第7話
◇
「・・・はぁ、はぁ・・・あの、ら、蘭さん。」
「?どうしたのアンリ君。」
「その、ちょっと自分にはまだ・・・」
「・・・?なにが?」
「いや・・・だって・・・」
「・・・え!?あなたまさか!」
「いやだってぇ・・・」
「今更下着見るのが恥ずかしいの!?あんなに普段から絡んでて!?」
「見た事なかったしぃ・・・」
初夏というにはもう遅いのかもしれないが、それにしても暑すぎる。もう、最近は暑すぎる。それしか言っていない。俺が悪いんだろうか。ただでさえ暑いのに、よりにもよって美女の肌を拝みに坂の上まで足しげく通っている助平な自分が一番暑苦しいんだろうか。そうだ。でも、恥ずかしいものは恥ずかしいし・・・。
自分を玄関から迎えてくれた蘭さんも、また額にほんのりと汗を滲ませていた。その後、いつも通りくっ付いてお互いの口に舌を這わせていても、やっぱりお互いに腰を抱き合う腕や服や腋の湿り気や、鼻腔に舞い込んでくる首元からの蒸れた人の薫りに少しむせ返りそうになりながら今日の”挨拶”を交わしたのだった。
「ねぇアンリ君・・・。お風呂にお湯貯めてるんだけど、一緒に汗、流さない?」
「それって・・・」
「ねぇ、行こ?楽しいよ?」
「ちょっと大胆じゃ・・・いや、まぁ・・・」
夏休みの始まりにふさわしい日の降り注ぐ昼下がり。彼女がいつも以上に大胆でいられるのもワケがあった。
◇
「軽井沢・・・?」
「あぁ!毎年従姉の別荘にお邪魔するんだ。今年も5日ほどお邪魔してくる。」
「いいなぁ。」
「まぁ、避暑地なだけあって涼しいし、昆虫採集やら野鳥観察やら、面白いものが沢山見れる。それに散策するのも楽しみだ。」
「へぇ、結構動くんだな。お前らしくない。」
「別に運動が嫌いな訳じゃない。ただ、今はそういう生活じゃないだけだ。それに・・・」
「それに?」
「いや、なんでもない。まぁ、土産話を楽しみにしていてくれ!」
連理のニカっとした明るい笑みは自分の知る限り珍しい表情だった。少し可愛かった。
◇
「そっか。アンリ君、見た事無かったか・・・。確かにずっとチューしてただけだったし・・・。私は見た事あるけどね!アンリ君の!」
「そ、それは蘭さんが勝手に・・・!」
「ねぇアンリ君。」
蘭さんが脱ぎかけだったワンピースを一旦元に戻して自分に抱き着いてきた。いつものキスの距離感じゃなくて、自分より一回り背の低い頭を自分の胸にピタリとくっつけてくるから、彼女の女性らしい身体の柔らかさが全身でわかる。
・・・胸の方は、もう付けてないな・・・。
やっぱり今日は大胆過ぎる。
「私、最初にアンリ君とチューした時、あなたはもっとガツガツ来るタイプだと思ってたわ。」
「それは、僕も気を抜いたら蘭さんに何かしてしまいそうで、それが恐くて・・・。」
「そう、アンリ君、とっても紳士なんですもの。私の気持ちいい事ず~っと伺ってくれてるし、嫌な事しないし。息も合わせてくれるし。あなた本当に経験無かったのよね?」
「ないです。」
「うん、そうよね・・・。アンリ君。私、アンリ君ならいいのよ?」
「それは何がです?」
「色~んな事。子作り以外で。」
「僕だって・・・」
「僕だって?」
「・・・僕だって、蘭さんともっと色んな事したいです。」
「・・・ふふ。お風呂行こ!」
そもそもここは玄関から入って少しの廊下だ。脱衣所じゃない。
