第5話

  ◇


 「なぁアンリ、そういえば先週末は俺の家に来なかったな。」

 「あ、あぁ・・・。」


 月曜はカラッと乾いた風の少ない昼になった。校庭の樫ものんびりと日光浴をし、自分たちというのもいつも通りその木陰に腰掛けて昼食を取っている。


 「地図が分かり辛かったか?」

 「いや、地図は、見やすい。俺が馬鹿なんだ。」

 「・・・なかなか大手を振って『そうだそうだ!』とは、言い辛いな。」

 「自分にはどうもあの屋敷街の整然としすぎた感じが苦手らしい。道の区別がつかなかった。」

 「あぁ、たしかに。あそこは町の開発の時に塀ごと整備したんだ。だからどの家も塀の見た目が同じなんだよ。」

 「なるほどなぁ。道理で。」

 「俺も普段から見ている景色で油断してた。よし、今度は学校の辺りで待ち合わせて案内しよう。なに、一度覚えてしまえばあとは単純さ。」

 「あぁ、ありがとう。」

 会話の区切りを見計らった連理が漆塗りの弁当箱に押し込まれた分厚くて鮮やか黄色の出汁巻き玉子に箸の先を突き刺した。遠目から見てもまるで綿か赤子の頬みたいにふわりとした弾力を称えながらほぐれた一口分をその日一番の幸せな顔に放り込む。

 「・・・相変わらず、お前のその顔は見ていて飽きないな。」

 「あんまり飯を食う人の姿をジロジロ見るのは良くないぞアンリ。」

 「ごめんって。ただ、あんまりにもなんでな。」

 「あぁ、母様は出汁巻き玉子に砂糖を多めに入れるんだ。昔から甘い物が大好きな人でな。だから正直、この出汁巻き玉子は醤油のしょっぱさを意識すればおかずだけれど、そのもの実際はお菓子みたいなもんだ。」

 「へぇ、甘いのか。うちの母ちゃんは砂糖は入れないな。もっとも、ほとんど目玉焼きだけどな。」

 「ハハ!俺は目玉焼きも好きだぞ。マヨネーズをかけると尚美味しい。」

 「マヨネーズってなんだ?」

 「知らないのか?こう、白と黄色の間みたいな色をしてて、少し酸味のあるもったりとしたソースなんだ。」

 「ちっとも味の想像が付かない。」

 「なんでも卵と油と酢をよくかき混ぜて作るらしい。」

 「おい、それってつまり、お前は目玉焼きに卵をかけて食ってるってことか!?」

 「まぁ、そうとも言えるかもな。」

 「それっておかしいじゃないか。卵に卵をかけるなんて。」

 「なんだと。それを言うなら、俺たちは普段から豆腐に醤油をかけるじゃないか。」

 「ムム。たしかに・・・。」

 「アハハハ!まぁいい。いつか味わわせてやる。それに、そのうちどの家にも普及するかもしれないしな。」

 「本当か~?でも、期待しておくよ。」

 「あぁ。そんな事より、さっさと弁当を食わないと。」

 連理は再びほぐした出汁巻きのもう一かけに箸を刺して持ち上げ、パクリと大口に黄色いふわふわをしまい込んだ。相変わらず、今丁度食べている出汁巻き玉子みたいにもちもちと頬を動かしている。

 出汁巻き玉子が出汁巻き玉子を食べているな・・・。

 連理を覗き見していた頃の自分は、連理という人間をこれっぽっちも理解していなかった。彼がこんなに表情豊かで、よく笑い、友達付き合いに活発で熱い男だなんてことは、この男の、痩せた女の子みたいに白くて細い身体と、机に向かっている時の野犬も尻尾を巻いて逃げ出しそうなしかめっ面を眺めていただけでは、どんなに人を見る目があったとしても見抜けないだろう。

