第2話
◇
紙切れの面白さはその薄さでも白さでもなく、ただただその紙切れ1枚にどれほどの価値があるかという情報にこそある。今はそう思える。なにしろハガキほどのサイズもない紙幣には昼飯のパンを5つは買える程の価値があるのに、自分が苦心して何時間もかけて書いた読書感想文のレポートには、精々先生からのありがたい合格印が押された以降は自分でも読み返すこともない、まさに無価値に帰してしまう儚さが常だからだ。そんな先生しか読者のおられない読書感想文に比べて、今自分が両手に張っているこの数学小考査の回答用紙はどうだ。生き生きと並ぶ赤ペンの丸の連なりと、先生の心地よさが筆跡全部に滲み出るような「優秀」の二文字は、結果として私の氏名記入欄の隣に駆け馬の如く爽快な1本の縦線と2つの楕円を並べ連ねている。自分の記憶が確かなら、学校の考査で満点を取ったのなんて、2年前の漢字テスト以来の大快挙である。おまけに科目は数学、範囲は大苦手だった因数分解ときた。もはやこれを苦手と自称するのもおこがましいとは思えないか。今となっては問題に印刷された大量のxの台数記号すら、まるで真っ赤なポピーの花畑に舞う蝶ちょの羽ばたきに思えてくる。私の書き殴り気味な鉛筆の回答というのも、そのワイルドな筆圧が1人の男の生命の輝きを刻み込む、さながら名画家による草原風景の素描である。
「おぉ・・・!」
「満点取れて良かったね。アンリくん!」
「こうして満点の回答を見るのは気分がいいな!雛実!」
「でしょでしょ。頑張った甲斐あるよね。」
「あぁ、本当に。毎朝馬鹿な俺に付き合ってくれてありがとうな。」
「そんなことないよ~!アンリくんとっても飲み込みがいいんだもん。それに、教えるってのも勉強にはいいって言うし。」
「あぁ、雛実の教え方が良かったんだ。」
「・・・えへへ。」
目の前で後ろ手におどけている北野雛実は、実際とても教えるのが上手かった。
朝の勉強会の約束を取り付けて以降、なんだかんだで自分はテストまでの2週間を毎日欠かさず早登校した。周知の勉強嫌いであり面倒臭がりも併せ持つ程の人間が継続できた理由は2つ。1つはそうでもしないと苦手な数学を勉強する機会を暫く逃しそうだという簡単な予想が自分の中にすぐ立ち、またその「暫く先」というのは、包み隠さず言えば大事な夏休みの前半を丸々潰して学校が執り行う強制勉強会に他ならなかっただろうからである。
そして2つ目は、遠藤を見る口実ができたから。
「雛実は将来学校の先生になれるんじゃないか?」
「えぇ!?そんなの無理だよォ。私は団子屋でお団子作ってるの。それに学校の先生って大学出なきゃいけないんだよ?」
「そうなのか?てっきり頭のいい奴なら誰でもなれると思ってた。」
「もう。そんな事言ってたら先生たちに落第点付けられちゃうよ~。」
「ははは、気を付けるよ。あ、そんな事より昼飯だよ雛実!購買のパンが売り切れちゃう!」
「あ、そっか!それは急がない・・・と・・・。」
「・・・?どうした雛実。」
「なんか教室の入口に人だかりが。」
「え?」
確かに言われた眺めた教室の扉には数人の生徒の群れができていた。男女同数ほどの5、6人が真ん中の誰かを取り囲んでいるように見えるけれど、その中心にいるらしいヤツの顔が男子生徒の肩に隠れていまいち見えない・・・。
「・・・あぁわかった!おーい!アンリー!」
「え!?俺!?どうした!」
「お前に客だー!」
「誰!?」
自分の呼びかけに例の群衆が2つに割ける。さながら気分はモーゼである。その割れた人の谷の中心に立っていたのは、何を隠そう、これから購買に向かう口実に廊下から覗こうとしていた例の人物に他ならなかった。
「坂下アンリくん。遠藤連理だ。昼休み少しいいか?」
「・・・今から購買に行くつもりだったんだが。」
「ほらよ・・・。」
ぶっきらぼうにこちらに放り投げられた購買のたまごツナサンドと焼きそばパンの入った袋を胸で受け止めた。たまごサンドは崩れやすいのに!・・・案外形は崩れて無さそうだった。
「・・・いいぜ。どこに行く。」
「校庭の若樫の下でどうだ。」
「・・・わかった。」
◇
「で、話ってなんだ。」
「・・・見当が!付いてるんじゃないか?」
「・・・さぁな。」
「なぜ最近俺をジロジロ見てたんだ。」
「・・・黙秘。」
「な!ふざけてるのか!?」
「・・・。」
「気付いたのは2週間前だ。最初は『なんだか自分以外にも朝早く登校する奴がいるな』程度にしか感じていなかったんだが、どうもそれ以降お前が視界の隅にチラチラと写り込んでは消える事が多い!朝の廊下からだけならまだしも、昼休みに放課後まで毎日のように。お前のやってる事を世の中の言葉に当て嵌めるならスト・・・」
