肉人形
汐見舜一
1
私は今の生活に満足していた。ドールとの同棲生活は波風どころか微風すら立たない。相手は物言わぬ人形で、私の不手際や無精を決して責めないからだ。
私はドールを愛していた。君が同じ空間にいるだけで、私は孤独からも欲求不満からも綺麗に解放された。君は完璧な恋人だった。
ところが、そんな甘い生活が揺らぎ始めている。キッカケは、ドールが意思を持ち始めたことだ。
その日目覚めると、隣にドールの姿がなかった。私が昨夜ベッドに入って、おやすみを言った時は確かに隣にいた。
私はとうぜん焦った。怪盗ナントカが私の浅い睡眠の隙間をうまく縫ってドールを盗み出したとしか思えなかった。
毛布を跳ね上げてベッドから飛び降り廊下に出ると、返事なんて返ってくるはずないのにドールの名前を叫んだ。すると「なにー?」と、返ってくるわけない言葉が飛んできた。トイレを流す音がして、ドアが開いて、ドールが廊下に出てきた。
「おはよー」とドールは言った。
漫画なら、ここで私は自分の頬をつねるか、ベッドに戻って現実へ帰るための眠りについただろう。でも実際は、人間は想定外の出来事を現実の枠にはめこんで自分用に再生産する作業に長けているようだった。
「おはよう」と私は返した。「何してたの?」
「何って?」
「いやトイレ流してたでしょ?」
「えーちょっとなにー? どういう意味?」
ドールは眉尻を下げ、表情を外側にひっぱるようにして言った。たぶん笑っている。引き気味に。
ドールなのになんで? と言いかけて私は言葉を飲み込んだ。それは不適当な質問に思えた。
「今日は当番あなただよね?」
「当番?」
「朝ごはん」
「当番?」
「あなたが言ったんじゃーん、朝ごはん作るの交代でやろうねって」
私はドールを抱く時、よく喋る。頭に浮かんだ言葉を装飾せずに吐き出す。その中に、あるいは朝食の当番に言及したものがあったのかもしれない。知らんけど。
私は朝食を作った。作るといっても、ヨーグルトにオートミールをかけるだけだ。いつもどおりの朝食。いつもと違うのは、食器が二人分テーブルの上にあり、消費量が倍だということ。
「これおいし?」ドールは一口食べて、表情を外側にひっぱるような顔をする。
「いや味はべつに」
「健康重視?」
「んいやまあべつにそういうわけでも」
私は普段、出社前にもドールを抱く。そのための暇を想定した時間に私は起床している。だが、さすがにそろそろ抱かないと間に合わなくなる。
「食べるの遅いね」と私は言い、あからさまに視線を壁掛け時計に向けた。
「んー食欲なくて」
「じゃ片づけるよ」
返事を待たず私はドールの食器を取り上げてキッチンの三角コーナーに中身を捨てた。
「いこ」
「どこに?」
「ベッド」
「するの?」
「そ」
「朝だよ?」
「朝するのが日課なんだよ」
「ごめんタイチョウ悪いんだ」
タイチョウ? その発音と「体調」という言葉を結びつけるのに数秒要した。きっと顔のパーツを内側に集めるような表情を私はしていた。
「どう悪いの?」
「それ聞く?」
そりゃ聞くだろうと呆れたが、ドールの顔色がはっきり分かるくらい青いのを見て、私は喉元に用意しておいた言葉をため息に変えて細く長く吐き出した。
すっかり萎えた。私は便意を感じてトイレで用を足した。ここにさっきドールが座って出すもの出していたと思うと、なんだか笑いがこみ上げてきた。
リステリンと歯磨きを済ませてからスーツに着替え、洗面台の鏡の前で髪をセットした。
ドールはダイニングテーブルに突っ伏して、足を前後にゆらゆらさせていた。私がすぐ後ろに立っても気づかず、「いってくる」と声をかけると飛び上がって驚き、丸く開いた目で私を認め、胸を撫で下ろすついでに「あーいってらっしゃい」と答えた。
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