第20話 だって僕が悪いから
【アラクネ】
アテナと織物で勝負したすぐれた織り手だったが、ギリシア神話の例に漏れず、神に抗うと悲劇的な運命を辿り、死に至ることになる。アテネは哀れみ、彼女を蜘蛛に変えた。下半身が蜘蛛という姿はダンテの神曲で「傲慢の罪」を改めるために登場する。
朝1番に父が外の簡易テーブルを家の中に片付けた。そして家中の雨戸を閉め、西宮家は台風の接近に備える。古い家だが、最近、業者に手を入れて貰ったばかりなので、雨漏りの心配はなさそうだ。
木乃花は朝起きてダイニングキッチンに行くと、母がトーストとスープを用意してくれていた。正直、あまり食欲はなかったが、母に心配を掛けたくなくて、木乃花は半ば無理矢理トーストをスープで流し込んだ。
昨日のことが嘘だったらいいのに。
そう考えてももちろん何も始まらない。リビングの液晶TVには台風の進路予想図が映し出されている。台風の直撃は避けられ、中心部は太平洋を北東に進んでいるが、関東は暴風圏内に入っている。しばらくはこのまま大雨と大風が続く予報だ。
お皿をシンクに下げ、木乃花は2階の自分の部屋に戻る。今日は日曜日。父母もこの台風では1日家にいるだろう。だからこそ、木乃花は自分の部屋に引きこもってしまいたかった。1階にいれば、自分のことをなにかと気に掛けるだろう。しかしそれは今は慰めにはならない。
やはり彼の前に出るべきではなかった――驚かせ、怖がらせてしまった。それが悔やまれる。この先ずっと悔やみ続けるのだろうと思う。
自分の蜘蛛の脚を見る。黒く、硬く、細く、節がある外骨格の脚だ。脚を全部引きちぎって車椅子生活になった方がまだマシなのだろうか。それでも蜘蛛の下半身は残る。人間の上半身と蜘蛛の下半身は相互に機能し、お互いを補い合っている。木乃花は蜘蛛の下半身なしには生きられない。
こんなことを考えてもどうにもならない。
ああ。
木乃花はスツールに腰掛け、嘆息する。
彼に、会いたい。
木乃花は瞼の裏に彼の笑顔を思い浮かべる。生まれて初めてリアルでできた友だち。そして初恋の相手。でも、連絡先もどこに住んでいるのかすらも知らない。謝ることも弁解することもできない。自分が自由に外を出歩けたら、彼を探しに行けるのに。ストーカーだって思われたって構わない。2学期が始まったら彼が通う小学校の前で待っていたっていい。だけどアラクネの自分は外に出るだけで大騒ぎになってしまう。
人前に出る勇気は木乃花の中にもう一欠片も残っていない。継彦の前に出るだけでここ数年分の勇気を使い果たしてしまったかのようだ。
何をする気にもなれず、ぼーっとしてしまう。
こんなとき、どうすればいいのか人生経験がない木乃花には全く分からない。
激しい風の音と雨の音を聞きながら、ふうと息をついた。
そんなとき、いつもの感覚がした。
それは継彦がきたときにだけ覚える不思議な感覚だ。
時計を見ると最近いつも彼が来る時間になっていた。だから習慣でそう感じたのだろう。最初はそう考えた。しかし、そうではない。彼はすぐそこまで来ているのだと分かった。理由はない。そう感じただけだ。それでも木乃花が1階に駆け下りるにはそれは十分な理由になった。
ダイニングキッチンにいた母が何事かと木乃花に声を掛けたが、彼女の耳にそれは届かなかった。木乃花は廊下を走って玄関に至り、扉を開ける。
台風が生じさせる強い風が吹き込み、玄関の庇などでは遮れない強い雨が木乃花に降り注ぎ、髪を濡らした。
それでも入り口の門扉の方を見ると、視界を遮るように降り注ぐ雨の向こう側に、雨合羽を着て、長靴をはいた少年の姿が見えた。もちろん強風に吹かれ、強い雨に打たれて酷い有様だ。
「不知火くん!」
まさか、まさか……こんな台風の日に来てくれるとは夢にも思わなかった木乃花だが、次の瞬間、濡れるのも構わず、門扉の方に駆け出していた。
彼は閉ざされた門の向こう側で小さく言った。
「……ごめん」
木乃花は自分の耳を疑った。どうして彼に謝られなければならないのか、見当がつかない。風の音で聞き違えたのかとすら考えたが、継彦は続けて言った。
「……ごめん。嘘ついて、ごめん」
「……嘘……?」
木乃花は少し考えてしまった。
「怖がらないって、気持ち悪がったりしないって約束した。でも、僕はその約束を守れなかった。本当にごめん」
継彦が謝りに来てくれたのだとわかると木乃花は泣きたくなった。実はそんなことはどうでもいいことだ。事実、自分は怖い存在だし、気持ち悪い存在だし、継彦にそう思われたって仕方がない存在だ。でも継彦は嘘をついたことを謝りに来てくれた。こんな台風の朝に。
「……そんなこと、どうでもいいよ。危ないよ。うちの中に入って、避難しよう?」
木乃花は扉を開けて、継彦を招き入れようとした。
しかし継彦はその場から動こうとしなかった。
「西宮さんこそ、もっと濡れちゃうよ」
「私の方は私の家なんだもん。どうとでもなるよ!」
「……ごめん」
