第19話 台風がきた
【台風】
北西太平洋または南シナ海で発生した熱帯性低気圧のうち、最大風速が秒速17m以上のものをいう。
木乃花は継彦が置いていった花火の袋を眺めながら、ぼーっとしていた。
こうなることは分かりきっていた。
しかし木乃花は継彦の言葉を信じたかった。そう。信じたかったのだ。彼がいう怖がらないとか気持ち悪いとかそういうレベルを超えるほど、自分の見た目が怪物だということは分かっていたのに。
幼い頃から、人前に出るたびに向けられる目には恐怖の色が宿っていた。それは幼い木乃花でも本能的にわかるほどだった。それでも木乃花は彼に寄り添い、花火をしたかった。同じテーブルで勉強をしたかった。向かい合ってゲーム機を手にカードゲームをしたかった。どうしようもなく、その気持ちが抑えられなかった。そのためには木乃花は自分の下半身を彼に見せなければならなかった。それはどうにもならないほど大きなハードルで、ハンデで、クリアしなければならない必須イベントだった。
しかし木乃花が予想していたとおり、彼は悲鳴を上げて逃げ去った。
木乃花ができたのは残された花火が入っている袋を拾い上げることだけだった。
自然と涙があふれ出してきて、木乃花は浴衣の袖で涙を拭った。継彦と花火をするのに合わせて母が仕立ててくれた浴衣だ。普通のサイズの子どもの浴衣では蜘蛛の下半身を隠すには足りない。大人用の浴衣を買って上半身の部分を木乃花サイズに苦労して直してくれた。継彦にかわいいと思って欲しかった。無理だと分かっていたけど。
父は木乃花に慰めの言葉を掛けてくれたが、それは今の彼女には何の役にも立たない。
彼が家に遊びに来てくれることはもうないだろう。
それが現実になる明日が怖い。
2階の自分の部屋に戻り、液晶TVをつける。ちょうどニュースの時間で、台風情報が表示されていた。この台風が来るのがもう少し早かったら、花火大会は絶対に中止になっていただろう。大型で強い勢力を持つ台風で、今は関西が暴風圏内に入っている。
今夜未明から、関東も暴風圏内に入る予報だった。
ちょうどいい。
明日、彼が来なくても、台風のせいにできる。
そう、ちょっとだけ木乃花は思った。
しかしそれは気休めにならない。台風が去っても、もう彼が来ることはないだろうから。
リアルでできた唯一の友だちだったのに。
こんな木乃花にも友達はいる。オンラインゲームで知り合ったギルメンたちだ。木乃花の事情は誰も知らないし、木乃花もギルメンのリアルのことは知らない。誰か来ているだろうかと思い、ログインすると土曜日の夜なので、みんなが来ていた。
木乃花が熱中しているのはいわゆるのんびり系のオンラインゲームで、架空の村で生活しながらささやかなミッションをクリアしていくタイプのゲームだ。ファンタジー世界でキャラクターもみんな3頭身でかわいらしく、おじさんも大学生も高校生も小学生も、そして木乃花のような学校に通えないキメラの子も、みんな等しく3頭身のキャラクターになりきって、いつもわいわい遊んでいた。
しかし今夜はギルメンに挨拶だけして、オンラインゲームをやめた。架空世界に逃げ込んでも現実は変わらない。それがこんなにも悲しいことだと気が付いてしまったからだった。
木乃花はベッドの上に身を投げだし、うつ伏せになって休む。蜘蛛の下半身だと休む姿勢は限られる。父や母のように仰向けになれたら楽に寝られるんだろうなと思う。
私はこれからどうなるんだろう。
11歳なりに木乃花は考える。
オンライン授業が発達しているので、学校には通わずに勉強できている。しかし義務教育が終わったらどうなるんだろう。高校もオンラインでいいかもしれない。しかしずっと家に引きこもったままで社会に出ることはできない。在宅の仕事がみつかるんだろうか。在宅の仕事だって、こんな風に他人と関わって生きてきていない自分ができるのだろうか。