 特にこの出汁巻き玉子を食う顔は傑作だ。こんな表情をして許されるのは、年端も行かない少女かコイツだけである。


 饅頭を食べてた時の蘭さんによく似てる・・・。


 「そう言えば、週末に母様が友人から差し入れられたという饅頭をおやつに出してくれた。」

 突然来た。

 「へぇ。どんな饅頭だ。」

 「ほら、お前のガールフレンドの北野さんの家のだよ。」

 「ガ!ガールフレンドってなんだ!」

 「違うのか!?」

 「ただの勉強を診てくれている気の知れたクラスメイトだ。」

 「・・・それを、ガールフレンドって言うんじゃないのか?」

 「連理、お前って奴は・・・。そんな事ではこの先叶わぬ恋慕によく苦しむ事になるぞ。」

 「そう、か・・・。」

 なんだか落ち込ませてしまったかもしれない。

 「いや、俺も言い過ぎた。確かに、最近は雛実と一緒にいる時間も多かったから、傍から見たらそう見えたのかもしれん。」

 「ほら!下の名前で呼んでる!」

 「あのな、別に女の名前を下の名前で呼ぶくらいでガールフレンドだのなんだの言うのは過剰だぞ。」

 「そ、そうかな!?」

 「あぁ。俺はそう思う。」

 「そうかぁ・・・、でも、俺はお前もちょっと鈍感だと思うけどなぁ・・・。」

 「・・・そうかぁ?」

 「・・・ふ、ふふ、アハハハ!」

 「おいどうしたいきなり。」

 「いや、一度こういう話ができる友達を持ってみたかったんだ。それは不意に叶ってしまった。」

 「俺なんかで良ければ幾らでも馬鹿話に付き合ってやるよ。素人意見で良ければ絵の品評もな。」

 「ハハ・・・この人たらし。」

 「なに~?」


 「今週の土曜の午後2時に学校前で待ち合わせだ。それで良いだろ。」

 「あぁ、わかった。遅れないようにするよ。」

 「それと、もし良かったら俺の母様に紹介させてくれないか?」

 ・・・。

 「・・・ちなみに、なんでだ?」

 「あぁ、母様は、本人は隠しているつもりだったんだろうが、ずっと俺に友人の気配がない事を不安がっていてな。少し安心させてやりたい。」

 「なるほど・・・。分かった。俺は問題ない。」

 「ありがとう・・・!それに安心しろ、母様もその実かなり賑やかな人だから。そこまで畏まる必要もない。いつも通りの調子でいてくれれば大丈夫だから。」

 「あぁ、わかった。」


 不安だ。




  ◇


 遠藤邸の門の前。ここまでの道のりは省く。

 立派な数寄屋門。立派な「遠藤」の表札。相変わらずの存在感に圧倒される。

 「さぁ、入ってくれ。」

 「お、お邪魔します。」

 門を潜ると、南向きに幹を曲げて軽い日除け屋根のようになった松の植栽が3本ほど並んだ玄関までの数m。白い砂利に浮かんだように敷かれた石畳を渡って入った玄関広間の風景や、控えめに備えてあるうちの半分程度しか灯されていない照明には確かによくよく心当たりがあった。

 少しは、先日の爛れた肉色の夢の如き体験が、今日訪れるこの場所とは全く関係のない空似で、これから会うだろう友人の母親であるその女性も、全く見当も付かないような至って”普通の”お母君であってほしい、と、最後の最後まで願い続けていたのだが、

 「・・・もうどうにでもなれ。」

 「ん?どうかしたかアンリ?便所なら廊下の先だ。」

 「あ、あぁ。ありがとう。別にそういう訳ではないんだ。」

 「緊張しているのか?ハハ、お前らしくもない!」

 人の気も知らずに・・・。

 ・・・いや、寧ろ今の自分より、全容を知った後の連理の方がよっぽど酷だ。俺がこんな所で怖気づいてどうする。寧ろ、多少なりとも勝手知ったる場所だとも言えるではないか。

 スーッと鼻で息を吸う。屋敷全体を欄間伝いに吹く爽やかな山と潮の混じった馴染み深い風を肺いっぱいに吸い込んで、口から軽く吐いた。

 「よし。行こう。」




  ◇


 場所は応接間。

 当たり前ではあるが、こんなに立派な屋敷に客人をもてなす為の部屋が無い訳無いのであった。まさかいきなり婦人の自室に招かれるなんて、普通は坂から転がり落ちても無い筈である。

