第18話 継彦、深く悔やむ
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有史以来、人類はさまざまな感染爆発にさらされてきた。中世のペストや、大航海時代に中南米に西洋人が持ち込んだインフルエンザ、麻疹、天然痘、そして現代の新型コロナウイルスなど、感染爆発が人類の歴史を変えてきたと言っても過言ではない。
どうやって家まで帰ってきたのか、よく覚えていない。
継彦は家に帰るなり、自分の部屋に駆け込むと敷き布団に身を投げだして泣きじゃくった。
親に何があったのか聞かれても言葉にすることができず、しばらく嗚咽を続けた後、ようやく言葉らしきものにできた。
「……友だちを傷つけた……」
継彦の父と母は顔を見合わせた。彼らも毎日、朝、家を出てどこかに行っていることは知っていた。それが友だちの家であろうことも想像はしていた。しかし初めて息子の口から聞いたその友だちに関係するであろう言葉が、かなり好ましくなかったためだろう、2人は苦い顔をした。父は厳しい口調で継彦に起きるよう言った。
しかし継彦にそんな力は残っていない。泣いて、泣いて、全力で泣いていたから。
それでも父は胸ぐらを掴んで無理に半身を起こし、まっすぐに見て言った。
お前がそんな甘えているから友だちを傷つけるんだ。傷ついたお前の友だちはもっともっと痛いんだ。
強い語気だった。こんな父を継彦は今まで見たことがなかったし、こんな風に強く言われたこともなかった。言い放った父は継彦の胸ぐらから手を離し、継彦は再び敷き布団の上に力なく横になった。
「……ほっといてよ」
継彦はそう言うのが精いっぱいだった。もう嗚咽しすぎて横隔膜が筋肉痛になったみたいに痛かった。
勝手にしろ、と父は言い、部屋から出て行った。母は特に何も言わなかった。父が言いたいことを言ってくれたと思ったのだろう。
花火大会の最後の連発花火が打ち上がる音を聞きながら、継彦は枕に顔を沈め、考えて、考えて、考えた。
何がどうしたものか……継彦の頭の中ではまだ同じシーンがぐるぐると巡っている。
花火を一緒にやりたいと木乃花が言ってくれたこと。
そして彼女を嫌いにならない、怖がったり、気持ち悪がったりしないと確認されたこと。
継彦がそれを約束したこと。
木乃花が信じると言ったこと。
しかし姿を見せてくれた彼女を一目見るなり、継彦は恐怖のあまり逃げ出した。
なにも繕うことなく、ただひたすらに走って、叫んで、逃げた。
あの暗闇にいた異形は、幼い彼をそうさせるに足るだけの恐ろしい姿をしていた。
そこにあるはずのない怪物だった。
上半身はあのかわいらしい木乃花なのに下半身は節足動物のそれ――悪夢のようだった。
しかしそれが本来の彼女の姿だったのだとしたら、継彦に姿を見せなかった理由もよく分かる。自分がこんな反応を示し、逃げ出すことは容易に想像できたのだ。木乃花本人はもちろん、ちらりと顔を出してくれた彼女の父も。
彼女はこれまで自分の姿を隠し、洋館の窓から外の世界を眺めるだけの生活を送ってきたのだろう。そこに自分が来た。何も知らないバカな子どもが。
彼女は恐ろしかったに違いない。下半身を見せれば、恐れおののき、2度と顔を見せることはないと分かっていたから。それでも自分は、怖がらない、気持ち悪がったりしないと約束した。だから信じる勇気を出したのだ。
バカだ。
僕はバカだ。
父の言うとおりだと思う。嘆いている自分なんかよりずっとずっと、彼女の心の方が痛んでいるはずだ。そして彼女の心を傷つけたのは継彦自身だ。
謝らなければならない。
そう脳裏で言葉にできたのは日付が変わった頃だった。
泣き疲れても、継彦はとても寝付けそうにない。木乃花の異形については継彦にも知識があった。学校の授業の進行状況にかかわらず、社会に該当する科目や人権関係の授業で絶対に習うからだ。継彦は布団から起きあがるとDバッグから学校用のタブレットを取り出して、その授業で配信された資料を探す。
遺伝子の水平伝播――これだ。
継彦はその資料を読み始める。小学生用ではなくオプションの中学生用が詳しかった。
始まりは100年以上前の1918年だったらしい。数年間の間、『スペイン風邪』と呼ばれることになるウイルスの
しかもその感染爆発の最中から流産率が急上昇しただけでなく、一定の確率で
「……ああ」
継彦は妙に冷静になっていた。知るということで恐怖を鎮めることができるのだと知った。これは単純なことでも効果的で、かつ、継彦にとっては人生を変えるほどの衝撃だった。
これが後に呼称される『キメラ症候群』の始まりで、当時は原因が全く分からなかったため、第一次世界大戦が終わっても、強固な産み控えが一般的となり、世界人口は一時横ばいとなったくらいだった。
当時の症例が当時のイラストで掲載されていた。イラストに描かれたキメラの形態は様々で、耳だけ獣という軽い症状のものから、下半身が蜘蛛だったり、下半身が蛇のラミアのようなものもあった。耳だけ獣というキメラはクラスにはいないが、同じ学年にはいる。
継彦はタブレットに表示された下半身が蜘蛛のキメラ――アラクネを見て息をのみ、頷いた。キメラとしては学習教材に掲載されるほど、メジャーな形態らしい。しかし、継彦は生まれてこの方、一度もアラクネを見たことがなかった。継彦は資料を読み進める。
『症状の程度にかかわらず、ほとんどは忌み子として生まれた直後に処分されたが、中には親の愛を受け、生き残る個体も希にいた。
第一次世界大戦後にドイツの政権を握った国家社会主義党はユダヤ人とキメラの弾圧を始めた。だが、キメラの中には優れた運動能力を持つ者がおり、その特定のキメラを軍事利用することで、第二次世界大戦の初期、ナチスドイツは破竹の勢いでヨーロッパを席巻した。以来、キメラの軍事利用は各国が競って行うようになり、その後の戦争でも多くのキメラが戦場に駆り出され、無人兵器が増えた現代の戦場でも、有効な戦力としての地位を維持している。
21世紀の今では『スペイン風邪』は各種キメラの基となるDNAを含んだレトロウイルスであることが判明している。そのレトロウイルスのために人類は遺伝子の独自性を失い、ほぼ全てと言ってもいい人類がみな、キメラの基になるDNAを内包しているということも分かっている。それはいつ、誰から、どんなキメラが生まれるか分からないことを意味している。
100年以上を経て人類はこの『遺伝子の水平伝播』が生じた状況をようやく受け入れ、キメラと共に生きる世界を構築しつつある』
資料はまだまだ続いているが、継彦はここでタブレットの画面を消した。
受け入れてなんてない。
共に生きてなんてない。
また継彦の瞳から涙が流れ出てきた。
この涙は家に逃げ込んできて流した涙とはまるで意味が違う。
どうにもならないくらい強くて大きい、後悔のあまり流した涙だった。
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