第6話

  ◇


 昨日に増して日射しの強い昼になった。

 「白昼堂々」という言葉に馬鹿みたいによく似合う、真っ白な塀の連なりだ。

 自分は休日はひたすら寝るのが好きな筈だ。今日だって午前中は、色々な事態を見越して、体力温存の為にグッと寝た。というより、昨日疲れた身体を引きづるように帰ると、週末恒例の母親の酒宴がなんだか早いうちから始まっていて、それに巻き込まれてからいつの間にか寝落ちして、朝方目が覚めた時には母親に羽交い絞めにされていたというのが実際の顛末だとも言える。しかし遠藤邸に伺うというのに身だしなみが少しも整っていないというのは、マズイと思って、素人考えで汗だけは流してきた。流してきたのに・・・。

 「まだ夏には早くないか!?」

 カンカン照りの日射しに投げた悪態は、きっと空に届く前にどこかに墜落しているんだろう。この声が届いていれば、こんなに暑くしない筈だからだ。

 「ふぅ・・・もう慣れたもんだ。」

 大抵道順なんて3度ほど歩いてしまえば覚えるものだが、今の自分がそうした結果行き着いた場所は、何の変哲もない白い塀の壁である。

 「しかし・・・ここはいつ来ても人気がないな。」

 元から大きな屋敷が数軒あるだけの広い区画であり、そして区画整備の賜物か、各邸宅の玄関に向かう道の動線が殆ど重ならないのだという事はこの町にしばらくいる人間なら一度は聞いた事のある噂だが、どうやら幾分本当の事らしいと感心している。

 「・・・バカ。感心している場合かよ。・・・入るぞ・・・。」

 そもそもこの隠し戸が開いていなければ入る事すらできない。いや、寧ろ締まっていてくれたら気分よく帰って寝られるのだが。

 そう願って手を当てた塀の壁が案外軽い力でポカンと押し下がった。

 開いちまった・・・。

 もう、行くしかない。




  ◇


 蘭さんが小さい頃から整えているという林の中の秘密のトンネル。たしかに、屋敷の南側に広がる背の低い林の中、薄っすらと昼の光を翳す緑のトンネルは幾つになったって心を躍らせられる。秘密基地のワクワクだ。もっと小さい頃にこんな場所を知れていれば・・・。きっと蘭さんと初めて会った日に彼女が見せたあの快闊さや、どこか少女のような無邪気さというのも、きっとこの場所がそう育てたのだろう。

 昨日の彼女は、驚くほどに、いや、当たり前の事を「当たり前だ。」と当たり前に一蹴してしまえるような、そんな気品と美しい冷徹さと良い母親としての笑顔を身に纏っていた。でも、今日これから会えるだろう彼女は、きっと先週のような彼女でいてくれるだろうか。そうであったらいいなと、自分の心は正直に言ってくる。