 「アンリ、くつろいで待っててくれ。母を呼んでくる。」

 「あ、あぁ。じゃあ、お言葉に甘えて。」

 奥の襖に消えて足音だけを残した連理の気配も数瞬で消え失せ、この空間を包んだ静寂には最早自分の息遣いと緊張で高鳴る鼓動だけが響いている。いや、風はあるし、恐らく庭の池の流れであろう水流の控えめな音もある。しかし、今の自分にそんな風情を楽しむ資格があるのかすら自分で分からない。客人の気分は先週末に浪費し尽くしたのだろう。

 突然脇の襖が開いた。

 「失礼致します。」

 控えめな色模様の着物に黒地の前掛けをした女性がお盆にお茶を載せて入ってきた。恐らくはこの家の女中の方だ。

 「お茶をお持ち致しました。」

 「あ、ありがとうございます。」

 女中は自分の返答に気が付いたようにチラリとこちらの顔を見た後、一瞬微笑んだように見えてから、すぐに粛々と机に3つ湯呑みを置いた。どうやら冷茶のようだった。

 「失礼致します。」

 去り際の女中は軽くこちらに礼をして再び脇の襖に消えた。彼女の微笑みに幾分気持ちが解れ助けられたことは間違いなかった。


 軽くしかし芯のある、コンコンコンとノックの要領で木の柱を叩く音が部屋に響いた。

 「アンリ、入るぞ。」

 声とともに開いた奥襖から現れた2人の人影を見た瞬間、自分という人間は馬鹿みたいに、不思議と肩から力が抜けて眉間に寄った皺がすっかり間抜けに緩んでいくのを感じた。

 「紹介する。こちらが、俺・・・、僕の母親だ。」

 「初めまして。遠藤、蘭。と申します。」

 あぁ・・・。やっぱり、面影が連理と似ている・・・。

 「え。あぁ・・・初めまして。坂下アンリです。この度はお招きいただきありがとうございます。」

 「こちらこそ。珍しく連理が友人ができたと言いますし、しかもお家に招くくらい仲良くなったと聞いて。私の方こそあなたが来て下さるのを今日まで楽しみにしていたんですの。」

 「ありがとうございます。」

 「ささ、母さん。座って。」

 「あぁ待って、たしか北乃屋さんでお茶菓子を買っていたわ。」

 「じゃあ僕が取ってきます!」

 「あら、いいの?折角お友達が来ているのに。」

 「別に俺はいいよ連理・・・。」

 「いやすぐだから。ちょっと待ってて下さい。」

 「あっ、連理・・・。」

 連理が受かれた調子で脇の襖から出て駆けて行ってしまった。


 ・・・息が、詰まりそうだ。


 自分が座した来客用ソファから黒漆の机を挟んだ向かいに座っている女性の方をチラリと見ると、まるでひな人形のように奥ゆかしい微笑みを貼り付けた、確か自分は既に会った事がある筈の女性が座っている。

 こんな時にどうすればいいかなんて知る訳が無い。全てが自分の意表を付くように積み重なった今までのあらゆる境遇がここに集い極まった気分だ。いや、そうに違いないじゃないか。


 「あの・・・、お、お、お久しぶり、です・・・。」


 「あらあら。ふふふ・・・。」


 どう、返ってくる・・・?