「すまなかった。」
「・・・。まぁ、別に鬼のようには怒んないよ。ただ、まぁ、気味が悪かったんでな。」
「そうだよな。すまなかった。」
「もういい。謝らなくて。」
「・・・ありがとう。」
「・・・それで、なんで見てたんだ。」
「もう謝っただろ!?」
「関係ない!白状したついでに言え!」
「・・・いやぁ、なんというか、その、中々、表情が面白いなぁ、と思って・・・。」
「・・・面白いってなんだよ。」
「いやぁ。・・・ハハ。自分の目付きの悪さに心当たりは?」
「・・・まぁ、近視だからな。・・・眼鏡が嫌いなんだ。似合わないから。それなのに教科書やら絵画やらはやたらと何でも目に頼るだろう?あまり良くない習慣だとは分かっているんだけれど、眼鏡をかけると眩暈がして。坂も踏み外しそうになる。」
「なるほど。」
「・・・目付きの悪さを見てたのか!?」
「いいや、あと1つある!」
「・・・なんだ。」
「昼飯の弁当で一番好きなおかずは?」
「・・・そうだなぁ。母様の作る佃煮も好きだし、お手伝いさんが偶に入れてくれる鶏団子も捨て難い・・・。う~ん。」
「出汁巻き玉子は?」
「・・・そうだな。確かに、俺は母様の巻いた玉子は好きだな。母様の玉子の焼き加減は絶妙なんだ。綺麗な満月色で、甘いのもいい。」
「なるほどなぁ。」
「俺は出汁巻き玉子も睨んでいたのか!?気付かなかった。」
「いや、その逆だ!遠藤、お前が出汁巻き玉子を食う顔と言ったら、もう、日向ぼっこをする子猫みたいな顔をしてるぞ。」
「・・・自分で言ってて気味が悪いと思わないか?」
「・・・言葉は選んでるつもりなんだ。許してくれ。」
「・・・ふ、ふふ。アハハハハ!」
今まで観察した中で一番大きな遠藤の声、それも大笑いだ。
「あ~、こんなにおかしな奴だとは思わなかったよ!」
「失礼だな。」
「身体もデカいし偉く執念深いから、少し怖い奴だと思って覚悟してきたのに。てんで見当違いだった!」
「それは・・・そうだ!俺はそんな奴じゃない!」
「そうだな・・・!ハァ・・・久し振りにおかしかった。」
「・・・愉快なことなら任せてくれ。万年、教室の賑やかしだ。」
「こほん。改めて、遠藤連理だ。」
「坂下アンリだ。」
「坂下・・・いや、アンリ。よろしく。」
「あぁ、よろしくな。」
「・・・結構可愛らしい名前してるんだな。」
「な!?実はちょっと気にしてるんだぞ!」
「アハハ!ごめんごめん!ちょっとやり返したかったのさ。それに少し」
「・・・少し?」
「いや、なんでもない。」
「なんだ?変な奴だな。」
「お互い様だろ。」
「ハハ、まぁ、そうかもな。変わり者同士、仲良くやろう。」
「あぁ。」
「お前いつも菓子パン食ってるのか?」
「いや、お前、菓子パンと言っても色々あってだな・・・」
◇
「・・・あ!アンリくん!おかえり。ねぇ、連理君とどんな話したの?」
「いやぁ、観察してたのがバレて・・・。」
「・・・え!?観察してたの!?」
「まぁ、成り行きというか・・・。」
「アンリくんって、実は変態なの?」
「どうした雛実!?いきなりなんてこと言うんだ!」
「だってアンリくんって、偶に、そうじゃん。」
「俺ってそうなのか!?」
「・・・う~ん。なんていうか、その・・・。それで!連理君とはどうだったの!怒られた?」
「いや、アイツは流石に物分かりが良かった。これからはコソコソせずに済みそうだ。」
「おぉ~。やったね・・・?」
「あぁ、よかったよかった。」
「う~ん・・・。なんか変なの・・・。」
「そうかな。」
「そうじゃない?」
「ま、いいだろ!それより雛実、次の授業ってこの範囲でいいよな。」
「あ、うんそこだよ。」
「よし、夏休みの補習には絶対にかかりたくないんだ。今から頑張んないとな。」
春を超えた空に到来するのは、濡れ雑巾のような重く埃っぽい雨雲が漂わせた草の生臭い雨の香りと、全身に纏わり付く湿気が生み出した薄衣の如き汗の錯覚。昼の校庭に吹いていた涼しい風の風情は、授業直前の教室の慌ただしさが産んだ人の熱の塊にぶつかってすっかり消え失せてしまい、今はただこの暑苦しさと、目の前で自分の机に寄り掛かってくる少女のデコに薄く滲んだ汗の照りを覗けるばかりが、己の自由に感じた。彼女の長い睫毛を辿っているうちに滲んだ視界を虹彩が無意識に絞ると、屈んだ少女のシャツの首穴から覗ける素肌の陰にすら、ミクロの意識を射し込めてしまった。
雑然さと隙間に見出したこの青い心が春の続きなのかもしれない。
「・・・雛実。」
「ん?な~ぁ~に。」
「・・・いや、なんでも。」
「・・・んふふふ。変なの~。」
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