第2話 「熊と間違えられた母」
なんでもこしらえてしまう祖父は熊が出たときのために畑の小屋に和弓を準備していた。そして、母はすんでのところで熊の代わりに弓の標的になるところだった。
祖父の家は海のすぐそばにあった。積丹川の河口が近く、家の裏には砂浜が広がっている。道路を挟んだ向かいはすぐに山が迫っていてこのあたりに耕地は全くない。半農半漁で暮らしている家が多く、船も持っているし、畑地や田圃も持っている。畑地は積丹川に架かる橋を越え、川沿いに広がるわずかな扇状地に集中していた。
私の家でも田圃とリンゴ畑とを持っていた。祖父がやっていたのだが、結構な広さがあって一人だけでまかなえるはずもなく、東北地方の農家出身だった母が手伝っていた。
このあたりは積丹岳から続く半島の先端で、北海道でも有数の羆の生息地でもあった(いや、最近でも同じらしい)。
祖父の畑でも秋になるとリンゴを食い荒らされたことがあった。林檎の木は折られ、大きな足跡が残されていた。そのため、祖父はいざ羆が出た時の為に畑の小屋に和弓を準備していた。これは手作りではなく市販の品で矢も10本くらい本式のものが用意されていた。そして笹竹を取ってきては矢の形にまっすぐにのばし、木の切り口を標的に祖父は何度も弓を射る練習をしたという。イザという時のためである。
農業に従事しているとリンゴ畑にしろ田圃にしろ、羆が出没する秋に畑で作業することが最も多くなる。祖父の畑は片側が山から続く丘陵地帯となり隣の畑と笹藪で仕切られている。反対側は積丹川の河原へと続き、その間はやはり笹藪が密生していた。
笹藪は羆の隠れ家であり(クマザサと言う位だから)羆の通り道となる。特に生息数が多い積丹川への方向は「ヒグマ」がどこに潜んでいてもおかしくはない。リンゴや梨や食料となるものがふんだんにあり、時期になると鮭も手に入る。羆にとっては格好の場所であったのだ。
もちろん、この畑や田圃から上がる利益だけで生活費が賄えていたわけではない。もうすでに還暦を過ぎていた祖父が、自分の楽しみ半分、実益半分と考えて自分の力で造り上げた。おそらく、そんな祖父にとっての楽園のような場所だったのだろう。
祖父にとってはそんな大切な畑も、小さかった孫の私には大好きな遊び場所だった。畑に行くといつも目にする海沿いの周辺では見られないものがたくさんあったのだ。
畑の入口近くにある小屋につくと、まず最初に行く場所は目の前にある小さな泉である。周囲1m四方くらいしかないこの泉は、底の砂地を盛り上げて一年中冷たい水を湧き出させていた。周囲にはヤチブキとセリが自生していて、泉から湧き出た水は小さな流れとなって積丹川の支流へとつながっていった。わずか幅1m程の流れであっても秋になるとここにまで鮭が上ってきたことがあった。
この泉の主は小さなザリガニだった。今では確認することはできないものの日本ザリガニであったろう。このザリガニはいつでも怒っていた。赤茶色の小さな体に、不釣り合いなほど大きな二つのはさみを持っていた。そのはさみをいつでも頭上に振りあげて、威嚇しながら後ろずさりしては泉の中の枯れ木や水草に隠れてしまう。この泉は水飲み場でもあるので一日に何度も顔を見るのだが、その度に同じ行動を繰り返す。一匹だけのいつも同じヤツだったと思うのだ。
こんなに小さな泉にもアメンボやゲンゴロウや小魚や川エビやタニシなど多くの生物たちが生活していた。その中でザリガニは間違いなくこの泉の主として存在していたようだ。
この泉とは別に田圃に水を引き入れるための流れや、積丹川の支流の一部が祖父の畑には流れ込んでいた。沼地となった場所もありそこには幹の太さもかなりになる立派なオンコの木(イチイの木)が立っていた。真っ赤に熟れたオンコの実は小さすぎて腹の足しにはならないが、甘い甘いおやつでもあった。祖父はその木の横に和弓用の的を設置してあった。
大きな丸太を輪切りにして標的らしく同心円が書かれてあり、真ん中は赤い円で塗りつぶしてあった。何度も何度も練習したらしく矢の跡がたくさんの穴をあけていた。刺さった矢を抜くときに折れてしまったらしく先端だけが標的の中に埋まっているものもあった。
和弓は小屋の中にしまわれていた。竹を細工した手作りの矢は小屋の入口にかけてあり、祖父と一緒に畑に行ったときには弓を射ることも教えてくれた。市販の矢には水鳥の矢羽根がついているが手作りの矢にはなかった。市販の矢を使うことは許してくれなかった。笹竹で作った矢羽根のない矢を真っ直ぐに飛ばすことは難しかった。
しかしながら、力の弱い子どもが射った矢でも威力は結構なもので丸太の標的にしっかりと突き刺さった。市販の矢であれば金属の鏃(やじり)がついているのだから、その威力はヒグマにも十分通用しそうな気がした。祖父はイザという場合に備え鏃付きの市販の矢を準備していたのだ。
母がヒグマと間違えられたのは、秋も深まり稲の刈り入れなども済み、冬支度が始まる頃だったそうだ。その年も林檎の木に少しだけ被害を受け、隣の畑にもヒグマが出没したとの話で祖父の警戒はますます強まっていた。夕暮れ近く、そろそろ帰宅の準備で農作業の片づけをしていた母は積丹川との境にある竹藪近くにいた。
太陽が西側の山の稜線にかかり、少しずつ明るさを失い始めた頃。草刈りの鎌を拾おうとしゃがんでいた母の左足をかすめて、鏃つきの市販の矢が地面に突き刺さった。驚いた母が後ろに跳び去り竹藪を背に立ち上がろうと前を向くと、祖父が二本目の矢を射ようと構えていたという。あわてて両手を振り大声で叫んで難を逃れた母は、その後しばらくは動けなかったという。
農作業の服装は地味な色である。頭には日よけをかねてつば広の農作業用の帽子をかぶる。それも無地で黒っぽかった。日暮れ近くの竹藪に動く黒っぽい物体を発見してしまった。近隣の畑でのクマの目撃情報が頭を占領していた祖父の目には、母の姿が恐れていたヒグマとしか映らなかったようだ。祖父が初めて放った鏃付きの矢が、ほんの少しずれていたならば、丸太にしっかりと突き刺さっていたあの矢よりももっと強烈に……もしかすると……。
祖父の和弓は結局実践で役立つことはなく、羆もちゃんと人の気配のない時に出没してくれた。祖父が病に倒れてからは誰も行くことのなくなった畑の小屋は雪の下敷きとなり、畑は原野に戻った。唯一その弓矢の威力を肌で感じることになった母は今、看病を続け祖父の病床にいるはずだ。
泉の主だったザリガニはあれからどうしているだろうか、ちゃんと世代交代を繰り返しているのだろうか。泉の湧水自体が消え失せてしまったという可能性もあるのだろうか。あの畑はまさしく祖父の造り上げた楽園だったのだが……。
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