電車で吊り革に掴まりながら私が考えていたのは、言うまでもなくドールのことだ。耳に装着した左右のBluetoothイヤホンから流れる女性ボーカルの曲は、脳の中心で混ざり合ってドールの甲高い声に変わって響いた。あんな声だったのかと今になって意外に思った。


 仕事中、キーボードを叩く手が減速する電車みたいにたびたびふわりと止まった。グーグルクロームの検索窓に「ラブドール 喋る」「ラブドール 生きてる」「ラブドール 動く」などと入力してはバックスペースキーで消してを繰り返した。やろうと思えば、上長は部下のアカウントを覗いて検索履歴を調べることができる。むろん、不正や情報漏洩の疑いでもない限りそんなことをされるわけないのだが、やろうと思えばできるという事実が私の手をバックスペースキーに向かわせる。スマホは昼休みまで触れない。


 待ちに待った昼休み、私は外食にもコンビニにも出ずに、間食用にストックしているカロリーメイトを休憩スペースで齧りながらスマホでラブドールについて調べまくった。どこを見ても、ドールが意思を持ち始めたとか動き始めたとか、あるいはその可能性があるという記述には出会えない。オカルト板になら、捨てたドールが自らの足で帰ってきたとか、ドールの首が動いたとか、人を馬鹿にしたような創作がチラホラある。その人を馬鹿にしたような創作が現実になっているわけだが、やはりオカルトはオカルトで、それらが正真正銘の嘘っぱちであることは直感で理解できる。


 17時ちょっと過ぎに職場を出ると私は直帰する。冷蔵庫の中身に不安はあるものの、買い物をする心の余裕はなかった。息を切らして自宅マンションの玄関を開けると、廊下の奥のドアからドールが顔を覗かせて「おかえりー」と言った。私は安堵のため息をつき、いったい何に安堵したのか分からず笑いそうになった。


 寝室にリュックとコートを放り投げてからダイニングに入って、私はぴたりと足を止めた。


「服どうしたの?」と私は聞いた。


「服?」


「その服」


「借りてるー」


 ドールが今着ているのは、いつもの純白のワンピースではなく、厚手のセーターとジーンズだった。五年前に一ヶ月くらい付き合った女が家に置いていったものだ。生身の女と付き合ったのはそれが最初で最後だった。それから五年間、私はその服を毎年、年末に必ずクリーニングに出していた。安物のアクリルのセーターと色落ちしたブルージーンズを店に持って行くといつも怪訝な顔をされた。一度なんかは「家で洗えますよ」なんて言われた。


 サイズはぴったりだった。ジーンズもセーターもドールの体に皮膚みたいに馴染んでいた。ドールは椅子に反対向きに座って、背もたれに覆いかぶさるような格好で私を見上げる。セーターの胸の膨らみが背もたれでぎゅっと押しつぶされている。


 私は腰をかがめてドールに口づけをし、舌を入れた。ドールは一瞬だけ戸惑って、それから塞がれた口をかばうように鼻から笑い混じりの息を吐き出した。


 私は口を離し、ドールを見下ろした。


「なんで笑ったの?」


「え、なんでって、なんで?」


「俺なんかおかしいこと言った?」


「言ってないけど」


「じゃあなんで笑ったの?」


「急にちゅーしたから」


「嫌だった?」


「嫌じゃないよ。だから笑ったんじゃん」


「嫌じゃないと笑うの?」


「何言ってんのか分かんない」


 まるで私の言葉選びに問題があるかのようにドールは言う。私はダイニングの向こうの掃き出し窓に切り取られた四角い夜に視線をやった。閉めていたはずのカーテンが開いている。ドールが開けたのだ。隣のマンションのベランダが見える。


 いつもの癖だと私は思う。イラつくとどうでもいいことに意識が向いてしまう。


「もういいや、とりあえずしよう。ベッド行くよ」


「え、だから今日体調悪いんだって」


「じゃあ口でいいからしてよ」


「ごめん何がじゃあなのか分かんない」


 いったいなんだ、と私は思う。お前は何様だ? 昨日まで物言わぬ人形だったではないか? それが今朝急に意思を持ち、喋り、動き、あまつさえ私に反抗までする。


 私はドールの襟首を掴んで持ち上げた。セーターがびよんと伸び、ドールの体が僅かに浮いた。こんなに重かっただろうか? 太った? 意識してみると、昨日より少しふっくらしている気がする。


