ美味かった。」
少し食い過ぎたかもしれない。おばさんに急いで注文しようとしたせいで勢い余って2品頼んだせいだ。
「あぁ~・・・、眠くなってきた。」
労働の後の疲労に突然の客人。そこから散歩をして本と睨めっこをして、すっかり空いた腹を満たした満腹感。夏の暑さも相まって、もう今日の午後の予定は概ね昼寝に決まったようなものだ。
「帰って寝よう。」
「ありがとうございました~。」
背後からまた店員のおばさんの明るい声と引き戸の滑車がガラガラ言う音が聞こえた。振り返ると、例の少女もまたラーメンを食べ終わって店から出て来たようだった。
彼女も屋敷街へ帰るのかな。
鉄道駅を中心としたこの商店街の区画は、やはり鉄道駅のある町の北西にある。つまり、自分の住む学校より南東の坂の下、港の入口辺りに帰るにも、学校の坂を真っ直ぐ登った所の屋敷街に帰るにも、結局はしばらく駅から東へ歩かなければいけない。しばらくは彼女も自分と同じ道を来るのだろう。
声をかけて見ようか・・・。
――いやいや、いきなり声かけられても気持ちが悪いって。
――でも、折角だし声かけたっていいじゃないか?
――やめとけって。ナンパ男なんて噂が立ったらもう遠藤の屋敷に行けないぞ。
――そうか・・・。
――そうだとも、蘭さんだってお前の誠実な所を気に入って、
「うわっ!」
気を取られて舗装タイルのガタガタになった角につま先を引っかけ、前のめりにずっこけてしまった。なんとか膝は着かずに踏ん張った。
「はぁ、馬鹿野郎・・・。あっ。」
振り返ると、数歩遅れて歩いていた例の少女が歩みを止めてこちらをギョッとした顔で見つめていた。
「あっ・・・えっと、すいません・・・。」
なんで謝ったのか分からないけれど、取り敢えず口を突いて出た言葉を、明確な宛も無く中に漏らした。
怖がられたかな・・・?
すると、少女がキュッと口を結んでから緊張した面持ちでこちらに歩み寄ってきた。
「えっ、あ、あの。」
返事、来るか・・・!?
こちらの馬鹿みたいな焦りも他所に、早歩き気味の少女は自分の脇を素通りしてそのままタカタカと自分を追い越していってしまった。
・・・まぁ、そうだよな。
自分も両膝に置いた手の支えを解いて、少女の背中を追うように歩みを再開した。
奇しくもまた少女を後を追うような形になってしまった。
やはり上等そうな濃い青のワンピースは、よく見ると腰の辺りにベルト輪が縫い付けてあって、そこに通された細い黒革のベルトで腰回りのシルエットが絞られていた。
細い身体だな・・・。連理みたいな痩せ型だ。
連理と知り合うまで、やはり自分のような港育ちの人間は、裕福な人ほどよく食べて肥えるのだという幻想を抱いて生きて来たけれど、連理といい蘭さんといい目の前の少女といい、育ちの良い、良さそうな人間というのは、生憎皆揃って身体が細い。なんでなんだろう。美しいからか。
食事から美容を考えるなんて庶民の自分には無い感覚だったのだ。しかし、蘭さんが自分の身体を見た時に「連理にもこんな風に逞しくなってほしい」とも言っていた。やっぱり連理は痩せすぎている。あいつに今日の自分が平らげた程の飯を出したらどれくらい食えるのだろうか。
「今度一緒に来ればいいんだ・・・。」
空に提案をぼやいた。
歩いているうちに場所は学校のある坂に交わった。ここから上に登れば屋敷街があり、下って学校の辺りからさらに東へ少し行って下ると自分の家に着く。
目の前の少女は案の定交差点を左折して石階段を1段ずつ踏み込んで登り始めた。
・・・本屋の時から思っていたけど、靴、慣れてないのかな。
足音や歩き方は人を表すという持論は今までの半ば趣味とも言うべき人間観察の中でよく培われた洞察眼の1つだった。それで言えば今の彼女は、比較対象として適切かは分からないけれど、初めて蘭さんに会った夕方の彼女の足取りよりもよっぽどぎこちなく見える。屋敷街は石畳が整備されているとは言うが、それは本当に屋敷に面した部分の話であり、ここみたいな区画の入口とも呼べない手前の石階段は、寧ろ敷かれたのが古いせいでガタガタに歪んでいたりする。子供が歩く時は注意して見ていろという助言はこの坂の住民の決まり文句であるが、どうやらこの土地の経験が浅い彼女にとっても同じ事のようだった。
・・・まぁ、赤の他人だ。別に後ろから介抱しに行くなんて寧ろ気色悪い事だろう。この数段が登れれば後はいいんだ。
少女がいきなり足首を曲げてバランスを崩した。
「おい!!」
「きゃっ!」
後頭部からはマズイ!
咄嗟に前足に力を入れて少女目掛けて走り出す。
距離は数歩だ。間に合え!
走りながら伸ばした腕はなんとかすれすれで少女の肩に指を届ける事ができた。
よしっ!
そのまま少女の肩を軽く抱き寄せ膝を曲げながら軽い少女の体重を胸から膝に受け止めた。
「大丈夫ですか。」
「え、えぇ・・・。」
「はい、足元気を付けて。」
「あっ・・・。ん・・・!」
俯いたままの少女に腕を振り払われてしまった。視線も合わせずに石階段を駆け上がって行ってしまう。
「あっ。・・・気を付けて~。」
少しずつ小さくなっていく少女の背中を数瞬眺めてから、自分も向き直って坂を下った。
「嫌われちゃったかな・・・。」
少し西に傾いた嫌なくらい暑苦しい日の下で、坂沿いの民家の屋根が作る左向きの影の先を、靴先で踏みつけた。
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