茜坂月草艶聞帳

九三郎(ここのつさぶろう)

第1話


   ◇


 春の終わりは朝の涼しさを以て幕を閉じる。それに続くのは疑い深い夏の暑さの片鱗であり、桜の散る頃の陽気というのは最早すっかりこめかみの汗を誘うような太陽のほくそ笑みだ。気付けば裸けていた掛け布団に覆いかぶさる太ももの寒気で目が覚めて、一瞬の恨めしい寒さも昼まで続けと願い眺める茜坂の朝陽射す様を網膜に写してから、顔を洗いに階段を降りる。するといつものように目玉焼きにかけられた醤油の焦げる香りが鼻腔をくすぐった。どうやら早起きなのは自分だけでは無かったようだ。

 「おはよう母さん。」

 「おはようアンリ。パンが焼けてますよ。目玉焼きは少し待ってね。」

 「うん。ありがとう。」

 母さんは黄身まで火を通す人だ。一度焼けた目玉焼きの火を止めて蓋をして2分待つ。毎朝の僕にとってその時間は顔を洗うに絶好のタイミングだった。

 「いただきます。」

 「召し上がれ。」

 小さい頃から母と交わし続けている決まり文句。

 食卓に2人で食パンを齧る音が響く。その気味の良い咀嚼音の間に挟みこまれるように言葉が交わされるのだ。

 「最近の学校はどう?」

 「どうって、いつも通りだよ。」

 「そろそろ考査よね。」

 「うん、そう。」

 「勉強には着いていけてる?」

 「今の所問題ない。」

 「それは落第しないって事?」

 「数学が難しい。国語は楽しい。体育なら優等生さ。」

 「そう。」

 「うん。」

 「体操着が干してあるから自分で袋に入れて頂戴ね。」

 「わかった。」

 再び食卓にパンを齧る音と目玉焼きを裂く箸のカチカチいう音が響いた。

 自分は身体がでかい事以外は面白味の薄い男だ。丁度この、醤油が滑り落ちて焼き固まった目玉焼きの黄身みたいに。思い切りよく座学科目を悉く落第しまくる事もなく、大抵は数学だけで、母親の肝を思い切り冷やさせる程の賑やかさもない。はす向かい坂の下の田中さん家などからは、月に1度は点の低さを嘆く女房殿の叫びが漏れ聞こえてくる。その度におにぎり頭の銀太が名前に似つかぬ錆びた顔色で家を飛び出してきて、それを匿ってやるウチの母親は案外楽しそうに飯を出してやる。その度に、自分ももう少しは手の焼けた方が愛嬌があるのだろうかという馬鹿な考えが頭をよぎるのだ。

 「そうだアンリ。あんたまた体操着のズボンに穴開けたね。」

 「あ、そうだ忘れてた。」

 「全くなんど破いたら気が済むんだい馬鹿息子。今度は目立つ色の当て布してやったから、懲りたらもう破くんじゃないよ。」

 「すんません。」

 「もう・・・。」

 我が家の朝食はなぜか毎日トーストに並んで味噌汁が出される。母親の思い出した苛立ちを味噌と一緒に出汁に溶かして誤魔化すように、味噌汁を啜った。


 「じゃあ行ってきます!」

 「はいよ~。」

 玄関を勢いよく飛び出して、右上がりの坂道を足の親指に力を入れて思い切り駆け上がる。

 山の緩やかな斜面を覆うように広がるこの町はどこを見ても坂と階段だらけだ。町を歩く時も北か南かなんて説明する人は1人もいない。南は「下」で北は「上」だ。だから登校するというのもそのままズバリ坂道を駆け登っている訳であって、これが遅刻しそうな時はその日1日分の体力を使い切らなければいけない。学び舎は、そんな坂の町の真ん中に伸びる茜坂の丁度真ん中にある。町の坂は山の斜面に並行に沿いながら、まるであみだくじのようにところどころで伸びる横道によって繋がれ、自分もまさにそうした陸橋を数本跨ぎながら登校している。そんな通学路の先に見える学び舎は既に校舎の三角屋根のテッペンを民家の屋根向こう覗かせていて、この町のシンボルとして悠々と朝の白けた空に見下ろされていた。