 「アンリ君、よね?私、あなたとどこかで会った事があったかしら?」


 そう来たか・・・。


 「いや!すみません多分人違いですっ!」


 「あら!まぁ!・・・ふふ、お可愛い事。」

 「こ、ここ、この度は、お、お屋敷にお招き頂き、ま、誠に有難う御座います・・・っ!」

 「ふふ、緊張してますか?いいのよ。今日は連理とお話している所を横から眺めていたいの。」

 「はぁ・・・なるほど。」

 「お話にも聞いているかもしれないけれど、連理は昔から1人の事が多くてね。こんなに広いお庭があるのにお友達を呼んだことなんて数度もなかったわ。」

 「なるほど。」

 「ね?今日は来てくれてありがとう。これからも連理と仲良くしてね。」

 「わかりました。」

 「・・・うん。ありがとう。」

 「失礼します!」

 いつになく緊張した風の連理がトコトコと北乃屋の箱を携えて戻ってきた。

 「あら、ありがとう連理。でも、折角あなたに会いに来たご友人を待たせてはダメよ。」

 「あ、すいません。」

 「ささ、頂きましょうね。」

 机の上に置かれた箱を開けると、中に入っていたのは黒糖を焦がしたほんのり甘い香りのするふわふわの饅頭だった。

 「あぁ、やっぱり。ぼく、この饅頭好きです母様。」

 「そうね、私もお茶に合うから好きなの。」

 親子の会話の最中に眼前に置かれた饅頭をジッと見つめる。頭が発するべき言葉を見つけようと脳味噌の迷路をトボトボと彷徨い歩いている。

 「アンリ君はこのお饅頭好きかしら。」

 「えっ?あっ、はい。大好きです。」

 「まぁ!それはよかった。」

 彼女の今日一番、一際明るい少女の笑顔が網膜に焼き付く。

 ―――向日葵畑。

 夏の気配を乗せた、嫌に生温かい風が顎を撫でて午後の茶会が始まった。




  ◇


 結局、話の内容なんて何にも頭に入らなかった。啜った茶も、あんなに好きな黒糖饅頭の味も、何にも感じなかった。ただただ楽しそうな連理に相槌を打ったり、ちょっとした質問には日頃の習慣を持って適当な返事を返す無意識下の反射的な自分に任せて、後は楽しそうな連理の姿と、それを見て嬉しそうに微笑んでいる蘭さんの姿を交互に眺めているだけだった。

 どこか、自分のような庶民育ちの人間が育ちのいい高貴な人々の戯れに振り回されるという使い古された古典劇の舞台に上げられている、正にそのもののようだったかもしれないし、そんな風に自賛できる程上手く立ち回れているかも、てんで見当が付かないと言えてしまえれば、それが一番正直なんだと思えた。


 「今日はわざわざ屋敷に来てくれてありがとうアンリ。とても楽しかったよ。」

 「あぁ、それなら良かった。」

 「またいつでも来てくれ。なんなら今度の試験勉強だってしに来て良い。いや、一緒にしないか。」

 「あぁ、確かにそれは・・・俺にとってもいいかもな。」

 ふと、連理の斜め後ろに立っている蘭さんの方に目が行った。結局、いや当たり前だが、彼女は終始、連理の母親であった。自分の目を眩ませた笑顔の後にいたのは、ただただ気品ある淑女の姿で、 

 「またいつでもいらして下さいね。」

 「・・・はい!今日はお邪魔しました。」

 「あぁ、もう暗いから気を付けて帰れよ。」

 「はは、言われなくたって。それじゃあ!」




  ◇


 今日も今日で疲れた。この屋敷は自分を疲れさせる為にあるんじゃないか。そう思える。

 全く長い塀である。敷地に沿って一定の高さを保ち続ける従順な白い左官仕事の瓦付き回廊が、まるで自分を導くかのようにぬるりと北向きの門から下りの道へと案内してくれる。

 ・・・そろそろ隠し戸の辺りだな。

 隠し戸は坂の高い位置、外の塀の根元の高さと屋敷内部の地面の高さが丁度重なる位置に印も無しに開けられていて、その位置というのがたしか、丁度数歩先の角を曲がって少しの、下り坂が始まろうという所だった筈だ。ひょっとしたら、角を曲がるとそこには、先週の自分を大いに惑わしたあの蘭さんが立っていて、自分を待ち構えているんじゃないか。まだ短い間ながら、自分が触れてきた遠藤蘭という女性なら、それ位の悪戯を自分に仕掛けてきてもなんの不思議もないんじゃないか。

 今日一番の深呼吸をしてから、グッと息を止めて、大きく一足、交差点に身体を乗り出した。


 下り坂に続く道には、誰も立っていなかった。

 「・・・なんだ。別にそこまでの事をする人なんかじゃないじゃないか。」

 馬鹿みたいにため息を吐き出して、安堵の大股を踏もうと地面をチラリと見下ろした。それがマズかったのだ。

 「・・・なんだ?」

 道の隅に拳くらいの石で留められた封筒の白色が、夕闇の薄暗がりにボゥっと浮いていたのだから。


封筒を摘まみ上げ、中から2つ折りの紙を恐る恐る開いた。


 『明日、本日ト同刻。戸ヨリ入リ庭ヘ。ツユクサノ鉢ノ前。』


 そう書かれた紙の間には黄色い雄しべを伸ばした真っ青な花が一輪、茎ごと摘んで挟まれていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る