第3話

   ◇

 「いやいや、この空は流石に赤すぎないか?」

 「全く、これだから絵に触れていない人間というのは風情がないんだ。」

 「この絵の空の色が赤い事に風情が関係あるのか?実際の色と違うじゃないか。」

 「だからそれを言っているんだ。この空の色は実際の空の色ではないんだ。夕日の赤に感情や、背景や、色々なものを乗せているんだよ。」

 「それが、なんで夕日をここまで赤くすることになるんだ。もうちょっと黄色いぞ。」

 「・・・ハァ。君に絵の品評なんかお願いした自分が悪かったよ。」

 「悪いな。まるっきり分からなかった。」

 「いや、いいんだ。むしろ新鮮な気分だよ。こうして全く思い通りじゃない感想を貰う経験っていうのは学びが多いんだと父様から習った。どんなに不都合で不愉快でも聞き学べ、とな。」

 「悪かったって。でも、綺麗な絵だとは思うよ。」

 「はは!ありがとう。風情が分からなくて都合が悪くても、お前が素直なのは美徳だよ。」

 「そう言って貰えると助かる。」

 「あぁ。」


 放課後の美術室の隅。窓際の黒板前に敢えて遮光カーテンで日の光を遮り、その上で白い電球で照らされている夕日の坂道の風景画は、ここ1ヶ月ほどかけて連理が描き上げたものだ。まさか当初は廊下から描く姿をこっそり覗いてたというのに、今はこうして作者本人と並びながら感想を求められている。とんだ生活の変容だが、そんな貴重らしい機会を頂いた当の私自身は、こんな油絵に感想を言う事なんて人生で全く無かった人間だから、気の利いた事なんてはなから諦めて、見たままを素直に伝えるしかなかった。結果は、芸術の分からない一般人の素直な感想という至極当然の事に至ったのだったが。


 「この絵は、俺の屋敷から少し降りた所から見た茜坂の風景をスケッチに素描して、それを元に描き直したんだ。」

 「ほぉ~、中々手がかかってるんだな。もっとこう、気の赴くままにサッサッと描いてるんだと思ってた。」

 「まぁ、描かない人間には想像できない手間ってのは何にでもあるものさ。」

 「なるほど坂の上かぁ。じゃあ、そこから見た夕日ってのは、実際俺の想像しているより綺麗な赤に見えるかもしれないなぁ。」

 「あぁ、なるほどな。たしかにそんな話は聞いた事がある気がする。」

 「あぁ、昔旅行で見た富士山はどんな名画よりも綺麗だった。」

 「そうそう。どこかで読んだんだけど、ある人が海外旅行に行く機会を得て、そんな時に自分が大好きな画家の風景画のモデルになった風景を見に行こう!という話になったんだそうだ。」

