第29話 木乃花の朝帰り

【自炊】

 自分で料理すること。工夫すれば食費を抑えることができるし、自分の好きな味付けができたり、美味しさを追求できたりもできる。




 気絶した継彦が目を覚ましたのは、日付が変わる直前だった。居間の畳の上で倒れていたので、頬に畳表の形がしっかりと残ってしまっていた。


 心臓の鼓動に合わせてまだ頭が痛むが、吐き気などはない。そのうち痛みは引くだろうと継彦は思う。起き上がって痛み止めを飲んだあと、ようやく空腹を覚えた。チリコンカンは木乃花に残しておいてあげたいので、それこそなんでもいいと台所に行くとスナック菓子の袋を開けて、むさぼるように食べた。そしてようやく人心地ついて折りたたみ椅子に腰をかけた。


 あの幻覚は何を意味したのだろう、と継彦は考えるが、それはすぐにやめる。木乃花が無事に戻ってくれば答え合わせもできる。何も関係がなかったことだってあり得る。ただ、つばめの期待に応えて、あの幻覚の内容を伝えられたことを良しとすることにした。


 居間に戻ると液晶TVを点けっぱなしにしていたことに気が付いた。どの放送局も中継をしておらず、「人質解放」のテロップがずっと流れていたので、事件は終わったのだと見当を付け、継彦は液晶TVの電源を落とした。ネットで調べる気力は無かった。


 明日は土曜日でお休みの日だ。このまま寝ずに木乃花を待っていたいと思う継彦だったが、あの幻覚を見た後は体力の消耗が激しく、やはり横になりたかった。痛み止めが効いてきて頭痛はかなり引いてきた。このまま眠れてしまいそうだ。


 座椅子をリクライニングさせ、膝掛けを脚に掛けて座布団を抱いて横になる。すると継彦の意識はすぐに再びなくなった。幸い今度は気絶ではなく、単に眠りに就いただけだったが。



 

「つっ、かれたー! 朝だよ、起きようよ!」


 木乃花の元気な声と雨戸を開ける音で継彦は目を覚ました。声がした方を見ると朝日が射し込んで来て、継彦の目を幻惑させた。


「……木乃花ちゃん」


 継彦は半身を起こして木乃花の無事を確認し、胸をなで下ろした。


 木乃花は上半身のスーツは脱いでいたが、蜘蛛の下半身部分はまだ着装したままだった。本当に落ち着く余裕がないまま帰宅したのだろうと思われた。


「大変だったよ。すぐ制圧できなくてさ。ちょっと直撃貰っちゃった」


「ええっ! 大丈夫なのそれ!?」


 継彦は木乃花の側に駆け寄り、木乃花の瞳をのぞき込む。


「うん。テーブル越しでスーツも着てたし。でも、アザができちゃって、湿布は貼って貰ったんだ」


 木乃花はスーツの下に着用する長袖のアンダーウェアの裾を上げてへそを見せ、アザに貼った湿布を見せようとしたが、継彦はそれを制止した。


「窓開けっぱなしでカーテンも閉めてないのに!」


「誰も見てないよ」


「そういう問題じゃない!」


 木乃花の自慢のバストが、ブラを着けているとはいえ、白日の下にさらされるのは断固として阻止しなければならない。


「じゃあ、夜のお楽しみの時に見て貰うね」


「是非そうしてくれ」


 木乃花はアンダーウェアの裾から手を離し、継彦は安堵した。


「お腹空いてる?」


「差し入れのコンビニ弁当は食べたけど、それでは足りなかった」


「じゃあチリコンカン、温め直すね」


「継彦くんの朝ご飯は?」


「ああ、またご飯を炊き忘れちゃった。温麺にでもするか」


 昨夜は緊急事態でそれどころではなかったのだ。


 2人は台所に行き、継彦が料理をしている間に木乃花は下半身のスーツを脱ぎ始める。腕は蜘蛛の下半身のお尻の方までは届かないが、木乃花は脚を使って器用に脱いだ。


「いやあ。毎度のことだけどスーツ様々だった」


「本当にね」


 チリコンカンを鍋で温め、素麺を茹でて、お湯につゆの素、適当な温野菜と生卵で温麺にして、2人の朝ご飯が始まる。


「あー 安心する」


 木乃花はチリコンカンをスプーンですくって食べて、目を細める。


「それはよかった」


「つばめちゃんから聞いたよ。今回もありがとう。もう未来透視クレアボヤンスだって言ってもいいんじゃないかな……」


 木乃花はチラリと継彦を見た。


「僕は超能力者なんてガラじゃないよ」


「でも、私の危機は察知してくれる。そしてそれを軍も知っている。これからどうなるのかな……私たち」


 このままではいられないかもしれない。各国が超能力の研究を進め、戦力化を図っているという話は一般マスコミにも漏れているところだ。しかし超能力とはいうものの、これもキメラ症候群の一種だという仮説がある。人間から退化して無くなってしまった超感覚が、人間の形態のままだが、発現しているという仮説だ。