木乃花の未来は不安でいっぱいだ。
そんな風に悩んでいた木乃花の前に現れた男の子が継彦だった。
オンライン授業が終わって、普段、来ることがない鳥が現れて、外を見ていたあの日、家の敷地をのぞき込んでいた彼と目が合った。
彼の目は好奇心に輝いていた。
見た目は地味な子だと思いはしたけど、その輝きはたぶんホンモノで、木乃花は自分の魂が、ぐんと磁力を帯びたように彼に引き寄せられるのを感じた。
こんなことは生まれて初めてだった。
木乃花の表情は緩み、彼は不思議そうな顔をして、走り去った。
近所の子だろうか。今まで見たことがない男の子だった。同い年くらい。もし自分が学校に通っていたら同じ学校に通っていたに違いない。もしかしたらクラスメイトだったかもしれない。そう考えると妄想が進んだ。しかし蜘蛛の脚で小学校に通えば大騒ぎになる。ノーマライゼーションだなんだと世間は言っているようだったが、現実は厳しい。仲良く話せるようになっていた継彦でさえ、ああだったのだ。
同年代の、それも男の子とコミュニケーションをした経験はほとんどない。だから目があった翌日、彼がサッカーボールが入ってきたと言って敷地に入ってきたのにはとても驚いた。朝から何か予感めいたものがあったが、声がして、驚きとともに予感は確信になった。やはりあの男の子だった。簡単な会話のやりとりのあと、彼はサッカーボールを回収して去った。
また来てくれたことが嬉しくて、再び来てくれることを木乃花は期待した。
だから朝、父と母が出勤したあと、木乃花は表の道路に人目がない瞬間を狙って、家の門を半分、開けた。そうすることで彼が来たとき、入りやすいのではないかと考えたからだった。
するとどうしたことだろう。木乃花の願いが天に通じたのか、再び彼が訪問してくれた。
木乃花が急いで両開き窓を開けると白いレースのカーテンが風に揺れた。そして彼が気付くことを願って、小さく手を振った。
男の子は手を振って応え、大きな声で言った。
「中に入ってもいい?!」
信じられない言葉に、木乃花の胸は高鳴った。
「待ってたの! お話、したかったの!」
木乃花は自分の頬が熱くなるのを感じ、彼はその間に門の押戸を押して、敷地の中に入ってきてくれた。
継彦との出会いを木乃花は昨日のことのように思い出せる。あれから2ヶ月。継彦はほとんど毎日のように遊びに来てくれた。窓越しでは一緒にやれることは限られていたが、来てくれることが嬉しくてたまらなかった。継彦に他に友だちがいないのか心配になったが、自分と会うことが一番だと言ってくれて、本当に嬉しかった。
その喜びが恋なのだと、初恋なんだと木乃花が気が付くまでそう時間はかからなかった。オンライン授業が終わると1階の窓辺に待機し、彼が来るのを今か今かと待った。スマホを持っていたら連絡先を交換するのにととても悔しく思っていたが、それでも彼はほとんど毎日きてくれるし、来ない日はあらかじめ言ってくれていたから、それほど困ることはなかった。
楽しい2ヶ月間だった。
でもそれももうおしまいだ。自分が蜘蛛の下半身を持つアラクネだと知られなかったら、彼の前で全身をさらさなかったら、ああ、楽しかったときっと今も言っていただろう。しかし彼に自分自身を知ってもらわなかったら、いつまで経っても彼を騙しているように思っていたに違いない。
これは仕方がないこと。遅かれ早かれ、こうなっていたんだ。
木乃花はそう自分に言い聞かせることにした。彼を騙し続けて、仲良くなってもいつかは終わりが来る。その終わりが今夜だったというだけのことなのだ。
そう同じことを考え続けていたら、いつしか木乃花は眠れていた。
翌朝、暗いうちから風が強くなり、明るくなる頃、大粒の雨が降り出したのだった。
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