自分が驚いたのは、この屋敷に日中2人切りの時間が作れたことにはっきりと嬉しい感情を全身から発していた蘭さんが、そのまま勢いで着ていたワンピースをたくし上げ始めたから、というのも大きかった。蘭さんという人は全く一見の淑やかさとは違って、その実非常に、尋常じゃない位賑やかな人で、いやそもそもそんな人でなければ息子の同級生とこんな関係にならないのだけれど、全く驚かされっぱなしだ。この関係が世間にバレてあんまり酷い事にならないように、自分が少しでも気を引き締めておかないと・・・。
ガラガラと黒茶けた重い音のする引き戸を開けると、衣服を入れる為の網籠が2つ置かれた棚がある2畳程の脱衣所が姿を表した。さらにその奥にある曇りガラスの引き戸が浴室に繋がっているのか。
「すごい。銭湯みたいだ。」
「まぁね~。ほら早く脱いで!」
「そんなに急かさないで下さい!寧ろ蘭さんはなんでそんなに大胆なんですか!恥ずかしさの少しくらい見せたっていいでしょ!」
「・・・恥ずかしいよ?」
「・・・そ、そうでしょう?・・・そうなんですか?」
「そう!勿論!恥ずかしいよ!私!まだ会ってひと月くらいしか経ってない若い暴れ盛りの男の子の前で、一糸纏わぬ姿になっちゃうの!とっても恥ずかしい!」
「・・・じゃあなんで。」
「でも、見てほしいから。」
大袈裟に身を捩らせていた目の前の彼女は、着ているワンピースの長い裾をピタリと閉じた腿の間に大きく巻き込み、まるで固く絞った白い付近みたいに身体の輪郭を張って、これから見る事になるんだろう彼女の素肌の予感をこちらに見せつけてくる。
若干赤らんだ頬と上目遣いの潤んだ瞳はどこまで道化なのか相変わらず分からないのに、少なくとも今の自分の視線を釘付けにするというその確かな目的だけは達せられている。彼女はもう俺に向かってその魔性の魅力を、そしてそれが魔性のものであるという事を最早隠す気も無いようだった。俺はもう彼女の妖気にすっかり充てられていて、彼女に対して絶えず抱き続けているこの後ろめたさすら、得体の知れないむず痒さと身体の力みと、それにすっかり支配されて、今すぐ襲ってやりたいと思う、意識の先に催すような男の疼きを抑えきれなくなっていたのだ。
断るなら今なんじゃないか。
ここで引かずに裸になって、裸に剥いて、見るものを見て、その後に自分が発する言葉の何が、どれが、拒絶になりえるのだろうか。
失うものは本当に無いのか?よく考えて見れば、連理との友情は?雛実との毎朝の他愛ない会話は?友人の母とこんな事をして、それが母さんに知れたら?
それに、この人が遊びの興で全てを公に晒したら?今ある不安の片鱗が一気に現実になって降りかかったら?今まさに彼女が堕ちようとしている破滅の快楽に最後まで引きずり込まれてしまったら。俺はどうする。俺はどうなる。
わからない。わからない。
わからない。わからない。わからない。わからない。
わからない。わからない。わからない。わからない。
でも、
「・・・蘭さん。」
「なぁに?」
でも、
「僕達の関係って、2人の間だけの・・・」
でも、
「だけの?」
でも、
「2人だけの、ひ、ひ・・・」
・・・・・い。
「・・・ふふ。もう、」
・・・・たい。
「2人だけの秘密よ。」
・・・したい。
「・・・じゃあ、まず蘭さんから脱いで下さい。」
「えぇ~、それはちょっと恥ずかし~かも~」
「蘭さん。」
「・・・なぁに。」
「脱いで。」
「・・・はぁい。」
彼女がやっと、わざとらしいポーズを止めてくれた。正直少し、彼女のそういう挑発するような態度には苛ついていたのかもしれない。
「下着は?」
「んふ。パンツだけ。」
「さっき一瞬見た感じだと白だった。」
「せいか~い。」
「もっとよく見たい。」
「うん。いいよ。」
彼女は一瞬俯いて何か思案したように見えてから、すぐに膝の上辺りの布地を摘まんでワンピースを、恐る恐る、臍まで託し上げた。
