かき氷文化肯定論
明治に行われた日本の近代化は、古来より我が民族が日常生活の中で取り繋いできた生活文化を西洋化させた。ちょんまげから
明治以前から存在する文化と云ったらせいぜい傘くらいなものである。とはいえ、この傘の姿形は世界バンコク共通で、特に西洋と取って代わる部分が無かったのであろう。西洋化とは、日本の文化が西洋の文化に取って代わることであるが、排斥された伝統文化に真新しい西洋文化が取って代わるに足るものであったかどうかを考えれば、日本の西洋化が必ずしも実用的な側面を重視していなかったであろうことが伺える。
靴といえば、我々はスニーカーを浮かべるが、スニーカーは下駄に取って代わったものである。足を包み込むようにしてクッションが覆い、地面の凸凹なんのその、長時間に渡り歩いたところで一向に痛くならない。その点、スニーカーは下駄に勝るのであろうが、我々日本人は、西洋人のように家の中までスニーカーを履き通そうなどという気は更々起きない。室内を土足で歩き回るのは不衛生であるといった日本人独特の衛生観に基づいた生活様式なのかなんなのか私は詳しく知らないが、私個人の感覚として、家の中くらい、足を何かに束縛されず、思う存分伸ばしたいものである。その点下駄というものは、足の自由度が何も履いていないときと比べてもなんら変わらない。自然に近い足の動きで、外を歩くことができる。材質が硬い分、足裏にかかる負担はスニーカーよりか多くなるが、徒歩二三十分離れた所へ買い物に行く程度には十分である。何より履くのが簡単で、靴ひもがほどける心配もない。
現在まで生存した日本の伝統文化は、西洋の何某では取って代われなかったものである。既に取って代わってしまったものは、文化とは呼べない。例えば着物なんてのは、街を歩いても誰一人として着ている者がいない。文化と云うのは、庶民の生活の中に染みついていなければ、その資格を失うものだ。我々は箸を使って寿司を食べ、手を使ってハンバーガーを食べ、朝起きたらパンとミルクを流し込み、昼は眠気覚ましにブラックコーヒーを流し込み、夜はベッドの上で寝るのだ。これが我々の文化なのだ。決して畳に正座して、くるくるとお茶をたてることが我々日本人の文化ではない。西洋の合理主義に
いくら本来の形に近いからとて、それが継承されていくのみの伝統であれば、十にその文化に宿る精神は我々の中から消失している。そこにホンモノなどと云うものは存在しない。東京都世田谷区のゴルフ場の隣に
かき氷は西洋化に淘汰されず生き残った、数少ない日本の文化と言えよう。成程確かに、かき氷に取って代わる西洋文化は存在しない。かき氷という食い物には、西洋の合理主義にはそぐわない、日本の美徳精神が備わっている。氷とかいう味っ気のない代物に杏をかけて、無理矢理でも味をつけてまで食い物に化けさせて暑い日本の夏を乗り切ろうとする
かき氷文化肯定論 にわかの底力 @niwaka_suikin
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