 「今日もいい天気だ。」

 余裕を持って起きられたから本当は急ぐ必要もないのだけれど、こうも清々しい山からの風を身体に当てられては朝一番の汗を流したい気分にもなる。まだ人の少ない教室でのんびりできる事を期待しながら再び駆ける足を早めた。



   ◇


 「あ、おはようアンリくん!」

 折角一番乗りを期待して飛び込んだ教室で涼し気に自分を出迎えたのは、腰辺りまで伸びた髪の毛を丁寧に三つ編みに結った女子生徒だった。

 「あぁそうか。ウチの教室には北野がいるんだった・・・。クソォ!折角一番乗りできるかと思ったのに!」

 「あはは。なんだかお邪魔しちゃったみたい。私は毎日これくらいの時間には来てるのよ。一番乗りしたいんだったら、私より早く来るか私がお休みしてる日を狙う事ね!」

 「北野が休んだところなんか見た事ないぞ。全く、俺なんてまだまだみたいだな。」

 「走ってきたの?汗だくじゃない。」

 「あぁ、坂を走って来たからな。おまけに最近は暑いくらいだし・・・。夏までもう少し待ってくれたっていいんだ。朝から疲れちまったよ。」

 「あはは。」

 教室の一番後ろの列にある自分の席にドンと腰を落とし、机にダラリともたれかかってうな垂れてみる。ニスの剥げかけた合板製の天板にくっ付けた左の頬の汗が輪郭を転写したみたいに水滴の小島を描いて、鞄の中の手拭いを引っ張り出そうか考えたけれど、今はそんな事すら面倒くさく感じてしまう。走った後に座るとなぜこうも一気に疲れが来るのだろうと考えていると、不意に目の前に白い球が差し出された。大福だった。

 「はい!そんな頑張り屋さんのアンリくんに塩大福のお裾分けです!今朝の作り立てだよ!」

 「この塩大福って、北野ん家の!?美味そうだなぁ。貰っていいの?」

 「勿論!お昼のおやつに渡されるんだけど、最近、1日に3個は流石にちょっと多くて・・・太っちゃう・・・。おひとつ貰って下さいな。」

 「そうか、そういう事なら!ありがとう。頂くよ。」

 「うん!どうぞ召し上がれ。」

 北野の家は学び舎から見て坂の上にある老舗の団子屋だ。この町名物の茜餅という鮮やかな赤いすあまを作っている。なるほど、彼女の朝が早いのは団子屋の仕込みが早いからなのだろうと合点が行く。今貰ったのはそんな北乃屋の塩大福。偶に母さんがお茶菓子として買ってくるけれど、餅にまぶしてある粉に港で作られた藻塩が混ざっていて、口に入れるとそのしょっぱさが餡子の甘味をより引き立てる。まさか早く学校に来たおかげでこんな素敵な貰い物ができるなんて。

 「早起きは三文の徳だな。」

 「ふふ、そうね。」


 大口を開けて塩大福を平らげようとした瞬間、背後でまたガララと教室の引き戸を開ける音がした。しかしこの音は隣の教室だろう。

 「なんだ、俺が思ってる以上に早く来るヤツは多いんだなぁ。」

 「ううん、そんな事ないよ。みんなの~んびり登校してて、こんな時間に教室に着くのなんかいつも私と彼くらいね。アンリくんはちゃんと早く学校来れてる!」

 「その、『彼』ってのは、北野は知ってるのか?」

 「うん。多分、遠藤君じゃないかしら。遠藤連理君。」

 「あぁ、なるほど・・・。」

 遠藤連理。この学年ではちょっとした有名人だ。別に悪い意味じゃない。この茜坂の頂上あたりにある「屋敷街」という、古い家や名家の屋敷が並ぶ区画から坂を下って登校してくる、いわゆるお坊ちゃん。成績もいいし、美術部で描いた油絵は季節ごとに自称芸術好きの校長によって新作に張り替えられる。だから、少なくともこの階の廊下を使う人にとっては一度は聞いた事のある名前なのだ。