 そうであったらいい。そうであったらいい。そうであったなら、なら、なら・・・。


 俺はこれから彼女と何をするんだろう。




  ◇


 向日葵を植えるなら南の空が開けた場所に。南向きの庭には南向きの縁側を設けるのはそれと同じような道理である。

 良い縁側には猫が寝るのだ、と、どこかの腕の立つ大工が言ったらしい。そしてまた別の所で、ある詩人はこうも言ったと。美人とは猫に似た人の事を言う、と。


 「・・・あら。本当に来た。」

 「・・・呼ばれたので。」

 「呼んだかしら。」

 「午後の2時、庭でツユクサを眺めているのがあなただとしたら。」

 「ふふ。こっちへ来て。」

 革靴で踏んだ芝生が靴底で一寸ズレる心地の慣れなさが妙にザクザクとした足音を立てて縁側の沓脱石に歩み寄った。

 「暑い中ようこそ。お部屋へ行きましょう。」

 「・・・いいんですか。」

 「なんで?」

 「だって僕は、昨日あなたの息子の」

 「ねぇ。」

 「なんで、す・・・」


 逃げ遅れた身体はあっさりと捕まった。

 まだ動かす余裕のあった時間の隙間は己の油断に殺された。

 奪われたのは疑問と抵抗の言葉だけでは無かった。


 「ら!らん・・・す・・・さ、さん!」

 半ば絡めとられた唇を首で引き、鼻先同士がぶつかる距離まで開いた2人の間に彼女の名前を挟み込んだ。

 「ん・・・。」

 「や、辞めましょうこんな事・・・!」

 「唇の紅・・・拭かなくっちゃ・・・。」

 「蘭さん!」


 「ねぇ、なんでここに来たの?」


 「は、はぁ!?」

 「君も、私と遊びたくて来たんじゃないの?」

 「ば、僕は!僕は・・・なんで・・・。」

 「・・・私も、少し悪ふざけが過ぎたかもしれないわね。こんな子供相手に本気になって。」

 「僕は、なんで・・・。」

 「ごめんなさい。もうしませんから、取り敢えず私の部屋で唇だけ拭かせて。そんな赤い口じゃ驚かれるわ。」

 「・・・はい。」


 先週と同じ、多くが取り払われて大広間のようになった畳の草原をスタスタと2人で歩いている。先週の自分は初めて見る屋敷の構造への好奇心で頭がいっぱいだったのだと、子供のような幼稚さ今更気付かされた。今の自分は、ただただ半歩前を並んで歩いている女性の、はだけ気味な着物の衿とうなじの間に覗く白い肌に浮いた黒子を眺めている。情けない。

 『俺はこれから彼女と何をするんだろう。』

 ガキな自分は、まだまだ心のどこかで、ただなんとなく、誘われるままに利口に進んでいれば、そのうち大人が出てきて正解を教えてくれるんだろうと、思っていた。

 そんな事は無かったのだ。それが分かった事が、少なくとも、今の自分に対する唯一の種明かしだ。目の前の彼女にも俺に対する感情の正しさなんてきっと分かっていないのだ。だからこそ彼女は俺に対してあんなに無邪気に振舞っていたのかもしれないし、ひょっとすれば、そんな風に見えていた彼女もまた・・・。

 「どうぞ入って、疲れたでしょう。座っていて。」

 「はい。」

 また座面の低い座敷用のソファに尻を落とした。その自然な身体運びに自分が既にこの空間に勝手に慣れてしまっている事が感じられて、そんな事すら顔を覆いたくなるような無礼なのだと嫌な気分になる。

 しかし、そんな事に落ち込み切りでもいられない。自分は既に一度、幼稚な自分によって誠実になれた機会を彼女という女性のプライドや覚悟と一緒に潰した。今度こそ本心から向き合わなければいけない。

