冬の真夜中。人の気配は全くない。外廊下の天井の蛍光灯が二カ所、調子が悪くてチラついている。人工的な白くて冷たい光を浴びながら外廊下を歩いて、防犯カメラなどお構いなしにエレベーターに乗り込んだ。この巨大さなぎの中に入っているのはドール。粗大ごみだ。過度に人目をはばかる必要はない。


 明日の「旅行」で使うはずだったレンタカーはすでにマンションの駐車場に停めてある。私は巨大さなぎを軽自動車のトランクに押し込んで、運転席に座った。息があがっていた。ダウンコートを脱いで助手席に放った。


 自分がハンドルを握っての深夜のドライブは生まれて初めてだった。気分がよかった。闇にぼんやり浮かぶえんじ色のテールライトや、点滅モードになった信号機、それらを私は美しいと感じた。夜道を照らす明かりすべてが、自分のためだけにある尊い存在に思えた。


 目的の山まで一時間とかからなかった。このスピード感は深夜の恩恵だ。山道を進んでいくと、二台だけ車とすれ違った。私はヘッドライトをハイビームに切り替え、法定速度の半分以下で車を走らせ続けた。まばらな電灯しかない山道、慎重に目印を探す必要がある。


 見えてきた。人生で唯一の生身の恋人とここを通った時に寄った蕎麦屋。駐車場はチェーンで封鎖されていて当然入れないが、道路を挟んだところに小さな展望台があり、車を十台くらい停められる駐車場がある。私は駐車の白線を横断するようにして、三台分占領して停めてやった。


 トランクから巨大さなぎを取り出して、肩に担ぎ、私は道路を横断して蕎麦屋の駐車場のチェーンを跨いだ。左足を上げる際にチェーンにつま先が引っかかってバランスを崩し、巨大さなぎを落としてしまった。私は悪態をつきながらもう一度担いだ。やはりこいつは太った。意思を持たない物言わぬドールだった頃は片手でも持ち上げられる体重だったのに、今や両手じゃないと無理だ。女ってみんなこんな重いものなのだろうか?


 店の裏手の斜面に丸太階段が設けてあり、それがハイキングコースに繋がっていることを、私は以前この蕎麦屋に来たときに発見していた。元カノがレジで会計を済ませているあいだ、それとはなしにぼんやり眺めていただけだったが、妙にそのイメージが心に残っていた。


 その階段を今、私は巨大さなぎを担いで一段一段慎重に上がっている。丸太はほとんど腐っていて、踏み抜いたら厄介なので土の部分を踏むよう心掛けた。


 階段を上がり終えると、ハイキングコースが左右に延びていた。もう何年も整理なんてされていないであろうその道は、もはや獣道だった。右に進んだ。枝葉の天井から差し込んでくる月光が、蜘蛛の糸のように導いてくれている気がする。いや蜘蛛の糸だとまずい。


 息が切れているが休憩しようとは思わなかった。体の疲労が心地よく、ときおり大声で笑ってみた。その声は闇の奥に吸い込まれて、枝葉に引っかかって二度と戻ってこない。こんな寒いのに鳥の鳴き声が聞こえる。鳥だと思う。

 

 てきとうなところでハイキングコースを逸れて、木立の中に足を踏み入れた。どうせ捨てるのはドールなんだし、過度に隠匿する必要もないだろうと踏んで、私は二十メートルくらい歩いたところで足を止めた。ようやく重い荷物を地面に下ろしたとき、保留していた疲れが地面から這い上がってきて私の膝を折った。跪いて肩を上下させて白い息を黒い闇に混ぜ続ける。自分の吐息が落ち着いていくのと並行して、それ以外の音が私の世界にゆっくり戻ってくる。私は気配を感じ始めた。ぱきっと、乾いた枝木を踏み砕く音もする。


 私はあたかも最初から森に設置されていたオブジェのように息を殺して周囲に同化した。しかし目の前に横たわっている巨大さなぎが、私までをも森の日常の文脈から切り離してしまう。こいつさえいなければ、もしかしたら私は道に迷った不運な遭難者という絵面に収まることができたかもしれない。


