第二話 現実

ぷはっ。

夢だった。誰だったんだ、僕に声をかけたあの人。

あの女はまだいるのか怖くなり、前を、横を、後ろを目まぐるしく見る。

だが今ここはすし詰めの通勤電車。いたとしても、人だかりで見えるはずもないし、それらしき人物は一人もいない。

第一、今僕は車両の乗降口にまで押されており、仮に彼女がいてもこっちに来れないだろう。

とにかく、安心した。


夢を見ている間、僕は何もしていない。乗降口の扉に寄りかかって、立ちながら寝ていただけだ。それも朝の通勤電車という、最悪なゆりかごで。

人混みができ、壁へ押し付けられてしまうほどの肉壁が後ろから、横から迫る。こんなようじゃ、車内の画面広告もみれず、暇がつぶせない。

だが、楽しみはまだある。うしろを振り向くと乗降口の扉、そしてその窓があり、そこから外を眺めることができる。

今この電車は新幹線の高架にもなる高さを、気圧の変化で耳をぼおっとさせてでも走っている。そのおかげで住宅街、町のビル、交差点の人だかり、さらには大きな緑の川を一望できる。手前の方にあるあの川こそ、さっき夢で出た「色生神社(しききじんじゃ)」の裏を流れる川だ。最近はなんだか臭い。そんな川の水が、今、右手のペットボトルにも入っている。「色生しききの天然水」と書かれたそれは、「色生神社の御利益があるかも?」という触れ込みで売られていた。味は悪くないうえ、自販機で80円などと格安で売られているため、川の臭さと胡散臭さにもう触れないでおこう。


「まもなく、色生市、色生市。」


まずは一つ、この蒸れた牢屋から解放される。首や額の湿気が気持ち悪くてたまらない。電車から降りた瞬間、肉壁から解放されて自由になった右手で、その汗をぬぐった。


だが、牢屋はまだ続く。それは学校だ。中学を卒業し、三週間前の春、僕は高校生になった。


駅から学校へ向かう道。

男子は友人に近づくと、昨日引いたゲームのガチャの話をし、爆死したか神引きしたか盛り上がる。

僕もそのゲーム、やっているんだけどな。

女子は友人に近づくと、友達同士で距離を縮めては、昨日のバラエティー番組やネット動画でのお笑い芸人のカッコよさ、面白さを思い出しては笑う。

僕もその芸人さん、好きなんだけどな。

けど、自分の周りには誰も来ない。


友だちと弁当を食べる、お昼休みの教室。

男子は、教師のズボンのチャックの開きっぷりを思い出し、皆で笑い話にしているのが常。

あのチャックの開き方はぐにょぐにょしていて、本当におかしかった。

女子は、お互い前髪を整え、一番の前髪を決める「前髪グランプリ」、略して「前グラ」なんかをやっている。

そんなに前髪は大事だろうか。見た目を気にしても、人は心で何を思うかが大事なのに。

けど、自分の周りには誰も来ない。

教室の中、独り距離をあけて隔離されているようで、家から持ってきた弁当とともに惨めに机に突っ伏す他にできることがない。弁当の中身である自家製チキンライスなんて、孤独で圧迫された胃がそのこってりさを許容してくれない気がし、食べる気にも、弁当のふたをもう一度開ける気にもならない。

机の天板に反射して、自分の容姿が間近に見える。ただ少し褐色肌で、直毛で額にかかる黒髪。赤いネクタイに黒いブレザー。白いワイシャツ。こんなオーソドックスで、避ける要素ゼロな見た目である上に、教室入ったらすぐの、出席番号1番の席に座っているじゃないか。教室に入れば否が応でも、一番最初に目に入るじゃないか。

なのにいつも、誰も僕に話しかけない。僕が受刑者なら、皆によって作られる距離は牢屋の鉄格子や壁だ。そしてそれらは、独りである不名誉を堂々と晒上げる、見世物小屋のような独房を形作っている。即刻脱出しなくては。


そのため15:40にはいつも学校を出る。これが、中学校に入ってから続いている。


学校に行くたび、長い間牢屋に入れられている気分になる。なら、僕は何の罪で牢屋に入れられているのだろうか。他人に手を上げていない。中学男子特有の卑猥な言動もしていない。なのになぜだ。それとも夢もなく、はっきりした生き甲斐もないからなのか?僕という受刑者、赤山 盾(あかやま じゅん)は何をしたのか。


朝と違ってがら空きの電車に踏み込んでも、分からない。

座席にゆったり座り、窓越しに夕方の日差しで暖まっても、分からない。

耳がまたぼおっとして、急カーブに差し掛かっても、分からない。


次が、目的の降りる駅でも分からない。

電車から降りて、改札通っても分からない。

駅前の、歩車分離式信号の交差点で信号を待っても分からない。


交差点の真ん中に立ち尽くしても、それも歩行者信号が点滅するまで立ち尽くしても、分からない。


こんな思考が巡る徒歩を、信号の音、雑踏の音、車が走る音がさらに促し、加速させる。しかし、これからも分からないだろう。常日頃から考えてもなお、分からないから。無駄なことだとわかっているのに。


ならばこんな無駄はやめようと、ふと、ビルの壁画の広告を見る。

岩から剣を引き抜く、騎士王のビジュアル。確か、新しいスマホゲームの広告だろう。まるで、「アーサー王伝説」の描写みたいだ。


アーサー王と言えば、子供のころ、絵本で彼の童話を読んでいたのを思い出す。だれも引き抜けなかった剣を引き抜いた彼に憧れ、「選ばれし剣を持つわれは、あーさーおうだ!」なんてごっこ遊びしていたのは懐かしい。さらに変な設定を加え、父にまたがっては「いけ、われが飼っているレッドドラゴン、その名もパパっ!」なんて言い放っていた。あのときは幸せで心一杯だった。


あのごっこ遊びを高校生になった今、できないものだろうか。床か壁か、あるいは自分の席に刺さった剣を引き抜いて、王として有名になることで牢屋から脱獄。そして、みんなの輪の中に入ることで、自分も真の意味で学校に通いたい。楽しい友情関係を築きたい。


だがそれができず、惨めさが心を締め上げる


あれ。


やっていて幸せを実感したはずのアーサー王ごっこは、いつしか僕が現実逃避し、惨めさを実感するための想像になっていることに気がついた。大人になるにつれ、想像はこんな風に成長してしまうのか。


そんな虚しさ胸に、のそのそ歩き進む。

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