「ど~ぉ?」
「う~ん・・・。」
2歩ほどの距離でジッとこちらの表情を伺ってくる。この距離からだとよく見えないな。1歩近付いてみる。
「蘭さんのお気に入り?」
「うん。リボンが付いてて可愛いでしょ?」
「女の子みたいだ。大人っぽくない。」
「そ、そうかなぁ。」
今日初めて彼女が戸惑った。自分は多分、彼女の困った顔が好きなんだ。
「蘭さん。」
「なぁに?」
彼女は、キスをする時に息継ぎで肩に顎を乗せると凄く悶える癖があった。耳が弱いのかもしれないとずっと思っていたけれど、確かめて見よう。顔を近付けて、意識を向けさせるように耳元で。
「全部脱いで。」
一瞬の沈黙の後、彼女は託し上げていた服を思い切り巻き上げていき、両胸が露わになってから、首穴から引き抜いた頭を再び眼前に拝んだ。思い切り開かれた両腋が汗で湿っている事にも興味が湧くけれど、彼女の下ろした髪がワンピースから脱し切れてないのを助けてやる。
「あ、ありがとう。」
普段キスをする時にも彼女のほつれた髪を指で除けているから、そうした動作にいつの間にか慣れてしまっている事にも変な不思議さを感じる。
「蘭さん、ワンピース。」
彼女が腕に持つ白い布の塊に手を差し伸べる。
「・・・ん。」
彼女の汗を吸ったその布はひんやり湿りと重みを感じさせる。その奥から手の平を包むように生温かい彼女の体温の余韻も感じる。
「・・・可愛い。」
「ん~・・・。」
手持ち無沙汰で不安が増長したらしい彼女は、とうとう視線を逸らして両手の指を絡めながらもじもじとし始めた。
見下ろす彼女の隠すものの無くなった上半身には、確かに紅い先端をツンと突き立てた2つの丸い膨らみがあった。なんだかんだで蘭さんの胸を見るのは初めてで、キスの時に押し付けられる柔らかさにはずっと心当たりがあったけれど、その柔らかさの正体が今こうして判明した訳だ。
「蘭さん。」
「ん、なぁに?」
「手。」
「・・・はい。」
両手にそれぞれ指を絡め、離れないようにして、彼女の下腹部に向かってしゃがみ込むと、当然目の前には彼女のお気に入りの薄水色の布があった。
「あ、ちっちゃいリボン。」
「あんまり凝視ないで。」
「可愛いのに。」
「いや、恥ずかしい。」
「脚閉じないで。広げて。」
「はぁい。」
彼女は素直に脚を半開きにした。上目に見上げる彼女はいい加減顔を赤くして、自分の反応が気になって下を向いているのに、実際は羞恥で視線も合わせられていない。最後の足掻きという感じで握った指を力いっぱい絞めてくるけど、それもこちらが握り返すと握力に負けて簡単に解いてしまえた。
「もう少し突き出して。」
「ん、ん~っ!」
差し出された腰の中央で優しい膨らみを称えた恥丘の頂上に軽く鼻を押し当てて、その一帯が纏った蒸れを鼻に吸い込んでみる。
「んっ!」
「柔らかい。こんな感じなのかぁ。」
「ゾワゾワする~。」
「いい匂い。」
「嘘~!」
「ハハ、嘘、じゃないかも・・・。」
「いやよ。」
もう力勝ちはできないと分かってる筈なのに、また指の股にグイグイと力をかけてきた。声もどこか涙ぐむような音の揺らぎを乗せている。
そろそろいいか。
彼女の恥丘をくすぐっていた鼻をいい加減離して、再び彼女に向かい合って立ち上がった。立ち上がる時に不意に彼女の両乳首が肩を掠めて、子犬のよう、というには嫌に艶っぽい可愛らしい声が漏れたのを聞いたけれど、もうその事でからかう段は過ぎた。
「蘭さん。すいません。」
「うん・・・。」
「ずっと蘭さんに惑わされてたのがちょっと不服だったので、やり返しちゃいました。」
「うん。ごめんね。」