 広がったセーターの襟首からのぞく胸の谷間を見ても、私は「ああ谷間だ」以上の感想を抱けなかった。私は手を離し、ドールの尻は椅子にぺたんと落ちた。


 私は冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルタブを開けてその場で三分の一ほど一気に喉に流し込むと、ドールの視線を背中に受けながら寝室へ向かった。無性にイラついて、思わず缶ビールを床に叩きつけそうになってぴたりと止まり、代わりにポケットからスマホを取り出すと、目標が柔らかいベッドの上であることをしっかり確認してから投げつけた。スマホは小さくバウンドし枕の上にうまく乗った。


 ビールを飲み干した時にはだいぶん気分は落ち着いていた。タブレット端末に保存してある二次元のエロ画像で自慰をし、満足するとTwitterで政権に否定的なパヨクどもに罵詈雑言を浴びせて国に貢献した。露出多めの二次元美少女を描いたソシャゲ広告が駅に展開されたことを批判するフェミニストどもを罵倒して正義を成す。二次元は日本の宝だ。批判する奴は売国奴だ。


 明日が休みなので風呂には入らない。ソシャゲのクリスマスイベントで二時間潰し、お目当てのSSRキャラをゲットするも、私の心はどうしても晴れない。


 風呂場からシャワーの音がする。私はもったりと立ち上がり、廊下を経由して脱衣所へと行く。磨りガラス越しに、ドールの輪郭がぼんやりと浮かんで動いている。さーっと葉擦れのような音がきゅっと止まって、二枚折りドアが僅かに開いて隙間からドールがおずおずと顔を覗かせた。


「もうすぐ出るから」


 急かしてると思ったのか、ドールはそう言った。


「いや俺は入らないからべつに急がなくていい」と私は答え、ドアの隙間の縦長の長方形からドールの体を頭から爪先までじっとり眺めた。ドールは「何?」と引きつった笑みを長方形に残すと、それを慌ててかき消すようにドアをがしゃんと閉じた。


 私は長方形に切り取られたドールの裸体のイメージを額のあたりに一時保存しながら寝室へ戻った。やはり太った気がする。それに年をとった気がする。肌がたるんでいたのは見間違いではないはずだ。ドールの設定は未成年だが、とても今のドールは未成年には見えない。


 ドールが風呂をあがってドライヤーで髪を乾かし終えたタイミングを音で見計って、私は脱衣所に入って尋ねた。


「そういや、お前っていま何歳なんだっけ?」


 ドールは表情を曇らせ、ドライヤーのコードを束ねながら不服そうに数字を口にした。私はぶったまげた。設定より五歳も年上だったからだ。ババアじゃないか。


 私はショックのあまり缶ビールをもう一本開けた。酒を飲んで嫌なことを忘れられた試しなど一度もないのだが、なんとなくハードボイルドな感じがして気持ちがよくなる。


 すでに時刻は0時近かった。酒が入っていることもあり、私は眠かった。ベッドに横になると、ウトウトの薄い膜が音もなく体にすっと覆いかぶさってくる。だが、寝室のドアが小さな音を立てて開き、そこから入ってきた刃物みたいに細い光がウトウトの膜をすぱっと切り裂いてしまった。


 私は不機嫌を隠しもせず「閉めろ」と言った。ドールは何も言わず廊下の電気を切るとドアを閉め、ベッドに潜りこんできた。セミダブルのベッドは、本来は一人用サイズで、二人で寝ると寝返りすらままならない。それでも今まで問題なく安眠できていたのは、ドールが物言わぬ人形だったからだ。しかし既にこいつは動くし食べるし排泄するし、たぶん寝返りも打つ存在へと変わってしまっている。