 「俺が富士山を見に行こうとした時もそんな事を考えたな。」

 「で、その人は、その風景画を見て『いったいこの画家の目には、どんな風にこの景色が映って、こんな美しい色使いにしたんだろう。』という疑問への究明を求めたんだ。」

 「なるほど。」

 「そして実際にその人は旅行の折にその土地を訪れて、実際にその風景に辿り着いた。」

 「それで。」

 「そこには、絵で見たのと殆ど同じ色合いの風景が広がっていた。」

 「・・・ん?それって。」

 「その画家独自の卓越した色彩感覚だと思っていたその風景画は、思っていた以上にただ忠実に風景が描かれていただけの作品だったってことが分かっちゃったのさ。」

 「・・・あぁ、なるほどなぁ。」

 「まぁ、その色遣いを抜きにしたってそういう名画は名画足り得る素晴らしさを持っている。別に自分の今までの感動や価値観が落ちぶれる事もないと、俺は思うけどな。」

 「なるほど。」

 「中々面白くないかこの話?俺は結構好きなんだけど。」

 「うん。面白いよ。そんで、俺も実際にそういう体験ができるのかもしれないと思っている。」

 「実際に、って、この絵のことか?」

 「そう。実際、茜坂なんて名前の付いた場所なんだ。俺みたいに学校から下と港ばかり見てる人間には知らない美しさってのがあるかもしれないだろ。」

 「よしわかった!アンリ、お前俺の家に来てみないか?」

 「遠藤の家って茜坂の頂上辺りだよな。」

 「そうだ。この絵のモデルとなった風景もその辺りだし、案内できる。」

 「あぁ、わかった!ありがとう。じゃあ近いうちにお邪魔するよ。」

 「いつでもいいぞ。最近は来客も少ないし、父は不在が常だからな。」

 「そうなのか。」

 「ちょっと待て、今簡単な地図を描く。」

 「あぁ、ありがとう。」

 すぐそばに置いてあった鞄からゴトゴトと筆箱とノートを取り出し始めた連理を横目に、再び連理の描いた風景画に視線を戻す。前面中央に手すりのある石畳と階段が描かれ、それが偶に折れ曲がりながらも概ね真っ直ぐ山の麓に向かって伸びていく。その左右には数件の民家が暗い色で描かれていて、しかしこの絵の主題というのは明白にこうした町の構造ではなくて、その上方、遠くに広がる一面の真っ赤な夕焼け空である。紅のグラデーションは海の小波に煌めきを与え、その中に港へ帰る小漁船の影がまた浮かんでいる。自分の目には充分に綺麗すぎる一枚だ。もっと素直に賞賛してやれば良かったかもしれない。ただ連理の、素直じゃない性格から来る奥ゆかしい自慢気な息遣いと、どこか痛快な刺激を求めているような普段からの雰囲気に乗じて、回りくどく言ってみた事だったのだ。

 廊下に飾ると映えるだろうなぁ。

 連理の絵を飾りたがる校長の気持ちが少し分かる気がする。

 「・・・ん?」

 1か所、不自然な部分を見つけた。それはキャンバス中央よりやや右下側の手すり部分。石段の踊り場から手すり、そしてその上の空にかけて、よく見ると縦長な長方形のような塗り直し、描き直しの後が浮き出ていた。

 「何だろう。」

 絵画内の構図やスケール感から見て、この大きさの塗り直しは、

 人物か。


 「描けたぞ、アンリ。」

 「ん、あぁ。ありがとう。」

 「・・・どうかしたか?」

 「いや、すまない。ここが、少し気になってしまって。」

 「どこだ。・・・あぁ、それか。やっぱり少し目立つかな。」

 「まぁ、よくよく近くで見なければ気付かないだろ。」

 「そこに、元々人物の後ろ姿が描いてあったんだ。この夕日の茜坂を眺めて佇む人がさ。」

 「なるほどなぁ。なんで消しちゃったんだ・・・。」

 「この絵に合わないと思ったんだ。着物の生地まで描き込んでたんだが、どうもこの風景の雄大さと絵の中で噛み合わせがとれなくてな。」

 「そうなのか。少し見て見たかったな。」

 「まぁそういうな。本当に上手く描けなかったんだから。」

 「うん、作者がそう言うならそうなんだろう。俺はこの絵でも充分に綺麗だと思うよ。」

 「ありがとうな。それと地図、目印になるものを描いてあるから、空いてる時に適当に邪魔してくれ。本当にいつ来てくれてもいいから。」

 「わかった。じゃあ今週末にでも。」

 「あぁ、待ってるよ。」


 破いたノートのページに描かれた地図をチラリと見る。確かに簡単なものだけれども、これくらいなら容易く辿ることもできるだろう。

 「なぁ連理、答えたくなけりゃ別にいいんだけど、」

 「なに?」

 「その消した人物ってのには、モデルがいたのか?」

 「・・・あぁ、母親だよ。」

 「お母さんか。描いて貰えたら嬉しいんじゃないかな?」

 「まぁ、そうかもな。」

 「な?」

 「でも、」

 「・・・でも?」

 「・・・僕じゃ描ききれないよ。」




  ◇


 茜坂は好きだ。故郷として好きだし、そうした親しみを別にしても、この石階段の景色というのは、多少の生活の不便さに目を瞑れば、牧歌的な港町に幻想的な雰囲気を加えた非常に美しいものに間違いない。駅前には土産物屋があって、その入口を入って右手すぐのところに回転するハガキ入れがある。そこにはこの茜坂の色々な景色を描いた絵が刷られた絵葉書が売っていて、母さんなどは季節の便りを当てる時にそれを買ったりしている。中には、やはり夕焼けの坂道を描いたものもあっただろうか。