 音は近づいてくる。気のせいではない。それなりの質量を持った何かが歩いてくる。


 やがて音の正体が闇にぼんやりとフェードインしてきて、そこに向かって周囲から輪郭が集まり始める。最初、それはピントのズレた十字架に見えた。その象徴的なシンボルに、私は一瞬、ほんの一瞬だけ、目の前の巨大さなぎをひん剥いて中身に謝罪したい衝動に駆られた。でも十字架の輪郭がはっきりするにつれて、幽霊の正体見たりナンタラカンタラみたいな脱力感が懺悔の気持ちを優しく包み込んだ。


 人だった。男だった。十字架に見えたのは、その男が人間を抱えていたからだ。お姫様抱っこの形で抱えられた人間が、十字架の横木になっていたのだった。


 男は私の存在を認めると、驚きのあまり十字架の横木を落としてしまった。中身が詰まった質量の大きい物体特有のくぐもった音が散って闇に溶けた。十字架はただの中年のおっさんに変わった。


「あなたも?」


 その質問があまりにも自然に口から出たものだから、一瞬自分のセリフだと分からず、私は思わず第三者の姿を求めて周囲を見回してしまった。


 男は地面の巨大さなぎを一瞥し、すぐにまた視線を上げた。


「捨てにきたのですか、それを」今度はしっかり自分の言葉であることを認識して私は言った。


 男は、私に「それ」と言われたものに視線を落とす。そして哀れなほど震えた声で「人形です」と答えた。


 人形なわけはなかった。彼がさっき落としたそれからは、明らかに肉の塊の音がした。


 その肉の塊は、髪が短くて表情をうかがいやすい。目を閉じて安らかな色を浮かべているけど、その色を赤黒い筋が横断して印象を書き換えてしまっている。赤黒い筋の発生源は前頭部のあたりのようで、その部分は液体が固まってダマになっている。


「自分も人形を捨てにきたんです」


 私は開始を宣言するように言うと、巨大さなぎからガムテを剥していく。想像していたより粘着力が強く、一枚剥すのに一分以上かかった。テープの表面にはクリーム色の細かい毛がべっとりと付着している。


 こんなに苦戦しているのだから「手伝いましょうか?」くらい言ってもよさそうなものだが、男は依然として呆けたように突っ立っている。


 ガムテとの死闘を五分くらい続けると、巨大さなぎに隙間があいた。私はそこに手を突っ込んだ。まず毛布の感触があり、それを越えるとてのひらがドールの肌を撫でた。たぶん首だ。温もりは完全に失われていた。手探りでシャベルを掴んで引きずり出そうとするも、何かに引っかかってうまくいかない。そういえばドールの両腕に抱えさせるような形でシャベルは固定してあるのだと思い出し舌打ちする。両足でしっかり地面を踏みしめ、シャベルの取っ手を腰がイカれそうになるほど思い切り引き上げた。するっと抜ける感覚と、その直後にびりっと何かが破ける感覚がシャベルを通して手に伝わってきた。勢い余って私は地面に尻もちをついた。男は「大丈夫ですか?」の一言も発しなかった。まるで人形みたいだ。こんな小汚い人形なんて誰も欲しがらないだろうが。


 私は男をいないものと考えて、黙々とシャベルで地面に穴を掘っていった。刃先を地面に突き刺し、足掛けを蹴りつけて体重を乗せ、えぐる。それを繰り返していると全身から汗が噴き出してきた。


「代わりましょうか?」と男が言った。気が利くところもあるようだ。


 私は息があがっていて「ああ」とか「うう」とか声の出来損ないみたいな音を口から出しながら、シャベルを男に差し出した。男はシャベルを受け取って穴を掘り始めた。


「助かりました」男は手際よく穴を広げながら言った。「見てのとおり、俺穴掘るもの持ってないんで」


「どうするつもりだったんですか?」


「ノープランです」


 さっきの腑抜けぶりとは一転して、男は饒舌になった。彼は事の成り行きを聞いてもないのに喋ってくれた。曰く、マッチングアプリで会った女とドライブを楽しんでいたのだが、車内での淫行を拒否されてカッとなってマリア像の置物で殴って殺してしまったのだという。マリア像の置物……? いったいなんでそんなものが車内に? 私は想像の中ですら、マリア像を車内に上手く配置することが出来なかった。