「ほら、もっとすごいことになっちゃうよ」
「……だって、僕が悪いから……」
そう言い、継彦は深く項垂れた。
彼は自分の言葉を待っているのだと木乃花が気付くまで数秒かかった。
「嘘をついたことは許すから! 早く中に避難しよう!」
木乃花は門を開け放つと継彦の手を取り、引っ張り、玄関の中に誘おうとする。継彦の手は木乃花の手より少し大きかったが、雨に長い間打たれていたからか、とても冷たかった。好きな男の子の手を握った感慨が生まれる余裕はない。しかも手を引っ張っても継彦は動こうとしなかった。面倒くさい。このままずぶ濡れになるのもイヤだ。木乃花は思いきって彼の手を引っ張って無理矢理玄関の中に押し込み、扉を閉めた。そして2人はようやく強風と強い雨から逃れ、静寂とはいえないまでも、落ち着いた空間に避難することができた。
継彦は玄関の中に入っても俯いたまま雨合羽を脱ごうとしなかった。ポタポタと継彦の方は雨合羽から、木乃花の方は髪とスカートの裾から雨の雫が落ちていた。
父母は様子を窺っているのだろう。顔を見せなかった。
「……ごめんなさい」
木乃花は前髪を指で上げて、継彦をまっすぐ見た。
「どうして、君が謝るの?」
「だって、今だって、怖いでしょう……わたしと一緒にいるの……」
「そんなことを君に言わせてしまう僕が悪いんだ」
何を言っているのか木乃花には分からなかった。
「約束守れなくて、嘘ついて、驚いて、怖くなって逃げ出して、どんな顔して君に謝ればいいかわからないのに、今もまた、君に辛い言葉を言わせちゃった……どう考えても僕が悪い」
自分は他人に怖がられる存在だと自ら口にするのは辛いことだ。しかしそれは事実だ。だから木乃花には諦めがある。それでも継彦は自分が悪いといって聞かない。
「今は! ……ううん。今も、正直いえば、ちょっと怖い。でも、絶対に慣れる。慣れたらどうってことなくなるし、それが西宮さんなんだし、僕は、君がアラクネだってなんだって平気なんだって、ううん、西宮さんはかわいい女の子なんだって、胸を張って言えるようになりたい!」
継彦の口から信じ難い言葉が投げかけられ、木乃花は目を大きく見開いて継彦を見た。
時が止まった気がした。
背中にジンっと電気が走り抜けた。
「私のこと、今、かわいいって言ってくれた……?」
継彦は小さく、自信なさげに頷き、言った。
「うん……だって、一目惚れした女の子のことをかわいいって思うのは普通のことだと思うから……」
継彦はそして俯き、真っ赤になった。
木乃花もしばらく言葉を失った。一目惚れの意味くらい木乃花も分かっている。しかし今までリアルで友だちの1人もできたことのない自分のことをかわいいといい、さらに一目惚れしたとまで言ってくれる男の子が現れるなんて夢のようだ。それも、自分も一目見て強力な磁力のような何かに心引かれた。そんな、運命を感じた男の子にそう言われるなんて!
「……私、アラクネだよ。蜘蛛女だよ。家の外にもろくに出られないんだよ……」
継彦の言葉は嬉しかったが、露骨に差別される現実も間違いなく存在する。
「それは、とても関係があると思うよ。だけど、僕は、それでも、まだ君と友だちでいたい。いろんなことがこの先あると思う。僕が逃げ出したみたいに、理解してくれない人は、できない人は大勢いると思う。だけど、少しでも、1人でも、分かってくれる人を増やすことができればいい」
継彦は顔を上げ、木乃花を見た。少し寂しそうで、少し悲しげで、そして自信なさげだった。それでもその言葉には力がある。何の力かまでは木乃花にはわからない。しかし確かに感じる。彼が台風の暴風の中、外で自分を待っていたのが分かったのと同じようにそれが分かる。
「僕ね、君が来てくれるって分かったんだ。こんな嵐の中で、雨戸も閉めっきりなのに、外を見ているはずがないのに、きっと気付いてくれるって信じていたんだ。そうしたら、君が玄関から飛び出してくれた……」
彼も自分と同じように分かっていたのだ。
木乃花は目頭が熱くなり、指で涙を拭った。
「……西宮さん……僕、泣かせるつもりじゃ……」
木乃花は首を横に振った。全身に微弱な電流が走り、木乃花は感動に震えた。
「ううん。悲しくて泣いているんじゃないの。嬉しくて、嬉しくて……嬉しくても涙って出るんだね」
継彦は不思議そうな顔をした。
「私も一目惚れだったんだね……今、分かったよ」
木乃花はそういうと、継彦に手を差し出した。継彦は恐る恐るその手を取る。すると彼の手から木乃花に何かが流れ込み、また、木乃花の手からも同じように何かが彼の手に流れ込んでいった。
それはお互いを思いやる温かな想いなのだと、木乃花は信じたく思う。
木乃花はぎゅっとその手を握りしめる。
継彦も負けないように強い力で握り返す。
好き。
言葉にしなくてもその思いは互いに伝わり、共有されたのだった。
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