 「アンリ君。隣、いいかしら。」

 「そんな。ここは蘭さんのお部屋じゃないですか。」

 「・・・ありがとう。」

 また彼女が自分の隣に座った。

 「アンリ君、お顔上げれる?」

 「はい。」

 「うん。いい子。」

 上げた顔を両手で優しく包み迎えてくれたのは、昨日の彼女に似た微笑みだった。

 「お化粧は・・・してないものね。じゃあ、お顔を綺麗にしましょうね~。」

 右手の指の間に挟まれていたチリ紙が唇にグイッと押し当てられる。

 「・・・ふふ。男の子なのに口紅しちゃって。」

 この笑みの由来は、彼女の何だ。

 「ちょ~っとお口開けるかな~。は~いありがと~。」

 さっきはあんなに驚きと緊張で身体が強ばったというのに、なんで今は、彼女の指が唇の裏側に掠めても何も嫌に感じないし、寧ろこんなに落ち着いていられるのだろうか。

 「・・・。うん。こんなもんかな~。」

 「もう・・・いいですか。」

 「うん!綺麗になりましたよ。」

 「ありがとうございます。」

 蘭さんが拭った紅の着いたチリ紙を眺めて数瞬動きを止めたのを見た。

 「・・・蘭さん?」

 「・・・ふふ、こんなに口紅移しちゃって。馬鹿みたい。」

 「その、さっきは自分もびっくりしてしまって。すいませんでした。」

 「いいのよ。私もあなたに欲求不満をぶつけちゃったんだわ。よっぽど恥ずかしい。」

 「・・・僕、キスが初めてだったんです。」

 「あら、そうなの。」

 「はい。」

 「てっきり、アンリ君なら経験あると思ってたわ。」

 「そうですか!?」 

 「えぇ、なんでかって言われたら、ちょっと困るけど・・・。」

 「そう、ですか・・・。」

 「ね、ねぇ?アンリ君?」

 「なんですか。」

 「その・・・、まずは、大事な初めてのキスが、あんな強引な、しかも私なんかで、ごめんなさい。・・・それで、初めてのキスは、どんな感じだったかしら・・・?」

 「・・・う~ん。よく覚えてません。」

 「そう・・・。本当にごめんなさい。」

 「いや、これは、多分、相手が誰でも、自分って言う人間はそうだったと思います。だから、その事は気にしなくて大丈夫です。」

 「アンリ君優しい。ありがとうね。」

 「じゃあ、蘭さんは、どうでした、僕とのキス。」

 聞いてしまった。

 「えぇ!?う~ん。そうねぇ・・・。う~ん・・・ん~!・・・私もよく覚えてないわ。」

 「ふふ、あはは!」

 「あ~!アンリ君笑った~!私傷ついちゃう!」

 「はは、お互い様でしょう。」

 「そうね、これは、お互い様ね。」

 今目の前にいるこの女性。どうやら同級生の母親らしい女性。でも、今の俺は、彼女は。何が違う?何を・・・埋めれる?

 「蘭さん。もう一度、してみませんか。」

 「・・・。」

 「蘭さんがどういう人なのか、何だか知りたいんです。」

 「私、どうすればよかったのかしら・・・。」

 やっぱり彼女も同じだったじゃないか。

 「実は、連理と知り合ったのは、自分がアイツを覗いてたからです。」

 「・・・は!?え!?今なんて!?」

 「あいつの学校での生活が気になって覗いていたらバレて逆に懐柔されました!」

 「な、何してるのアンリ君!」

 「それで、今、その病的な好奇心と興味の対象が、別の人に変わったんだと・・・思います。」

 「あ、あ、あぁ・・・。」

 流石に引かれた。こんな、言ってしまえば息子の同級生に迫るような、痴女、にまで引かれるのか。自分は思ったより、本当に病的な人間なのかもしれない。でも、だからこそ、この機会に試してみたくなったのだ。自分を、そして、目の前にいる飛び切り好みの、好みの同級生のそのまた淫乱な母親という存在に。

 「・・・ちょっと待ってね。今度は私が口紅取るから。」

 蘭さんは一瞬手元を迷わせたかと思うと、既に唇を拭ったチリ紙を逆に畳み直して自分の唇を拭った。唇を指先で軽く押してから赤い色が付いていないかジッと確認している姿が、どこかリスのような小動物の所作に似ていると思った。

 「・・・うん。よし。準備できたよアンリ君。あ、でもその前に・・・」

 「いいです。しましょう。」

 「え!?いや、ちょっと待っ、あぁ!」

 今の今まであんなに毅然としていた高嶺の花が、今や気の小さいリスか鉢植えの花のように無力な存在に感じる。もう理性より先に動いた右手が彼女の左手首を掴み、左手はうなじから後頭部を平手で包んで彼女の身体に体重をかけ始めていた。