「あなたのほうは?」男は手を止めずに背中越しに聞いてきた。「その中の人、どうやって殺しちゃったんですか? たぶん女ですよね?」


 こっちのはドールなんだと教えてやりたいが、とてもじゃないけどそんな気力はなかった。いくらなんでも寒すぎた。穴掘りで得た体温はすでに消費し尽くしている。汗が冷えて、冬の深夜の冷気が増幅されて私に伝わり、何かをしようという気力を奪い取っている。結局私は「ええまあ、ちょっとトラブっちゃって」とだけ答えた。男はその答えに満足したようで、「お互い苦労しますねえ」と笑った。


 考えてみれば、男には、巨大さなぎの中身が生身の人間だと思わせておいたほうがいいのかもしれない。共犯関係じみた親密さを感じさせておけば、シャベルで頭を殴られ穴に叩き落とされ計三体が土の下で眠るという事態を避けられるからだ。


 深い穴が出来上がった。八割がた男の手柄だった。だからというわけではないだろうけど、男は我先にと自分の女を抱きかかえると、穴の中に放り投げた。ずんっと、肉の塊の音がした。


 私も、穴があいて羽化しかけの巨大さなぎを持ち上げると、穴の中に放った。女の上に重なるように落ちた。


 あまりにも寒かった。私は男に「埋めるのは自分が」と言って、シャベルを取り戻した。そして土を穴にかぶせる作業に取りかかった。とにかく熱が欲しかった。


 男は喋り続けていた。なぜか巨大さなぎの中身についてやけに知りたがった。私は最初てきとうにあしらっていたが、土が巨大さなぎを覆い隠していくにつれ、その消えていくものを誰かに語りたいという理不尽な衝動に駆られ始めた。気が付けば私はドールとの日々を語っていた。語ったのは、ドールが意思を得て動き始めてからの時間だった。それ以前の、物言わぬラブドールについては一切口にしていなかった。なぜだ? 私は物言わぬラブドールを愛し、意思を持ったドールを憎んだ。そして今、憎んだほうについて熱心に語っている。


「女なんてそんなもんですよね」と男は笑った。


 女、と私は思った。女。それは人間の性別についての記号だ。女。


 女……? 私が今土をかぶせているのは、女……? 人間の、女……? ドールのはずだろう……?


 喉が強烈に渇いていた。肉体からではなく、もっと内側の暗く深い空洞から熱と痛みが滲み出てくる。それらは混ざり合って恐怖となって私の中に広がっていく。


 眩暈がして、私は数歩後ずさってシャベルを地面に突き刺し、それにもたれた。


 そんな私の状態を知ってか知らずか、男は穴の中を覗き込んで「もう少しですね。さっさと終わらせて帰りましょう」と背中越しに言った。


 私はシャベルを振り上げていた。そこから男の後頭部めがけて刃先を振り下ろすのはごく当然のフローに思えた。


「男でよかったと思いませんか?」男は穴を覗き込んだまま言った。


「え?」


 私はシャベルを振り下ろせなかった。男の言葉が、私の腕に絡みついて固まっていた。


「だって、もし女だったら俺たちが穴の底にいたかもしれないんですよ」


 穴を埋め終えると、私と男はハイキングコースを歩いて山道まで戻った。男の車は路上に停めてあった。彼は運転席に乗り込むと、サイドウィンドウ越しに手を振って、山道を下ってカーブに消えた。


 私も展望台の駐車場に停めてある車のトランクにシャベルを仕舞うと、運転席に腰かけた。エンジンをかけて暖房を入れると、達成感が笑いになって口からこぼれた。


 夜が明けたら、新しいドールを探しに行こう。


<終>

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肉人形 汐見舜一 @shiomichi4040

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