「悪いんだけど、今日から居間のソファで寝てくれる?」と私は眠気で掠れた声で言った。


 ドールは私の言葉にすぐには輪郭を与えることができなかったようで、数秒の絶句を挟んでから答えた。「あのソファ小さすぎて落っこちちゃうよ」


「なんとかしろ」


「なんとかって、どうすればいいの?」


「自分で考えろ!」


 私は上体を起こすと、ドールの体をベッドの外へ押し出した。ドールはベッドから落下して悲鳴を漏らし、それが更に私をイラつかせた。


「早く出てけよ! ここは俺の部屋だ!」


 ドールは起き上がると、ベッドに座る私をきっと睨みつけた。状況的に見下ろされる形になり、私は堪らずベッドの上に両足で立った。ドールのつむじを真上から見下ろせる状況に逆転したことに満足感を覚える。


「出てけっての!」


 怒鳴りつける快感ったらない。胸と腹の中間あたりの奥のほうに溜まっていた不快感が一本の線になって口から高速で飛び出していく。体が軽くなり、自分が世界でいちばん偉くて残酷でクールでハードボイルドな存在なのだと思えてくる。気持ちがいい。普段は誰かを怒鳴るなんてできない。職場ではうぜぇ女にもぺこぺこしないといけない。コンビニの物分かりの悪い外国人店員のことはよく怒鳴りつけるが、あれはあまり気持ちよくない。日本で働いてるくせに日本語すらままならない輩への怒りは、怒鳴っても解消できないどころか増幅する。なぜだろう? たぶん私の怒りが額面通りに伝わっていないからだろう。あいつらは怒鳴られると必ずぽかんとした顔をする。「なんで怒ってるの?」って表情をする。だけど今目の前にいるドールは違う。私の怒りを純粋に受け止め、純粋に傷ついている。気持ちがいい。


 快感に任せて怒鳴り続けていると、壁を殴りつける音が響いてきた。隣の部屋の住人の抗議だ。私の怒りと快感は一瞬でしぼんでしまったが、隣人が男ではなく女だと思い出し、「うるせぇババア!」と壁に向かって怒鳴りつけてやった。二度と壁が殴られることはなかった。それでいい。


 気が付くとドールは寝室から消えていた。私はすっかり空気中に拡散してしまった眠気を必死でかき集め、頭に詰め込んで睡魔の再来を待ち望んだ。しかし、天は睡魔と私の逢瀬をとことん妨害しようと心に決めているようだった。玄関ドアが開いて閉まる音が廊下を渡って寝室のドアを突き破って私の鼓膜に突き刺さった。私は文字通り飛び上がった。枕元でスタンバっていた睡魔は尻尾を踏まれた猫みたいに一目散に逃げ去った。


 私は廊下を駆けて玄関ドアを開け放って外廊下の左右に視線をすばやく投げた。既にドールの姿はなかった。私はずいぶんと焦っていたが、考えてみれば焦る理由などひとつもないことに気づいた。私がラブドール愛好家であることが誰かに知れるのは断じて御免なのだが、今やドールは自律的に動いている。あいつがラブドールだと分かる者なんて私以外いるはずがない。


 夜風が寝間着の襟首から吹き込んで全身を駆け巡る。私は身震いし、家の中に戻った。鍵を閉めるか否かを数秒考え、閉めた。寝室に戻ってベッドに潜り込むと、今度はウトウトを省略するスピードで眠ることができた。気が付いたらカーテンの隙間から黄色い筋の朝日が差し込んでいた。かちゃんかちゃんと瓶が触れ合う音が聞こえてきて、そういえば今日は瓶と缶のゴミの日だと思い出す。急いで空き缶と空き瓶をまとめて、二つのゴミ袋を持って玄関を飛び出した。


 玄関ドアの脇にうずくまって震えていたドールが顔を上げ、私を見た。私は一瞬だけ足を止めてドールを一瞥し、すぐに外廊下を駆けた。エレベーターを待てずに階段を駆け下りて一階エントランスから飛び出すと、ちょうどゴミ収集車が道の向こうへ走り去っていくところだった。私は何かを叫んだ。それから構わずゴミ袋を集積場所に放り投げ、手ぶらで部屋に戻った。


 シャワーの音がする。慌ただしさの名残が付着した半開きの脱衣所のドアを横目に、私は寝室へと戻った。

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