「いいんです。今、おあいこしましたから。」
「うん。凄い恥ずかしかったけど、ドキドキしちゃったけど。」
蘭さんが自分の右手を取り、そのまま胸に押し当てた。
手の平の中央に固いポッチを一粒感じて、そのくすぐったさを楽しみたくて沈ませると、まるでお湯で満たした水風船を持ったようなほんのりとした熱が手に伝わる。とても懐かしい感じもするし、その反対に若い果実を捥いだような爽やかな気持ちにもなる。
「蘭さん、今度は僕が。」
「うん。」
「見てて下さい。」
1寸先に彼女の息を感じながらシャツのボタンを外し、脱いだ布の塊背後に投げ、汗でグッショリと重くなったインナーも脱ぎ捨てた。屋敷にだらしない格好で来るわけにはいかないから無理矢理第一ボタンまで閉めていたせいで、閉じ込められていた蒸し暑い熱気が一気に脱衣所の空気に発散された途端、身体の表面は気化熱のせいでひんやりとした薄暗い脱衣所の温度に向かい一気に数度冷やされた。
彼女に見ていてと言えた事の根拠は、曲がりなりにも港町という環境の中、1人で家を切り盛りする母親の代わりに力仕事を手伝ったり、ガタガタの石階段を駆け上がりながら近所のガキ共の遊びに付き合ったり、舟の荷積み場に小遣い目当てで通ったりすることで、自分の体格が人目にも恥じない程度に引き締まっている事の自信と薄っすらとした確信があったからだ。実際、普段から舌を絡めている蘭さんは、ボゥっとした意識の中で自分の肩や胸の張りやら腹筋の凹凸をシャツ越しによく確かめているのを知っていた。
彼女が今日、自分を無理に風呂場に引き入れた本命を、彼女への仕返しのお返しとして思う存分楽しませてあげたい。今は心からそう思っている。
まず感じたのは鳩尾から腹筋にかけて肌の表面をくすぐるような吐息の波だった。蘭さんが抑えきれない吐息を恥もせず自分に吐きかけていた。
「あぁ、凄い・・・。連理と全然違う・・・。」
「どうです。結構、自信があるんですが。」
右の肩甲骨をグッと引き寄せて胸を張り上げ、反対に左手は腋を大開きにしながら後頭部をさする位置にして蘭さんに覆いかぶさるように見下ろしてみる。日頃から風呂の折に鏡の前で取っていたポージングを初めて人にお披露目している。
「彫刻みたい。」
「有難う御座います。」
「蘭さん・・・。」
裸になったら一番してみたかった事だ。彼女の白い背中に腕を回して、自分の身体の凹凸に彼女の柔らかい身体を埋め合わせるようにピットリと湿ったお互いの肌を密着させて抱き合った。今、蘭さんの顔は自分の顎の下で荒い吐息を相変わらず自分の胸に当てていて、その下の方で彼女の2つの乳首が、あばら骨の硬い部分をコリコリと押している。
「やっぱり、蘭さんの身体は柔らかい。」
「君も硬いのよ。」
「ずっとこうしてたい。」
「うん・・・。でも暑すぎるわ。」
「じゃあ、早く風呂場に。」
「・・・うん。」
「下も脱ぎます。」
「・・・。」
想像以上にこの状況に興奮している自分がいる。抱き着く彼女と息を合わせてゆっくりと膝を曲げながら、ゆっくり、指をかけた自分のパンツを膝まで下ろし、バランスを崩さないように慎重に両足を引き抜いてシャツの方に投げ捨てた。
とうとう蘭さんに初めて、自分から、見せたソレは、見た事もない位に隆々と勃起していた。
轟々と浮き上がる血管は、数本を枝分かれさせながら、纏った幹の先、膨れ上がった亀頭に薄っすらとかかる包皮の先まで伸びていた。その屹立した矛先にある彼女の柔らかい胎の奥を指しながら、その正体を既に知っているとでも言いたげに、暴力的なまでの浅黒さを以て蘭さんの白い腹の表面をグニグニを押し込んでしまった。