 「ふーん。へへ、坂の上に住んでる奴は皆早起きなのか?」

 「もう!坂の下に住んでる人と違って坂の下りは急ぎたくても危なくて走れないのよ!それにこの時間に来るのは本当に私と遠藤君くらい。別にアンリくんだって毎日この時間に来てもいいんだからね?」

 「いやぁ、今日は暑くて偶々早起きだったんだよ。」

 「私、この間の数学の試験でアンリくんが取った点数、こっそり見ちゃったの。」 

 「なに!?この・・・。意地が悪いぞ。」

 「アハハハ!偶々よ。見ての通り朝の教室はテスト勉強にもってこいなんだから。」

 「・・・。そうだな。考えとく。そしたら俺が早く来た時は北野が数学教えてくれよ。たしかこの間も満点だっただろ?」

 「え、別にいいけど・・・。」

 「よし決まりだ!」

 「え、えぇ!?・・・うん、分かった・・・。待ってるね。」

 「あぁ。・・・よし!大福も食ったし、便所行ってくる!」

 「あっ!もう・・・。」


 教室を出てまだ誰もいない廊下の床板をノシノシと踏み締めて歩いていく。便所は廊下の端、今出た自分の教室ともう2つある教室を横切って行かなければいけない。普段はこの道のりが少し長いことに大してほんの少し不満気味ではあるのだが、今日に限っては都合が良かった。自分で言うのも気恥ずかしいけれど、自分が今一番やりたい事というのは、別に用を足す事などではないのだからだ。

 以前からこの遠藤連理という男の事が異様に気になって仕方がなかった。なぜなのかと言われれば特別なきっかけや理由は自分でも思いつかないし、こんな胸の下辺りがカッと熱を持つような感覚が過去に感じられたことなど一度も無かった。いや男に抱いた事は、本当に一度もなかったのだ。彼の事は他の多くの生徒たちがそうであったように、私も廊下に飾られた油絵の作者名から知ったことは覚えている。そして、気になった。こういう芸術というものをその手で生み出す人というのを見た事が無かったし、話を聞けば聞くほど、茜坂の頂上に住む大学教授の息子殿などと言われれば、1人の男の負けん気がくすぐられないことなど無かったのだ。

 一番最初に面食らったのは、あいつの肌の白さだった。同じ教室で授業を受ける他のどんな女子生徒よりも透き通るように白い肌は、私の想像した人よりずっと良いものを食べて、良いものを学んで、休みの度に旅行に行けるような育ちの良い健康児とは全くの正反対だった。そして身体もまた細い。やはり教室を眺めても、最も瘦せ型の女子生徒と肩を並べたって比べるのが難しいくらいに線が細い。あんなに細くていいのは最早女だとまで当時の自分は考えてしまったくらいだ。やはり、見かけに魅了されるというのは何につけても趣味の入口であるのだろう。気付けば自分は、すっかり学校中を歩き回って遠藤の姿を追い眺めるようになってしまった。

 私の遠藤研究の成果として幾つかの発見を紹介させて頂きたい。

 遠藤という男の魅力の1つはギャップである。そのギャップというのは、つまる所外見上の弱々しさに対して恐ろしいくらい鋭い目つきのことだ。遠藤は月曜日から金曜日までの5日あるうち、月、水、金の放課後を勉強に充て、火、木の放課後を自身の所属する美術絵画クラブでの油絵に充てる。この放課後の時間というのは彼にとって誰の邪魔も許さないという時間であり、その意思表示なのか、はたまた近視気味の目をよく使う為なのか、そこでこの恐ろしい目つきを拝む事ができる。さながら狩人に決死の覚悟で立ち向かう女狐の睨みだ。元から切れ長の目がよりそのエッヂを細く深く伸ばし、艶やかに夕方の西日を反射する長いまつ毛の輝きはもはや日本刀の切先を思わせる。ただ、これだけ言葉を尽くしても私の稚拙な語彙を以てしては、こう聞いただけでは実際にこの私が感じ取った彼の目つきの美しさには少しも気付くことはできないかもしれない。最も良いのは、私のように実際に彼の集中する顔を覗く事だが、きっと実践する人は少ないだろう。