 しかし、不意に頬を撫でる昼の香りが、そんな土産物の回想が無粋だろう事はすぐに教えてくれた。


 「たしかに、下で見るよりも空が広くて綺麗だ。」


 普段は来ない学校より上の石階段。気付けば垂れ下がって足元の石段の個性的な欠けや、ヒビ割れから伸びる野草ばかり見つめている頭を上げて、山頂から吹き抜ける柔らかい風の行方を追うように振り返ると、小波の鱗がうねり煌めく潮の背中と海鳥の営みを一目に俯瞰する大パノラマがあった。ほの蒸す暑さの峠を超えたくらいの午後の日射しもいい加減傾き出し、先程まで登ってきた下界の民家の並びが細い石階段のたわみに冷たい屋根の輪郭を落としていた。

 「あいつらはいつもこんな道を歩いているのか。少し侮ってたな。」

 自分の知り合いで学校より上から登校するのは遠藤と雛実の2人で、その2人が学校に早めに来るようになるのも少し頷ける。以前に雛実が言っていたように、慌てて躓く怖さに比べたら、早起きを習慣づけた方がよっぽど身の為なのだろう。


 遠藤に地図を描いて貰ったのだからと張り切って週末の外出に重い腰を上げたのだった。

 ただ、自分にとって週末の醍醐味であるところの二度寝は譲れなかった事も、ここに告白しよう。いつもなら自分の布団から一歩も出ずにいるところを、わざわざ張り切って1階まで降り居間で寝たという事も付け加えたい。結局もう日もテッペンを掠めようとした所で、自分と同じく二度寝と、それに二日酔いが趣味の母と一緒におずおずとかすむ目を擦って起床したのだった。

 結局家を出たのは午後の3時だった。学校までの道は身体が憶えているから、そこからの道のりが今回の散歩になった訳で、今、腕の時計は4時になろうかという事を教えてくれている。

 「ちょっと遅いかなぁ・・・。でも、これもあるしなぁ・・・。」

 右手の手首に巻かれた時計。そのベルトに引っかけている袋の中にある饅頭の箱をチラリと確認する。行きがけに北乃屋で購入したものだ。このまま家に持って帰ったのでは母親に怒られるだろうし、無い金を数えて買えたものなのだからまたの機会に買い直すなんてこともまたできない。

 「まぁ、もう少しだろう。行くぞ。」

 額を流れる一筋の汗を袖で拭い、石階段に足をかける。




  ◇


 茜坂の醍醐味はその字の指すとおり夕刻にある。遠藤が茜坂を描いている時などのように、この坂の一番美しい所を描きたい人間なら無意識にこの夕焼けを選んでしまう。その事を遠藤に直接言わなかったのは、如何にも遠藤は、この夕日を自分で選んだのだという意思を、絵そのものに油絵具と一緒に塗り込んでいる事が見て分かったからだ。彼ら絵描きたちのプライドや思考にまでこの夕焼けの重く滲んだ赤色は沁みわたる証明のようでもあって、今自分が魅せられていることの説得力をも深めている。


 「いかん、迷った。」


 屋敷街と呼ばれる坂の上の区画は、港から最も離れていること、高地による過ごしやすさ、景色の良さなどもあって町の発展初期から名家や実業家などいい家が寄り集まった一画として町では知らない人はいない場所だ。とにもかくにも今は、細くうねりながら伸びる石階段とお屋敷の永遠と続く塀の組み合わせの悪さが祟って自分がどこを歩いているのかわからないのが問題である。