「……でも、クマだったんだ? テロリストの中にいたキメラ……」


 木乃花は頷いた。


 木乃花は作戦の内容を家族とはいえ、民間人の継彦に話すことはできない。だからその程度が精いっぱいだ。


「そうか。役に立ったんだったらそれでいいんだ」


 継彦は考える。


 あの幻覚は未来透視クレアボヤンスだなんてたいそうなものではない。愛する伴侶が命の危険にさらされたときに発現する能力なのだから、遺伝子を残そうという生存本能の一種なのではないか、と。


 木乃花が無事ならとりあえずはこれでいい。ただ、国防軍がどう考え、どう動き、どう策略を巡らせてくるかはこれから考えなければならない。強大な権力を前に民間人である継彦の選択肢はそうは多くないだろうが、覚悟は決めなければならない。


 継彦はようやく温麺に口を付ける。自分で作ったものだから当然なのだが、好みの味だ。昨夜、あんなに苦しんだのにのどごし良くするっと食べられてしまった。木乃花もチリコンカンを軽く平らげてくれた。


「そうそう。1つちょっとショックなことがあって。聞いてくれる?」


 そう木乃花は言うが、不満げではあるが、笑顔でもあったので大したことではなさそうだと継彦は見当を付ける。


「うん。もちろん」


「あのね、県警の人が私のこと『蜘蛛女の女王アラクネ・クイーン』って2つ名を付けてたの! 失礼しちゃわない?!」


「アラクネ・クイーンか。悪くない2つ名じゃないか」


 ほら、やっぱり大したことではなかった。しかし木乃花は本当に不満そうだ。


「せめてクイーンじゃなくてプリンセスにして欲しい」


「自分でそれは言っちゃダメなパターン」


「ですよね……」


 そして2人で顔を見合わせて笑った。


 お茶を入れ、ゆっくり飲んだ後、継彦は木乃花に聞いた。


「このはちゃんはこれから寝るの?」


「うん。軽く寝る。午後は継彦くんと一緒にどこかにお出かけしたいな」


「え、それ、大丈夫なの?」


 木乃花はニィと笑って応えた。


「全然大丈夫!」


「……ならいいか」


 どこか、とは本当にどこかだ。事前には何も決めていない。


「でも寝る前にスーツはきちんと片付けてね」


「言われてしまった……」


 スーツは木乃花が居間に脱ぎ捨てたままだ。きちんと折りたたんで、ケースに保管しておく必要がある。食べ終えた木乃花は居間に戻り、継彦は洗い物を済ませたあと、居間に行って、スーツ収納の様子を窺う。


 すると何故か幻覚の中に現れたあのクマのぬいぐるみがスーツ用のケースの上にちょこんと座っていて、継彦は思わず身を引いてしまった。


「ど、どうしてこいつがここに?」


 木乃花はブーツ類をケースの内部に収めながら答えた。


「なんとなくこの子の気分で……」


「だって昨日、クマと戦ったんだろう?」


 継彦にはこの木乃花のセンスが理解できない。次引きは、また今にもクマのぬいぐるみが動き出して、今度はファイティングナイフで突き刺してくるのではないかとまで考えてしまう。あの幻覚が継彦に残したインパクトは相当なものだった。


 そう継彦がいうと、木乃花は小さな声で答えた。


「昨日のグリズリー型の大型キメラは後天性の発現だったんだって……」


 それを言われただけでも継彦にはおおよその見当はついた。ある日突然に獣化する後天性のキメラ症候群の患者は、その発症とともに人生が一変する。仕事を失い、家族から離れ、その結果、テロ組織に流れ着いたのか……継彦はそう想像してしまった。


「だから、せめてこのクマちゃんとは改めて仲良くしたかったっていうか……自分でもよくわからない」


 継彦は木乃花の頭を撫でた。


「このはちゃんはやっぱりこのはちゃんだ」


 まだ幼かった頃、彼女の下半身を見て恐怖のあまり逃げ出してしまった自分を快く許してくれた木乃花の優しさは、同じ大型キメラだというだけの理由で対峙したテロリストにも向けられていた。


「じゃあ、スーツを片付けるの手伝ってくれる?」


「お疲れだろうしね。喜んで」 


「さすが継彦くん!」


 木乃花は喜んで継彦に抱きつき、その後、2人で仲良くスーツを専用ケースに収めたのだった。

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