 「アンリ君・・・。君ってそんな子だったの?」

 「どういう意味です。」

 「もういい。私もちょっとは楽しんでいいわよね?」

 「蘭さんが楽しめないのに、僕が楽しいんですか・・・?」

 「・・・もうっ!」

 また分からない事だ。

 「アンリ君、もうちょっと身体寄せていいから・・・。そう。体重もかけていいから・・・。うん・・・。んっ!・・・あ、お腹当たるの、好き。」

 「こう、ですか?」

 「そんなにわざとしなくていいから。リラックスして。ゆっくり口で息吐いて。」

 「ふぅ~・・・。」

 「うん。じゃあアンリ君・・・。」

 「ふっ!あ、」

 すぐ目の前に、また蘭さんの顔がある。しかも今度はずっと、そこにいる。

 「ふふ。やっぱりアンリ君って可愛いかも。」

 「・・・やっぱり、それが複雑。」

 「ふふ・・・んっ・・・」

 正直、唇がくっ付いたタイミングは分からなかった。自分も興奮して、心臓がバクバク鳴ってて、ちょうどタイミングが重なったのかもしれないし、いや多分、これは2人とも顔が熱くなってて唇の温度が重なったからだ。偶に、温くなって丁度体温くらいの温度の風呂に浸かる事があって、すると身体と風呂のお湯の境界線が分からなくなって全身の感覚が消えるような不思議な感覚を味わうことがある。恐らく、今の自分の唇は蘭さんとの唇の境界線を見失ってしまった。まるで、蘭さんと自分の唇そのものが1つに繋がってしまったみたいだ。

 少し息が苦しくなってきた。それもそうだ。今口は完全に彼女の口とお互いを塞ぎ合っていて、鼻の方も、彼女の顔に鼻息をかけるのが忍びなくて呼吸するのを我慢しているのだから。でも、自分はこれが好きかもしれない。彼女も目を閉じて唇を少し食むように動かしながら自分の唇を味わってくれている。やはり彼女も鼻息を荒げる事はしていないし、何より自分自身が、彼女の見せてくれているこうした可愛さを熱い静寂の下に楽しみ尽くしたい。

 彼女の吐いた息を自分が吸い、彼女の吸う息を自分が送っているなら、お互いの息苦しさもまた共有されている筈だ。故に、この潜水にも似た時間の終焉は、他の誰でもない、自分と蘭さん2人の満ち足りた熱によって終わる。

 「「 ぷはっ 」」

 離れたお互いの口はやはり枯渇した酸素を求めて一際激しくリズムを作った。既に赤らんでいた顔は更に紅潮し、彼女の色白な顔はすっかり毛布に包まれて眠る赤子の寝顔のように愛らしかった。

 「蘭さん、綺麗です。」

 「もうっ。褒めないで・・・。顔が熱くなっちゃう・・・。」

 「結局どんな感じか、なんだか頭がフワフワしてわかんないです。」

 「うん。わかんない。頭ボゥっとしちゃうよね。」

 「蘭さん・・・」

 「・・・うん。アンリ君・・・」

 今度は、先程よりも少し広く口を開けて、お互いに首を少し捻り唇の凹凸が噛み合うように口を合わせた。


 いつ来る!?

 口を合わせてから気付くのは大馬鹿野郎だった。舌を絡めたい事は分かっているのに、肝心の順序が念頭に無かった。

 いきなり入れて驚かれたくない。かといって待ち続けて息が切れるのは良くない。どうすればいい!?

 阿保の舌が一本、口の中でゆらゆらと二の足を踏んでいると、不意に舌の先に熱いものが擦れるくすぐったさを感じた。

 「ん、」

 「んん・・・。」

 お互いがお互いに舌の先端で探り合う無言の会話が始まったと感じた。蘭さんの舌もまた自分の舌の無い隙間を探しているようであり、またそう思えば、偶然擦れた舌同士の産む甘痒い感覚の余韻を惜しむように、こちらの舌先に着いて追う動きをする。もうどれもこれもお互いの涎が絡まって判別が付かなくなってきた。ただただ甘い柔肉の行方をひたすらに乞い続ける我儘な子供の戯れのようだ。

 いい加減舌を動かし続けるのも疲れてきた。蘭さんもきっとそうだったのだろう。次第に動きを緩めたお互いの舌は、気付けば少しずつ互いの舌の腹、ベロの一番柔らかくて甘味の強い肉のベッドにお互いの舌を埋め合ってしまった。とにかく気持ちが良い。自分の舌を休める、なんてことは、今までの人生で一度も考えた事が無かったけれど、こんなに心地の良い時間だったなんて。蘭さんの寝息をかくように舌の腹をさすってくる舌の奥からは、彼女の喉から漏れた子猫の寝息のような高くて細い、しかしどこか丸みのある喘ぎが微かに漏れ聞こえ、またその空気の振動が何の遮りもなく自分の喉奥まで伝わるのだった。