 遠藤の魅力についてもう1つ挙げるなら、それは毎日の昼休みに発見する事ができる。遠藤は、良くも悪くも1人でいようとする志向の持ち主だ。少なくとも私の知る限り彼が誰かとワイワイ話しながら飯を食っているところは見た事がない。しかし、彼を観察していれば、それが決して彼という人間のつまらなさの証明などではなく、彼がそうまでして孤独にも感じられる昼飯を続けるのかの納得にもなる。遠藤は毎日弁当を持参する。自分のような金欠学生と違っていい家の人間なんだから、購買のパンだってケチらずに調理パンの2つや3つ悠々と買って喰らい付けばいいものだが、彼は、いや彼の家は、几帳面に彼に毎日漆塗りの四角い2段弁当を紫の表地に赤い裏地の風呂敷で包んで持たせている。彼が中庭の隅に埋わった若い樫の木の木陰でその弁当箱を開く様は、いざ発見してみると非常に芸術的な美しさではあったが、それが彼の魅力そのものではない。ここで見れる彼の魅力とは、ずばり、玉子焼きや食べる顔だ。彼の弁当には必ず、遠目から見ても鮮やかな黄色の分厚い出汁巻き玉子が入っている。それはもう目に刺さるような明るい黄色で、樫の木の陰の暗さと、彼の黒い学ラン地の背景と、そして彼が玉子焼きを摘まむ細い漆塗りの箸とが作り出す無光沢の景色の中にあってまるで宝石のような輝きを放つ玉子焼きが、彼の小さな口に吸い込まれるようにパクパクと放り込まれていく。そんな折に遠藤の見せる表情の綻びは、この世のどんなものよりもその玉子焼きの美味しさを表現するに相応しい喜びの表出である。私が遠藤を観察する中で見つけた最高の成果である事は間違いないだろう。

 そういう訳で、今の俺にとって遠藤はこの上なく面白い観察対象なのだ。

 そんな遠藤が、まさか早起きができた為に朝の学校で拝めるらしい。この楽しみが分かるのがこの学校に自分しかいないだろうことに少しばかりの勝手な勿体なさを感じながら、いよいよ遠藤のいる教室の前を通り過ぎる。しかし気を付けなければいけない。きっと今、教室の中には遠藤しかいないのだろう。廊下には勿論、自分しかいない。もしこんなタイミングで遠藤に覗きの疑いでもかけられれば、自分はもうこの楽しみを続ける事ができなくなるかもしれないし、それどころか、遠藤からすすんで距離を置かれるかもしれない。そんな事になってはいけないのだから、あくまで今は便所に行く体を守り、粛々と廊下を歩かなければいけない。

 「早起きは三文の徳というのは本当なんだなぁ・・・。」

 ぼやいてみた。

 「キャッ!」

 いきなり後ろから不意の悲鳴と引き戸にバシャンと物のぶつかる音が響いて物思い耽り中を漂っていた意識が鞭に打たれたみたいに跳ね返ってきて自分の身体を打ち付けた。

 「ウワァっ!・・・なんだ。どうしたんだよ北野。」

 「え、あ、いや、その、ちょっと扉の溝に躓いちゃって・・・。驚かせてゴメンね・・・。」

 「ホントだぞ。おっちょこちょいさんめ。」

 「えへへ、ゴメンネ~。」

 申し訳なさそうな笑顔を顔に貼り付けた北野の身体が吸い込まれるように教室に消えた。

 「はぁ・・・。」

 学校まで走ってきた時とはまた違う冷や汗を全身にかきながら便所までの廊下を歩いた。




  ◇


 「なんだアイツ・・・。今、俺の事を見ていたような・・・。」

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