「・・・すいません。もう、こんなで・・・。」
「アンリ君。」
呼び上げた唇に唇を重ねた事を合図にするように蘭さんもまたゆっくりと身に着けていた最後の布地をずり下げ、足元に落とした。足の甲に乗った布も湿った生温かさが。
彼女の股には、三角形に整えられた下向きの陰毛が生えていた。
◇
「お湯かけるよ~。」
「はい。」
「えいっ!」
お湯の溜まった木製タライを前腕を震わせながら持ち上げた蘭さんは、風呂椅子に腰掛ける自分に頭からお湯をぶっかけた。重さからやっと解放される事の喜びを全身で表すみたいに一瞬ぴょこんと弾んだつま先をお湯の質量に耐える頭で眺めていると、普段は気にも留めていなかった人の足の所作にすら、その人の気持ちや表情がよく現れているということに気付く。どれも短くなっている爪は彼女の散歩好きな生活故だろうか。それに、腕や腰回りの細さに反して意外も凹凸のハッキリした脛から脹脛の張りも、日頃の彼女の活発さを下支えしているのだろう事が想像できて少し微笑ましく思えた。乱張りされた鼠色の石床の上に浮かび上がる彼女の白けた肌色の足がぱちゃぱちゃ弾んでいるのは全く見ていて飽きない光景だ。
「わっ!大丈夫!?ちょっと勢い強すぎたかも!」
「大丈夫です。さっぱりする!」
「ね!私にも!私にもして!」
「いいですよ。」
蛇口からお湯を溜める。あまり熱すぎないように、でも温いのも良くない。ただ他人の家の蛇口は勝手がわからん。
「こんなもんかな・・・。肩にかけますね。」
「いいや!アンリ君みたいに頭から!さぁ来い!」
「わ、わかりました。いきますよ。」
流石に自分なら片腕でも持てる重さだった。だから彼女の頭にもドバっとぶちまけなくて済んだ。少し太いくらいの水流を彼女の脳天からおでこ目掛けて落とすと、彼女は目を瞑って、水流を長い黒髪に流すように頭を仰け反らせる。そのしなりは背骨に伝わり、伸びて張る胸から腹すじの皮膚はとうとう自分に臍の視線を見上げさせた。彼女の絹の腹にポツンと開いた窪みの奥に見えるすぼまった皺の蕾まで見て、いよいよ目の前の人の裸が自分の腕の中にあることの自覚が芽生えてくるじゃないか。
「蘭さん、気持ちいい?」
「最高!」
「蘭さん、凄いエロい。」
「も~。」
首を左右に振ると鞭のように振れる長い黒髪が次第に水を除いて数本に枝分かれしていく。僕のビーナスがいる。
ずっと、芸術が分からず、その中でも取り分け分からないものに裸婦があった。教科書に載っている名画家の裸婦画、博物館の前に飾られている彫刻家の妻の裸像。ドレスを着ている方が、着物を着ている方が、よっぽどいいじゃないか、と。今わかった。俺が馬鹿だった。
そういえば連理も言っていたな、
「「美しいものじゃない、美しいと思える物を描くんだ。」」
「蘭さん、こっち来て。」
「なぁに~。」
ビーナスを膝に迎える。肉製の腰掛け椅子だ。宝石の為の玉座だ。
「綺麗です。」
「ふふん。そんなの、もう知ってるわ。」
「舌出して。」
「んん?んん・・・。ぇ~。」
唇で彼女の伸ばした舌の先を食んでみた。
「んん!なに!?」
「それに、甘い。」
「・・・ん。」
今までで一番甘いキス。
「ん。」
蘭さんの脛に当たっていたジブンに、とうとう彼女の指が絡んできた。彼女の胸にも平手を沈ませる。
長い時間が始まるのだと予感した。
◇
「ただいま~。」
遠藤家で夕飯は頂かなかった。
風呂に上がってから身体を拭いているうちに、風呂場の熱気から解放されて夕方の涼しさに冷やされるうちに、さっきまでその中で自分たちがしていた事に冷静になってしまった。今脱衣所でポツポツと滴らせている裸の2人がお互いにした事について、お互いに今日一杯はもう顔も合わせられないということになってしまったからだった。蘭さんも疲れていただろう。