 口をゆっくりと離して舌を彼女の口腔から引く抜く時に少し舌を固くして彼女の舌の裏側を擦り上げてみると、離れる口から可愛らしい声がまた漏れた。

 「蘭さん・・・」

 「ねぇアンリくん、本当に君初めてなの?」

 今の自分にそんな質問を往なせる程の繊細さは無い。蘭さんだって分かっている筈なのに。返答のつもりで密着させていた腹と下腹部を一層強めに圧してみた。

 「あ、アンリくんっ・・・私、ちょっと休憩したいかもっ・・・」

 「あっ。すいません。」

 「ううん、ありがと・・・」

 彼女にかけていた上半身の重みを持ち上げ、ソファの上に膝立ちで直ると、すっかり自分に敷かれていた蘭さんがいそいそと後ずさり気味に身体を起こそうとしていた。顔立ちは相変わらず美しく、すっかり血色が良くなった顔で緩んだ口には涎が付いている。その涎のうちの幾分かは自分のものなのだと思うと、どうしても冷めやらぬ興奮が相変わらず腹の奥から湧き上がってくるのが分かった。

 「・・・起きれますか?」

 「・・・んん。アンリ君・・・。」

 彼女の疲労から潤んだ目を覗き込みたい好奇心を解消する為に、着物の両腋に腕を通して彼女の身体を抱き寄せて持ち上げると、想像していたよりも軽い身体に逆にバランスを背中側に崩してしまった。

 「おぉっと。」

 「きゃっ!」

 自分も疲れている。何とか膝の上に置いた彼女を抱きながら背もたれに身体を沈めて天井の赤いランプシェードをぼんやり眺めた。

 「今度は私が膝に乗せられちゃった。」

 「蘭さん軽い。」

 「アンリ君は、もっとふくよかな人が好き・・・?」

 今は疲れていて、もう言葉を考えるのも嫌になったから、否定の意を込めて彼女の肩を抱き寄せてみた。蘭さんの顔を見てはいないけれど、肋骨に伝わる彼女の呼吸は幾分落ち着いた調子に戻ってきたし、自分の首すじの辺りに来た彼女の顔が自分の首から顎にかけての輪郭に丁度よく嵌まって落ち着いたようだった。

 全身からドッと力が抜けていく。気を抜いたら眠ってしまいそう・・・だ・・・。




  ◇


 「・・・ハッ!」

 目が覚めて身体を起こす。

 「・・・んぁあ~!」

 すっかり疲れて眠ってしまっていたようだった。

 「あぁ、それにしても暑い。こんなに暑い中で昼寝なんかしたら熱中症になっちゃうのに・・・。」

 今自分が寝ている樫の木の木陰は丁度日を遮っていて、寝ている間に身体が日に晒される事を防いでくれていたようだった。ずっと小さい頃からここに生えている、自分にとってとても愛着のある木だ。

 「お前はいつも俺の側にいてくれるな。」

 勿論、見上げて呼びかけたって返事が返ってきたことは一度もない。でもいいのだ。なんだかずっと彼は自分の言葉を聞いてくれているんだという根拠のない確信があるから。

 「さて、続きをするぞ。」

 自分とこの樫は2つの山が陸続きになった小島の上にある。自分はその島の上で魚を釣って生活をしているのだ。

 「ん~。なかなか釣れないなぁ。・・・ん?」

 なんだか前方の海が荒れてきた。

 「おいおい・・・。」

 すぐに嵐は小島を丸ごと包んだ。吹きすさぶ暴風雨に乗ってどこからか飛んできた布切れが大量に樫の木にぶつかっていく。

 「う、うわぁ!やめてくれぇ!」

 すると今度は遠くの方から大波が押し寄せて、自分はとうとう小島から流されて波に飲まれてしまった。

 「うぅ!溺れる!!」

 身体はどんどんと深海に向かって落ちていく。

 「いやだ!助けてー!」

 堪らず大きな叫び声を上げると、水中から見上げる海面の鏡から微かに音が聞こえてきた。音は少しずつ音量を増していき、とうとう細かな内容まで鼓膜で感じることができてくる。

