第22話 よくない展開は考えてはいけない
【ハートレートトレーニング】
心拍数を基準にスマホなどと連動して記録することで、どの程度の負荷を肉体に課しているかを目視化することができる。木乃花の場合はスマートウォッチを使用している。
継彦を仕事に送り出した後、木乃花は朝の走り込みを始めていた。
朝ご飯を作るのは最近は木乃花の役割になっていた。今まで料理の経験がほとんどなかった木乃花でも、継彦の指導の下、固定メニューであれば作ることができるようになっている。朝ご飯は目玉焼きにスープ、浅漬け。気分で生卵か納豆をつける。これで朝ご飯は十分だ。まずは作り続けて自炊習慣をつけるのが目的だが、いかにも新妻という気がして、うれし恥ずかしの木乃花だ。なお、継彦は自分でお弁当を作って持っていく。目玉焼きか鶏肉のローストをメインのおかずに、そのときある温野菜を詰めておしまいだが、彩りよく作っているので手抜きには見えない。
継彦を送り出した後、これまでの木乃花は洗濯や掃除などをして、いつの間にかお昼の時間を迎えていた。木乃花は最近インスタントラーメンにはまっている。今まで食べたことがなかったので、美味しさにびっくりしたのだ。インスタントラーメンでも、継彦が多めに作った温野菜と鶏肉のローストを加えれば立派なお昼ご飯になる。
午後は在宅の仕事を探したりもしていたが、基本的には時間を持て余していた。
継彦が帰宅したあと、夕ご飯は2人で一緒に作る。継彦はある材料でいろいろな料理を作れるので木乃花は毎日のように感心する。固定メニューだからこそ、朝ご飯は作れても、夕ご飯に求められるようなメニューを継彦のように柔軟に考えることはまだ木乃花にはできそうにない。夜は夜で継彦の体力次第でお楽しみの時間となる。
しばらくの間、こんな新婚生活だったが、木乃花は週2の訓練だけでは身体能力の維持すら難しいことが判明した。実戦に出る可能性がある以上、衰えは最低限に留めたい。そしてついに観念して走り込みを始めたのだ。新居の周りがほどよく田舎なのが幸いし、木乃花が走り込みをする場所に苦労することはない。
東京湾横断道路の側道の方に向かって走り、田んぼの中の細い道をスマートウォッチで心拍数を確認しながら、小走りで走る。大型キメラの木乃花にとって、平地でも常人の高地トレーニングに相当する。大きな体格に対して酸素を取り入れる力が足りていないためだが、トレーニングによって心肺機能を向上させることで対応できる。そのためにはハートレートモニターとスマートウォッチで身体をモニターしながら、追い込む必要がある。
ジョギング程度の速度で走っても、負荷のかけすぎで酸欠で倒れないよう、木乃花は注意しながら走る。
走り込みを始めた日は、田植えに備えて田起こしをしている農家の方を驚かせてしまったが、同じ集落の人だったことが幸いし、手を振って愛想笑いして通り過ぎた。2日目からは慣れてくれたみたいで、会釈を返してくれた。上半身はトレーニングウエアを羽織って走っているのだが、胸が揺れて邪魔だ。もしかして見られているのかなあとも思う。
小櫃川沿いの堤防道路に出て、ぐるっと一筆書きで新居に戻ってくる。新居に戻る頃には汗だくだ。庭で呼吸を整えていると近所のネコたちが来て、脚にすりすりをしてくれる。耳が切られているので、地域ネコだと思われた。犬には嫌われるが、ネコには概して好かれるのがアラクネの特性らしい。どこかで餌を貰っているのだろうが、あまりにもかわいいので、木乃花もキャットフードをあげてしまう。あげるとまた懐かれる。甘えた声を出して餌をねだられるのも嬉しいものだ。
その後、お風呂の残り湯にお湯を足してぬるま湯で身体を洗い、さっぱりした後、今日もお昼ご飯にインスタントラーメンを作る。今日のラーメンは「もやしがおいしいまぜそば」だ。このためにもやしを1袋買ってきて貰った。とても美味しいのでお気に入りだ。このほか、目玉焼き3個が加わり、食後には箱のあずきバーが待っている。
こうやって好きな物を好きなときに食べられるのは、軍にいた頃にはなかなかできないことだったから、自炊の楽しさに目覚めつつある木乃花だった。
ちょうど食べようかと思ったところで、結界に何かが引っかかり、呼び出しベルの音がして、木乃花は玄関に向かう。