「母さ~ん?帰りました~。」
家の鍵は空いていたからいるんだろう。とはいえ今日は土曜日、週末だ。母さんには週末に酒を飲む習慣がある。強くないのに飲む。だから空きっ腹には飲まないことにしているらしいけれど、夏だし、昼から晩酌を始めていることも、無くはないか。
「母さ~ん。ん?」
玄関に上がって右手の襖を開けたところに居間があって、案の定、襖越しに聞こえる点けっぱなしのラジオの音とその隣に寝息をかく、女1人の大の字の影があった。
「母さん、帰りました。アンリですよ。・・・って、うわっ。」
赤くなって寝る姿の脇に空の酒瓶が転がっている。
「母さん、これ飲み切ったの?まだ結構あったよね?」
「う~ん・・・。」
「大丈夫?」
母が1度に飲む量として見れば過去一番だ。よく見れば服もかなりはだけているし、大方、酒が回って身体が熱くなって脱ごうとしたのに、上手くいかなかったのだろう。二日酔いはあってもここまではしないのに。
「母さん、布団行こう。肩貸すから。」
「う~ん。・・・ん?にいさんだ~。」
「違うよ母さん、アンリだよ。」
「にいさんおあえり~」
「顔触らないで。」
母には年の離れた兄がいる。自分は会った事がないのだが、よく母は手紙を送り合っている。母は兄が大好きだ。小さい頃から甘えていた事は話の折々に断片的に耳に入ってきて、そんな程度でも充分すぎるくらいに兄っ子だとわかる。
「ひょっとして・・・」
居間の真ん中にあるちゃぶ台の上に広げられた数枚の紙と封筒。
「母さん、そんなんだと伯父さんが泣くよ。」
「え~ん。私の方が寂しいも~ん!」
「勘弁してくれよ。」
「でもぉ!や~っとかええてきえくえあー!」
「アンタちょっといい加減に」
「うおりゃぁ!」
「うわ!」
貸そうとした肩は今の母にとって、乱取り稽古で差し出された相手の袖だった。
母に馬乗りにされる日が来るなんて。
「母さん!僕は兄さんじゃないって!」
「・・・嘘。兄さんだもん。」
「母さん?」
「ねぇ、兄さん。偶には帰ってきてよ。」
「伯父さんもここに住んでたの?」
「・・・にぃさ~ん。」
「ちょっと母さん!兄妹でもそれはしないって!しないよね!?」
「ん~。」
「母さん・・・母さん・・・母ちゃん!」
「・・・。」
「・・・母ちゃん?」
「・・・あっれ、アンリだ。・・・なんで?」
「ハァ~・・・。」
「頭イターイ・・・。気持ぢ悪~い。」
10センチほどの高さからいきなり降ってきた人の胴体に胸板が圧迫されて踏まれた蛙みたいな声が漏れてしまった。
「布団行こう。夕飯食べた?」
「いらない・・・。」
「玉子焼いていい?あと豆腐。」
「・・・私の分も。」
「はいはい。」
身体にかかる人の重みの往なし方を偶然予習していたおかげか、酔っ払いを布団に担いで運ぶくらいの事はワケ無かった。人生何が役に立つか分からないモンである。
「なんでこんなに飲んだの。」
「・・・うるさいだまれ。」
「は~い。」
ちゃぶ台の上の手紙を重ねて整えてからキッチンへ向かう。疲れてはいるけれど腹も減ってるんだ。
手紙の内容は読んだ事がない。読みたいと思った事もない。母さんの宝物だから。それに、まだ会った事もない、どうやらこの家の元住人でもあったらしい自分の親戚の気配みたいなものがこの家の中に生れて勝手に歩き出してしまったら、今はまだ少し怖いから。
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