 「・・・子守歌?」

 優しい歌声だ。

 「このまま底まで・・・。」

 身体も意識も歌声も、全てが一緒に深海に沈んでいく。




  ◇


 「・・・あら、起きた?」

 「・・・誰。」

 「いやね。着替えたくらいで忘れられちゃうなんて。」

 「・・・蘭さん?」

 開いた瞼の奥で湿った眼球が霞んだ視界に最初に見たのは、真っ白なレースのカーテン。カーテンじゃない。片方の視界を天井から遮るように並ぶ2つの山は、白いワンピースを着た女性の胸の布地だった。

 「おはよ~。」

 「今何時ですか。」

 「大して経ってないわよ。心配しないで。まだ日も高いわ。」

 「すいません、なんだかドッと疲れが来たみたいで。」

 「初めてなんてそんなものよ。」

 自分の頭を膝に乗せ、顎から首にかけて添えられた彼女の右手は暇そうに自分の左耳たぶを指先で弄って遊んでいる。反対の腕は丁度ソファの左隅に座る彼女の左脇に備えられたひじ掛けに立てられ、その先で軽く握った拳が凹ませた彼女の左頬には外から届いた淡い南西の白光が反射して、彼女の気怠け表情に一層の幻想性を演出しているようだ。

 「初めて見ました。ワンピース。」

 「え?あぁ、確かにそうね。あなたにはずっと和服だったわね。」

 「あと、髪を解いてるのも。」

 「暑くなっちゃって。・・・どぉ?似合ってる。」

 「はい、可愛いです。女の子みたい。」

 「もう、一応あなたと同い年の息子もいるのよ?」

 「・・・。」

 「・・・ぷ、あはは。自分で困っちゃってる。可愛い。」

 「蘭さんは可愛いのが好きなんですか。」

 「う~ん。可愛いのも、好き。でも逞しい人も好き。」

 「じゃあ、僕は蘭さんの中では、可愛い、なんだ。」

 「ふふ、そうね。そうだったかも。」

 「なるほど。」

 「でも、君、キスはとっても逞しかったわよ。」

 「蘭さんが取り乱してるのが何だか可愛くて。」

 「もう1回する?」

 「いや、もういいです。」

 「あはは!私も!」

 「・・・僕の事、好きなんですか?」

 「・・・ふふ、私が君の事、本気で好きって言ったら、君は私と2人で遠くに逃げて、働いて私の事養ってくれる?」

 「好きではないって、ことですか?」

 「も~。嫌いな人に、誰がこんな事しますか。」

 「いでででで・・・」

 少し強めに頬っぺたを抓って伸ばされた。

 「わぁ、君の頬っぺた、良く伸びるのね!」

 「蘭さん痛い!」

 「ごめんね~。」

 「・・・僕はまだ、いやもっと、連理とも仲良くしたいんです。」

 「そうよね~。だから、君と私は、内緒の遊び仲間ってことにしない?」

 「遊び仲間・・・」

 「そう、エッチな事をするお友達。」

 「・・・ひょっとして、他にもいますか。」

 「そう!それが実はしばらくいなかったのよ~!連理に手がかかるし、かといって本命のお父さんは大学にお部屋を持ってから殆ど帰ってこないし!」

 「なるほど・・・?」

 なんだか、キスまでしておいてまだ心のどこかが納得できていないモヤモヤが眉間の間から滲み出そうだったところを、肘掛けから離して伸ばされた左人差し指に押さえられて堰き止められた。彼女の少し気怠けな顔が自分の眼球を覗き込んでくる。

 「私たちの関係は秘密に・・・まぁ、君なら言わないか。」

 「はい。」

 「それじゃあ、約束ね。」

 近付いてきた顔を持ち上げた顔で迎える。

 「次はいつ来てくれる?」

 「わからないです。用事かなにかないと。」

 「理由なんて、幾らでも考えればいいじゃない?」

 「う~ん。」

 「ふふ。まぁいいわ。何でもいいの。そうねぇ・・・あっ!『忘れ物した』とか。」

 「忘れ物ですか・・・。」

 「ふふふ。すぐ来てね。楽しみにしてるわ。」




  ◇


 「忘れ物かぁ・・・」

 帰りの下り坂を腕を組んで降りている。転んだ時の為に腕を組むのはあまり推奨されていないのだが、どうしても今の自分には、そんな風に嘘を仕立て上げられるような大人の器用さは育っていないのだが。