 「こう、数mおきに表札でも立ってくれていればいいのに・・・全く目印がない・・・。」

 下の如何にもな港町の風景は建物1つ1つが小さくて、1つとして同じ景色が重ならない。だからある意味で目印の宝庫なのだけれど、この区画にはそれがない。

 「大して難しい道でもないんだけどなぁ・・・。」

 今日はいい加減諦めて後日遠藤から答え合わせをして貰おう。

 途方に暮れて背後のすっかり赤く染まった空を見上げる。

 「・・・やっぱり連理のは赤すぎるよ。でも、確かに綺麗だ。」


 「もし、君。」


 カランと木を石に打つ軽い音が自分の頭上に響いたのを聞いた。

 「はい?」

 振り返って再び首を持ち上げた坂の上に、1人の女性の影があった。

 「こんな所に何か御用かしら?」

 真っ赤な唐傘が日射しを遮る細めな着物の影の足元には、また鮮やかな赤い光沢を見せた着物の生地と黒い漆塗りの舟形下駄が生えている。

 「えぇ、すいません。ちょっと道に迷ってしまって。」

 「まぁ、大変、行き先はどちら?」

 「地図があるんですが」

 「見せて。」

 カラカラと調子よく階段を降りてくる軽やかな姿は、明らかにこの土地でその格好を着慣れた人間だからできる気軽さを所作全面に表していた。彼女がここの住人であることの最もな説明だ。

 「どれどれ・・・。あら、あらあら・・・!」

 「わかりますか?」

 真っ白な頬に浮かんだ涙黒子に囁きかける。

 「ふふ、わかりますとも。」

 長い睫毛の並びが毛筆で引いたように緩い弧を描いて、自分の汗にまみれた不安と緊張を弄んでくる。

 「でも、もう遅いわね。」

 「やはり出直した方がいいですか。」

 「そうねぇ・・・。」

 この茜色の空にも負けない鮮やかな紅の塗られた唇の膨らみが小さく震えるのを見た。そのすぐ奥に覗いた真珠の歯だって、自分の意識に跡を残す様だった。

 「あら!それ北乃屋さんのじゃない。」

 「あ、えぇ。本当はこれを持って行くつもりで。」

 「ねぇ、家にいいお茶があるの。」

 「・・・それは、」

 「この辺を軽く案内ついでに、どうかしら。」

 「・・・え、えぇ。案内して頂けるなら・・・お茶くらい・・・。」

 「ふふ、やった!ついてきて、こっちよ。」

 シルクの手袋にしては柔らかくて温かい。いや素肌の手。どうすればこんなに綺麗になるのか分からないくらいの白い肌だ。自分の手を引き坂の上に導いている真っ白なうなじすら、根元の右脇に1つ黒子を浮かべているだけじゃないか。狐にでも化かされているのかもしれない。

 「あなた、お名前は?」

 「坂下アンリです。」

 「ふふ、坂の下のアンリくんね。私は蘭と言うの。」

 「蘭さん。」

 「そうよ。お家はすぐそこなの。転ばないように気を付けてね。」




  ◇


 「実は私もこっそりお散歩しててね、裏口からでいいかしら。」

 「え、えぇ。」

 「ふふ。」

 まるで永遠に続く面白味の無い塀だと思っていた壁の一部に蘭さんが触れた瞬間、カタリと音を立てて人が屈んだくらいの大きさの隠し扉が内開きに開いた。

 「えぇ!?」

 「ふふ。面白いでしょ。古い家はね、こういうのあるのよ。でもコツがいるから普通の人は気付かない。」

 「そういうもんなんですか。」

 「そうそう。入って入って。」

 「・・・お邪魔します。」

 入ると、草木が細く刈り取られた秘密の通路のようなものが続いている。

 「どうやって用意するんです、こんなの。」

 「ふふふ。この道は小さい頃から手入れしてるの。枝が引っかかったら怒られちゃうでしょ?」

 「庭を勝手に弄ってることは・・・」

 「・・・今更ね。」

 屈んだ彼女の赤い尻の膨らみが否応なく視界を占領する。少し暑い日なのもあって薄い生地の着物を着ているのだろう。薄闇に目が慣れるうちに、その丸く張られた生地の細かな凹凸の中から左右対象の逆ハの字の線を見つけてしまって、いい加減罪悪感が頭を過ぎった。

