第21話 台風が去るまでに
【ノーマライゼーション】
高齢者や障害者などの社会的弱者を特別視せず、誰もが同等に生活できる社会を目指す考え方をいう。
様子が落ち着いたのが分かったのだろう、木乃花の母親らしき女性が顔を出し、乾いたバスタオルを継彦に貸した。次に手にしていたもう1枚のバスタオルで木乃花の髪を拭き、身体もある程度、拭き取った。
「着替えないとダメねぇ」
「シャワー浴びる。不知火くん、待っててね」
木乃花は靴を器用に脱ぎ捨てると奥に足早に引っ込んでいった。玄関に小さな靴が4足――アラクネ用としては1足――の靴が散乱し、彼女の母は肩をすくめた。廊下も濡れた足跡がいっぱいだ。彼女は困り顔で継彦を振り返ったが、すぐに笑顔を作った。
「また来てくれるとは思ってもみなかったわ。ありがとう、不知火くん」
木乃花の母も継彦の母親と比べるとずいぶん年かさに見えた。
「……いいえ。こんな日にご迷惑をおかけします」
「台風が来たのは君のせいじゃないじゃない?」
「それはそうですけど……」
継彦は雨合羽のフードを下ろし、まずは髪の毛を拭いた。それから雨合羽を脱ぎ、濡れたところを拭いた。時折豪雨もあったが、雨合羽と長靴のお陰であまり濡れていない。木乃花の母にハンガーを手渡され、雨合羽をかけて、靴箱の取っ手に引っかける。
靴箱の上には昨夜、自分が置きっぱなしにしていた花火の袋が置いてあり、継彦はまた少し落ち込んだ。
「木乃花がお風呂から出てくるまで、少しお話ししない?」
継彦は頷いた。
ダイニングキッチンに通されると、カウンターの中に彼女の父がいた。継彦は申し訳なくて頭を下げる。
「何か飲む? コーラがいいかな。それともコーヒーか紅茶を入れようか?」
「温かい飲み物で……」
「ココアにしようか」
木乃花の父は笑った。雨で濡れて身体が冷えていることを気にしてくれたのだ。
継彦はテーブルに着き、テーブルの上に湯気をあげるココアのカップが置かれ、木乃花の父母もホットドリンクを手に席に着いた。空席の椅子はスツールだ。下半身が蜘蛛のアラクネは普通の椅子には座れない。そのため、背もたれなしの椅子を使っているのだろう。
温かいココアは甘くて濃くて、継彦の冷えた身体には美味しく感じられた。
「ありがとう。また、来てくれて」
木乃花の父も同じように感謝の言葉を継彦にくれた。しかし自分はそんな風に感謝されるようなことをしていないと思う。居づらい。
「……思っていたよりおじいちゃんおばあちゃんで驚いただろう。木乃花は遅くになってようやくできた子どもでね。目に入れても痛くないとはこのことだと思うよ」
アラクネであったとしても愛娘ということは何一つ変わらない。そう幸せそうに言う彼女の父を見て、継彦は少し安堵した。少し放置気味なのかと思ったこともある。そんなことはない。彼女は愛されている。そう思えたからだ。
「でも、本当に不知火くんのことを信用しているのね。あの子がもう1度人前に出ようと思うなんて……」
「そんな風に言ったら不知火くんにプレッシャーじゃないか」
「でも、そういうの、分かるわよね?」
木乃花の母が継彦の様子を窺うように顔をのぞき込んだ。継彦は頷いた。
「でも、僕は逃げました」
「けど、こうして謝りに来てくれたじゃない。それで十分よ」
木乃花の母はかわいらしく、そして少し寂しそうに笑った。木乃花は母親似なのだなと継彦は思う。2人は台風の日に出歩いている継彦を両親が心配しているのではないかと言い、継彦に家に電話させた。台風の進路予報では午後の遅い時間に荒天が落ち着くとのことだったから、夕方までには帰ると継彦は親に言った。
「これで一安心……」
木乃花の母はホッと一息ついた。
「すみません……勝手に押しかけて」
「いや。日が開くよりは昨日の今日でよかった」
木乃花の父は肯定してくれた。
「台風だって分かっていても、謝りたくて仕方がなかったので」
「気が付かなかったかもしれないのに」
木乃花の母の疑問はもっともだ。しかし継彦はその心配はしていなかった。
「来たことは、分かってくれると思っていましたから……」
これまでもそれは感じていたことだ。継彦が家の前に来ると不思議なことに木乃花が窓を開ける。木乃花が開けてくれることを継彦も感じていた。