 「なんで蘭さんは忘れ物なんて言ったんだ・・・う~ん!」

 踊り場のようになった四角い3畳ほどの平地から港町の景色に向かって胸を張って仁王立ちをかましてやった。中々堂々とした出で立ちだと自画自賛してやる。

 夜に冷やされた海に向かって山から降り下りていく陸風を背中に受け、その風が少しばかり服の中にも滑り込んできた。さっきあれほど興奮したからか、身体に触れる風が驚くほど気持ちいい。特に、股間の辺りを吹き抜ける風のなんて清々しい事か。

 ・・・ん?股間?

 「あっ!」

 ふと今更になって、自分が気を失っている間に彼女が着替えていた事に頭が巡った。

 「忘れ物、かぁ・・・。」

 また会いに行く理由ができてしまった。




  ◇


 俺と蘭さんの秘密の遊びは、あの日舌を絡めてしまってからはあっという間に習慣化してしまった。平日は無理に会わない。というより、会わない方が良い事の方が多い、という2人のしたたかな了解があった。自分は今まで通り朝早めに学校に行って北野から期末試験の勉強を見てもらっていて、学校生活での連理との交友も変わらずの事だった。あいつは夏休みまでに例の夕焼けの茜坂の絵を仕上げてしまいたいのだと、火曜と木曜の美術クラブの活動は夜の9時までみっちり缶詰になって、それ以外の日はやはり期末試験の勉強で、時には一緒に屋敷の連理の部屋にお邪魔して連理の得意な化学の勉強を聞きかじりながら、自分は赤点を喰らって夏季補習に突っ込まれないようにしようという魂胆を着々を実行していた。

 要は、今の俺の生活には2つのテーマがあるのだという事は、容易に理解して頂けるだろう。

 1つは、期末試験の為の学生らしい勉強の習慣化。正直、ここ最近は北野と連理という、自分のような万年成績不振男には似つかわしくない程の優等生たちが勉強を診てくれている。「習慣は人付き合いから」と言うように、こうも勉強人間といる時間が長いとなんの気を使わなくても勉強時間というのは不思議なくらい伸びる。ただ非常に悩ましいのは、なにぶん今まで勉強とは縁が無かった生活のせいで、目の前で机に向かう彼らなんかよりもよっぽど早く集中が切れて欠伸が出てしまうこと。まぁ、もっとも、それでもこんな生活が続けられている理由こそが、まさに2つ目のテーマでもあるのだろう。

 2つ目は、蘭さんとの内緒の遊び。とにかく、彼女と少しでも会ってドロドロとした蜜肉の時間を、どう誰にも勘付かれずに確保するかという事に、今の自分のモチベーションの大半は注がれている。ん?この生活があまりにも不純で正しくないって?当たり前だろう。思春期の男子にこんな甘い遊びを教えたのが悪い。

 彼女と遊ぶのは、まずは日曜の午後、次に火曜、木曜、そして偶に連理の勉強に付いて行った時のちょっとした隙間時間だ。正直な所、連理から勉強を教わるのは、あまり文句を言えた立場ではないが、凄く眠くなる。だから勉強の合間に廊下の影や物置の中で、軽く目を醒まさせる為にも、蘭さんとの献身的な交わりは実によく役に立っているといえるだろう。もう殆ど学校か遠藤邸に通うような生活である。しかし、勉強というのはこの年頃の人間にとってはとても都合のいい言い訳になりえて、そうやって夜の帰りが比較的遅くなる事が増えても、不思議と母さんに訝しまれたりすることはなかった。

 蘭さんとは基本的に口と舌で遊んでいる。あの日のキスが蘭さんはかなり気に入ったそうで、いつも会うなり抱き着いてきて、こちらの顔をうるうると見つめてから、まだ少し慣れなさそうに唇を尖らせて顔を近付けてくる。何度見ても、彼女が頬を赤らめながら見つめてくる姿は少女のように若々しく映る。そういえば彼女は何歳なのだろう。恐らく、かなり若い母君なのは間違いないのだろうが。生れてからずっとあの広い家の中で、本来の活発な人間性を時には自制しながら生きてきたのだろう。とにかく彼女の、知らないものを知ってしまった時ののめり込み方の激しさというものに、会ってまだ一月経とうかという段で思い知らされている。