 「・・・うん。今はいないわね。」

 「大丈夫・・・ですか。」

 「えぇ、じゃあ庭に面した廊下から入るから、靴脱いで泥を落としてね。」

 「はい。」


 上がった屋敷は、外で見るよりもうんと広く感じる純和風の畳の広がりだった。そしてこの町の住人だからこそ気付くことに、その畳の広間には高低差が驚くほどない。確かに隅の方にある階段などは、一々蹴上がりがあったりするが、それにしたってこの坂の町でこれほどの平面を見るのは学校の講堂か駅の周りくらいのものだ。これが妖術でないならば仕掛けがあるだろうと思い首を回していると、庭の外郭を囲む塀に目がいった。なるほど、あの永遠に続くように思えた塀の連なりが、内側から見ると外の坂に合わせて這うように1人でに背を伸ばしている。詰まる所、この平面の答えは、塀の内側を平らに削っているのだ。さっき入ってきた隠し扉はそうした塀の根元と坂の地面の高さが丁度合う所に作られていた訳か。

 「面白いなぁ・・・。」

 「そうでしょ。こんな坂に大きな家を建てようとするとこんな可笑しなことになるのよ。」

 「住んでいても思いますか。」

 「もう長いもの。あなた賢いのね。」

 「ありがとうございます。」

 「それに可愛い。」

 いきなり意外な褒められ方をして顔に血が巡るのを感じてしまう。

 「あらあら。うふふ。さぁ、私の部屋よ。どうぞ。」

 「お、お邪魔します。」




  ◇


 部屋に入るなり、そこら辺に置かれた丁度品や細工の凝った家具によって生れる一級の煌めきが、自分のような汗臭いガキを出迎えてくれた。いつもなら気にならない自分の庶民風な所も今は貶したくなってしまうくらい上等な8畳ほどの箱庭の中央で、座敷用の低めなソファに蘭さんがポンと腰を降ろした。

 「さぁ座って寛いでいて。今お茶を沸かして来ますから。」

 「いやぁ、ありがとうございます。で、でも自分も何かお手伝いできたら。」

 「あらあらまぁまぁ。献身的な方。」

 ニヤリ、というには余りに品の良い笑みが自分を舐めたかと思うと、立ち上がって来た蘭さんに肩を捕まれて座椅子に促されるまま腰を降ろしてしまった。

 「いいのよ。あなたは私の可愛いお客様なんだから。」

 「そんな、可愛いなんて。」

 「ふふ、疲れているでしょう。の~んびりしてね。」

 掴んだ肩を便りに左耳に寄ってきた小さな顔に耳たぶを震わせられた。脳裏には、地図を見せた時の蘭さんの横顔に映えていた鮮やかな口紅の赤が思い起こされる。またその高周波な声に紛れた肉声としての喉の震え、音波の揺らぎを、今このほんの数センチ、数ミリだからこそ感じ取る事ができる。美しい彼女の息遣いの遠近に、一瞬脳が揺らされ、軽く酒に酔ったような錯覚すら感じられた。

 「はい・・・。」

 「じゃ、ちょっと待っててね~。」

 向かいの飾り襖に消えた蘭さんの影を追えるような余裕もないまま、ボゥっと座椅子にもたれかかる。天井を見上げれば、細木が幾何学模様に木組みされた電灯囲いが海鳥の掘られた北向きの欄間から吹き入れる微かな風によってゆっくりと回り、天井に模様を写している。全く、祭か夢の賑やかさである。自分は本当に女狐に化かされて夢でも見ているんじゃないだろうか。

 「ん・・・。」

 ふとくすぐったさを覚えた左の耳たぶを親指と人差し指で挟みながら擦ってみた。何か少しネットリとした感触を感じ、電灯に透かすように摘まんで持ち上げて見ると、その指先には見覚えのある鮮やかな茜色があった。

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