しかし木乃花の父は小さく首を傾げた。
「いつもの天気ならそう考えないでもないけどね……」
「でも、木乃花は気が付いたのよね……素敵なことよ」
木乃花の母はクスリと笑った。
シャワーを浴び終えた木乃花が髪を乾かすドライヤーの音が、雨風の音に混じって聞こえてきた。そろそろ戻ってくるはずだ。聞きたいことは聞いておきたい。
「彼女は学校に通っていないんですよね……僕の学校にもあまり症状が重くないキメラの子は何人か来てますけど……まあ、あんまり居心地はよくないですよね」
露骨に差別する奴も少なくないのが現実だ。木乃花ほどの大型キメラが普通の小学校に通うとなると波紋は大きいだろう。
「うん……人間はキメラを受け入れるほど寛容な生き物ではないんだよ。頭では誰もがキメラの遺伝子を持っているとは知っていても異物は排除したい本能が働く」
木乃花の父は悔しそうに言った。それはとても分かる話だ。
「でも、今、国会で『キメラ差別解消法』が論議されているじゃないですか……」
「よく知ってるのね」
木乃花の母が感心したように言った。
「今度の件でいろいろ調べたので……もしかしたら普通の小学校でも大型キメラを受け入れる日が来るかもしれない。でも、子どもの方は受け入れられる心の準備はできてない。僕ですら、ダメだったんですから」
自分のこととはいえ、継彦は悔しく思い出す。木乃花の父は継彦の顔をのぞき込んだ。
「……もし、木乃花が君と同じ小学校に通うって言いだしたら、どうする?」
継彦は間髪入れずに即答した。
「嬉しいです。法律ができたら、きっと差別も減るし、一緒に授業を受けられたらすごく嬉しいです。彼女がいじめられたら、先生だけじゃなくて専門の機関にも僕が言うし、少しでも安心して通えるようにしてあげたい」
継彦は昨日の醜態を少しでも挽回したく、熱弁した。
「そう……それを木乃花が聞いたら、きっと勇気づけられるでしょうね」
木乃花の母は微かに微笑んだ。
「私がどうかしたの?!」
ダイニングキッチンに木乃花が来て、母に聞いた。会話の一部だけ聞こえたらしい。
「不知火くんがいれば勇気100倍だねって話」
木乃花の母は木乃花を安心させるように笑った。
「うん。間違ってない」
継彦は大きく頷いた。
「勇気100倍、か……」
木乃花はスツールに腰掛けようとして、みんながカップを手にしているのに気付き、先にキッチンの方に回り、自分もココアを作って持ってきてから腰掛ける。
「ゼロを何倍してもゼロだから、100倍という表現は間違ってる気がする」
「困るな、それ」
継彦は真顔で答える。
「だからこそ、不知火くんからこれからいっぱい勇気を貰いたいと思っているんだよ」
木乃花はニイ、と笑った。隠し事なしで自分と向き合えることが相当嬉しいのだろう。楽しげなオーラがあふれ出ていて、照れる。
「台風の影響が弱くなるまで、うちにいてね。お昼ご飯も用意するから」
木乃花の母は継彦にではなく、木乃花に言った。彼女が喜ぶ顔を確認したかったのだ。
「うん。そうして。私の部屋で勉強しようよ。そして、なにかして遊ぼうよ」
あいにく携帯ゲーム機は持ってきていない。また彼女と遊べるなんて思っていなかったし、台風の中だったからだ。
「じゃあ、そうするね」
継彦は笑って応えた。
カップを片付けた後、継彦は木乃花の部屋に招かれる。女の子の部屋に入るなんてイベントが自分に起きるなんて考えてもなかった継彦にとってはドキドキものだったし、部屋を開けて目に入るぬいぐるみの数にも圧倒されたが、それはまた別の話だ。
勉強し、お昼を食べ、午後は木乃花が所蔵している本を読み、台風が去るのを待った。
台風は6時過ぎには無事に去り、雨も風もやんだ。もう暗くなりつつある時間帯だった。
継彦は木乃花の両親への挨拶を済ませてから玄関に行き、再び花火の袋が目に入った。
継彦は見送りに外に出ようとしていた木乃花の目を見て言った。
「花火の続き、これからやらない?」
木乃花は大きく頷き、笑顔で答えた。
「うん! やろう!」
そして2人で庭に出て、ほとんど残っていた花火で夏を満喫したのだった。
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