 ここ数日、彼女も今まで以上に気を許してくれているのか、キスをしている時は身体をかなり好きなように触らせてくれるようになった。そうは言っても、どうやら、しばらく彼女の細かな反応を見て観察しているうちに、彼女なりに嬉しい事や嫌な事というのもハッキリしている事が分かってきた。彼女は何かをされる時、それが目を閉じている時なのは良くないらしい事も、その1つである。彼女の細い身体のラインは非常に撫で心地がよくて、特にシルク地のワンピースなどを着ている時は、腰をさする手に伝わる彼女の体温と若干ぬめりの伴う生地の手触りが恐ろしく官能的な心地を演出するのだが、そんな折にまるで尻尾を振るみたいに微かに揺れる尻の気配を平手に感じようと揉み上げてみたのだった。それが丁度、彼女が目を閉じて、自分のベロの腹を舌先で味わおうとしたタイミングで、彼女の舌は自分が揉んだ瞬間にすかさず引かれてしまった。口を塞ぎ合っていることが多いし、なにより人気のない静かな屋敷の影でベラベラと話す訳にもいかないから、最初は中々噛み合わないタイミングもあったけれど、そんな心配も、数日続けているうちに、なんとなくお互いの手の内を晒し終えてから要らなくなった。彼女も別に尻が揉まれるのが嫌な訳では無いらしいし、寧ろ尻を掴ませてくれてからは自分から腰を引いて、こちらの腕に乗るように体重を預けてくれる。お互いが落ち着く体勢というのも幾つかあって、それも今尚2人で研究しているのが、今はとにかく楽しい。彼女の舌はいつも甘い。

 「ん、ん・・・。ぷはっ!・・・。アンリ君、そろそろ連理の所に戻って。心配させちゃうわ。」

 「はい。」

 「・・・あ、ヨダレ垂れてる。」

 「え。あ、まずい。」

 「アンリ君、こっち来て。」

 「もう、充分来てるでしょう。」

 「もっと、もっと。」

 「おわりって言ったのは蘭さんなのに。・・・はい、こうですか。」

 「うん。」

 いきなり顎から下顎から下唇の間、垂れたヨダレを蘭さんの舌の腹が撫でさらっていった。

 「わ!」

 「ぇぇろ・・・。」

 「なんか余計ベチョベチョになった・・・。」

 「ふふ、本当ね。・・・ねぇ、アンリ君。夏休みは来れる?」

 「えぇ、そのつもりで・・・いや、夏季補習に突っ込まれなければ。」

 「連理と一緒に頑張ってね。」

 「はい。それじゃあ。」

 袖で口を拭いながら連理の部屋がある2階へ階段を登っていく。連理の部屋は上がって右曲がり、左手の手前から2番目だ。その奥には父君の書斎兼研究室があるらしい。襖を開けると、そこにはやはりいつも通りの、泣く子も黙らせ鬼すら泣き出しそうな鋭い目線を教科書に突き刺す痩せた男がいた。

 「なぁ、アンリ。俺にも分からない所があるんだが。」

 「勘弁してくれ。お前に分からない事が分かる訳ないだろう。」

 「アンリにも、『全く分からない事の調べ方』を教えてやるから、一緒に調べてくれないか。」

 「はいよ。畏まりました。」


 連理の部屋には南向きの窓がある。外を見ると1階の屋根のさらに下向こうには庭があって、その奥には例の隠し戸に繋がるトンネルがある林と、蘭さんが趣味で育てているという花たちの鉢植えが並んでいる。その中には、あの日手紙に挟まれていた青い花もあるのだろうが、もう暗くなった今は見えない。見えるのは、坂の下に広がる港町の灯り、まるで蛍の大群だ。これから本格的に夏も始まると、きっと池のあるこの庭には本物の蛍が湧くんだろうが。

 「もう夜も寒くなくなったな。」

 「あぁ。」


 春の終わりだ。夏が始まる。


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