「暇~?」
この時期、この時間帯は玄関の引き戸を開けっぱなしにしているので、すぐにつばめの顔が見えた。なお、縁側の掃き出し窓も風通しを良くするために開けっぱなしにしてある。上下トレーニングウエア姿なのは、お年頃の女性としてどうかと思う。
「今、まぜそばを食べようとしたところだったのに……」
「ラーメンじゃなくて良かったね」
そう言うとつばめは勝手に上がり込み、台所に行く。やれやれと木乃花も台所に戻る。
つばめはテーブルの席に着き、手にしていたスーパーの袋からお弁当を取り出す。
「お茶欲しいなー」
「はいはい」
冷蔵庫から麦茶を作ったポットを取り出し、コップに注いで折りたたみテーブルに置く。
「今日は非番?」
木乃花もスツールに腰掛け、今度こそまぜそばを食べ始める。
「うん。本当に非番」
ということは今まで来ていたのはやはり監視目的だったわけだ。つばめも弁当の蓋を開ける。
「いい独身女性が休みの日にどうして元部下の家に来てスーパーの弁当食べてるかな」
「じゃあ年頃の女子らしく、アウトレット行く?」
「私が行ったら大騒ぎになっちゃうよ」
「そんなん気にしてたらダメダメ」
「そもそも興味ないし」
「せっかくアウトレットが激近なのに……」
「ディズニーだって実家は近所だったけど行かなかったよ」
「近いと行かないの法則」
それはある、と木乃花とつばめは2人で頷く。
「ところでお昼ご飯をわざわざ食べに来たわけじゃないでしょう?」
「食べるのが目的ならごちそうになりに来てるよ。不知火くんがいる時間帯にね」
「なんかあったね?」
「いろいろ。複数のところが。余所がけしかけてるらしい」
「面倒だな」
テロ組織は、自らの政治理念や宗教理念のために暴力で世界に抗していると、自分たちは考えているが、実際は多くの国や組織にうまく乗せられているのが実情だ。テロ組織にも活動資金を提供するスポンサーがおり、国や組織の意思を代弁するエージェントを潜り込ませていることも珍しくない。要するにテロも国際紛争の一手段なのだ。余所が具体的にどこの国なのかは聞かない。木乃花にも大体見当が付く。
「問題なのは大型キメラが関わっているという情報があることなんだ」
「本当に非番?」
「非番、非番」
怪しい。つばめは弁当の揚げ物をついばむ。
「つまり、除隊早々、駆り出される可能性があるわけだ……」
対テロ部隊に適応した大型キメラは多くない。その貴重な戦力の1人が木乃花だ。テロ組織にいる大型キメラがどんなタイプか分からないらしいが、その特殊能力の対応に手間取ることだけでなく、手痛い反撃に遭う可能性もある。
「さっそく悪い予感が当たりそうだ」
「悪いことは考えちゃダメなんだよー」
木乃花は言っても仕方がないことをつばめに言う。
「ところでー 自主トレしてるんだって?」
「どうして知ってるの?」
「継彦くんに教えて貰った」
「夫と独身女性が連絡とりあってるの嬉しくない」
「何言ってるんだい。不知火くんは木乃花一筋じゃないか。羨ましい。自主トレは何してるの?」
「走り込み」
「地味だけど、今の木乃花には1番必要かもね」
木乃花は頷いた。
「もし射撃訓練したければ言ってね。口をきくから」
「お給料なしに射撃訓練かあ……」
木乃花は深い深いため息をつく。木乃花の貯金はこの家を買ったので底を尽きかけているのだ。新人の継彦の給与もそう多くはない。これなら軍に残っていた方が良かったのか。いや、それでは居住の自由がない。仕方がなかったのだ。
お弁当を食べ終えるとつばめは昼寝したいと言い出し、和室の縁側で座布団を枕にして、不意にやってきた地域ネコと一緒にうとうとし始めた。木乃花もその脇で彼女らと一緒に昼寝をする。いい春風の中、疲れもあったのでよく眠れた。
そして3時に2人でお茶をしたあと、つばめは折りたたみ電動スクーターに乗って、基地の宿舎に帰っていった。
木乃花は今は床の間に鎮座されている『スーツ』の箱を見て、拝む。
どうか次の作戦でもお守りください。
別に神様だと思っているわけではないが、大事な相棒だ。気持ちを込めて整備しておこうと思い、木乃花は久しぶりにその箱を開けたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます