第17話 干潟を守る
【干潟】
干潟は魚が卵を産む場所となり、幼稚仔魚の成育の場となる。それ以外にも、水中の有機物を分解、栄養塩類や炭酸ガスを吸収したり、植物プランクトンが酸素を供給するなど海水の浄化に大きな役割を果している。
神社の清掃が終わった土曜日のお昼は、どこかに出かけるでもなく、家で継彦がパスタを作った。パスタというものは美味しく作ろうとしたら
今回、継彦が作ったのは本当にここまで手が抜けるのか! というようなパスタだ。継彦は普段、面倒なのでゆで時間4分のパスタを買っている。袋の口を切ったまま、パスタケースに入れているのはゆで時間を間違えないためなのだが、パスタケースに分表示のノブがついていたらきっと便利だろうなと思っている。作ったら売れると思うのだが。もしかしたらこれは新発明だろうか、などと思いつつ、まずはお湯を沸かす。
その間にニンニクを刻む。新タマネギも半分刻む。新タマネギは電子レンジで1分加熱しておく。フライパンにオリーブオイルを入れて、低温からニンニクを入れて、ニンニクの香りをオリーブオイルに移す。
その間にお湯が湧いたのでパスタを投入する。投入時計はしっかり確認。
ほんの少しだけ合い挽きの挽肉を熱くなったオリーブオイルに入れて、半分以上、火が通ったところで火を止める。余熱で9割は火が通る。パスタを投入してから3分経過。パスタレードルで手早くフライパンに移す。ゆで汁が入ってもいい。ゆで汁の炭水化物は加熱すれば、オリーブオイルとニンニクと合わさってソースになるのだ。
中火でフライパンを加熱してゆで汁を飛ばすように1分混ぜて、加熱した新タマネギと和え、塩こしょうする。
中皿に盛って、乾燥バジルを上から振りかけ、脇にフライドオニオンを添えれば1品だ。
いや、このはちゃんは鍛え直しているところだし。
フライパンを強火で加熱して卵を3個落し、半熟の目玉焼きを一瞬で作り、添える。目玉焼きは自分が1個、木乃花が2個だ。大型キメラの木乃花の方が、食べる量は断然多いし、必要だからだ。スープはインスタントで済ませるので、電気ケトルでお湯を沸かす。これは木乃花にやって貰った。
「10分でできたねえ。準備、できたよ」
「うん。じゃあ、さっそく食べようか」
パスタが盛られた中皿を持って、縁側に行く。縁側には座卓を出してある。庭を見ながら、お昼を食べようという趣向だ。
2人は縁側で座卓越しに向き合ってパスタを食べ始める。
「美味しい」
「手抜きのパスタだけど、自分で作ることが重要なんだよね」
木乃花は頷いて庭に目を向ける。
庭に雑草が生え始めているので、これもなんとかしなければならない。何本か木が植わっているが、何という木か分からない。手入れもしてあげたいので今度調べることにする。
「午後はどうするの?」
「ちょっと仕事が関係する場所を、下見に行こうかと思っています」
「そうなんだ……」
「このはちゃんも一緒に行く?」
「行く行く! どこに行くの?」
「そこの川の河口。小櫃川っていうんだけどね、干潟があって、今度そこの清掃イベントをするんだって。行き方を知っておいても損はないかなと思ってさ」
小櫃川の河口まではこの家から2キロしかない。
「干潟……全く未知の世界……」
「僕は大学で研究対象だったから見慣れたものだけど、そうだね、このはちゃんは訓練で行かなければ行ってないだろうね」
「解説付きで見られると思えばそれはそれで楽しいかな?」
「楽しいかどうかは保証できません。結局、人の楽しさなんて、その人の知識に対する鏡みたいなもので、自分のキャパを超えてしまったら面白いも何もないし」
「そこの塩梅をつけるのが話す側の技量でしょう」
「うむ。正論。じゃあ、干潮の時間を見計らって行くことにしよう」
「干潮?」
「潮が引かないと干潟は現れないんだ。朝、調べておいたんだけど、まだもうちょっと時間があるから、昼寝でもするよ。このはちゃんは長靴ある?」
「長靴はないけど、行軍用のブーツはある。泥の中とか普通に歩く」
「じゃあそれで」
「泥だらけになったら洗うの大変だなあ」
「もし仕事で頻繁に行くようになったら、外に二層式の洗濯機でも置いていくかな」
二槽式の洗濯機は泥汚れを洗うのに便利だ。丈夫だし。
継彦と木乃花は一寝入りして、午後2時過ぎに軽ワゴンに乗って、小櫃川河口干潟に向かう。小櫃川沿いの田んぼの中の道を何度か曲がって15分ほどかかったが、どうにか干潟入り口の鉄製のゲートがある入り口にたどり着いた。駐車場などはないが、軽自動車なら葦が高く茂った路肩に停めても十分車が通れる幅がある。継彦はなるべく寄せて停め、ハッチバックを開けて木乃花を下ろす。
「うわあ。馴染みがある感じ」
木乃花は演習場のことを思い出しているのだろう。ゲートには干潟の説明看板があり、2人でそれを眺める。
「東京湾唯一残された後背湿地を持つ自然干潟……どゆこと?」
「河川からは陸の土砂が川の流れで海にくるわけなんだけど、それが堆積してできるのが干潟。ここまではいい?」
木乃花は頷く。
「今、東京湾に残っているのはたとえば江戸川や多摩川がそうなんだけど、人工的に作られた堤防と川の流れがあってその間に干潟があるんだ。自然なら堤防はないわけなので、河口周辺はこんな風に芦原が広がって、それから干潟、そして海って順番になるんだ」
「ああ、人が埋め立てちゃったからないんだ」
「だから当然、不都合も起きる。こういう芦原に多くの動物や植物が生息・繁茂することで、陸からの栄養豊富な水を浄化する役割を担っているんだ。でも今、その機能が東京湾にはないから、赤潮とか異常事態が起きてしまうんだ。赤潮は栄養豊富な水域にプランクトンが大発生して、一気に酸素を使って死の海になってしまう現象なんだけど、そうやって徐々に海が死んでいく。東京湾の奥にはそんな風にできた無酸素海域が無数にある。湾の奥なんて海水がそう大きく動くわけじゃないからね」
「知らなかった!」
「人は海を殺しつつある。それを知っていても見てみない振りをする。何故なら自分の生活が困るから。人間がいう文明の生活には無理がありすぎる」
「そうなんだね……普段、自然と離れた生活しかしてないから、そういう話そのものが新鮮だ」
木乃花は継彦の話に興味を示してくれている。しかしそれは環境問題がどうのこうのではなく、自分が仕事に選んだ分野を知っておきたいという理性的な判断からだと継彦には思われた。
ゲートの脇は大きくスペースが空いていて、人が自由に通れるようになっている。ヨシやアイアシが高く生い茂る小径を2人で歩いていく。最初は手を繋いでいたが、道幅が狭いので、アラクネの幅では手を繋いで歩けず、仕方なく、手を離して歩き続ける。
左手に小櫃川沿いに広がる芦原と干潟を見ながら、しばらく歩くと右手の植物相が変わり、辺り一面が芦原となる。この辺りは満潮時には海水が入りこむので、その塩分濃度に耐えられる植物だけが残る。
「これはすごいな」
「映画が撮れそう」
ところどころに木が生えているが、台風などで増水したときにも流れに耐えて根を張り続け、大きくなった木だと思われる。森になるほど地盤はしっかりしていないのだ。
途中、水路があり、コンクリートブロックが並べられた橋ができていた。満潮時はこの自然にできた水路を通って海水が入ってくるのだ。ブロックは間が大きく開いているし、幅も狭い。継彦は木乃花を振り返って聞く。
「このはちゃん、通れる?」
「歩くのは至難だけど飛び越えるのは楽勝」
木乃花は大きく深呼吸し、酸素を体内に取り込む。その間に継彦は水路を渡り、振り返って木乃花を待つ。木乃花は3メートルほどもあろうかという水路をぴょんと跳び越え、継彦の目の前にしゅたっと着地した。
「さすが」
「何点?」
「10点満点」
「金メダルだ」
そういう会話をしている間にも2人は先に進んでいる。そこから先すぐに、いわゆる干潟の光景が広がっていた。なお、右手の奥にはホテル三日月が見える。
「けど、ゴミがいっぱい落ちてたね。干潟にもいっぱい落ちてる」
「海から流れてくるゴミがたどり着くのと川から流れてきたゴミが集まる場所だからね。土砂が集まるところにはゴミも集まる」
その大部分はペットボトルやビニールだが、そのほかの大きなゴミも無数にある。中にはタイヤなども転がっているくらいだ。数ヶ月に1度一斉清掃をイベントとしてやるので、そのやっていなかった数ヶ月の間にタイヤも流れてきたと言うことになる。
「思ったより汚い」
「日本のプラごみの回収率が高いっていっても利用する全体的な量が圧倒的に多いから、結局放置されるゴミも多くなるんだよ。ここにあるプラごみの大半は風に乗って川に落ちて、そのまま流れ着くとかだね。個人個人がしっかりゴミ捨てをするっていうのも大切だけど、それ以前に製造して使う文化に問題がある」
継彦は個人でどうにかするレベルを超えていると思う。海に流れたプラスチックごみは海の生き物が食べて死に至ることもある。ある意味、海が死ぬ原因を増やし、死の海化を加速させているといえる。
「無力だなあ」
継彦は思わず言葉にしてしまう。
「でも、私もそれ、よく思ったよ」
木乃花の言葉は継彦のそれより重い。何故なら木乃花のそれはテロを鎮圧した後に感じたことだろうから。木乃花自身が戦力として無力という意味ではない。テロの鎮圧は結局、対処療法にしかすぎない。本来ならテロが起きない社会を目指すほかないのだ。
「――社会人になるってのはこういうことなのかな、と今、ちょっと思った」
継彦は木乃花の心情をごく一部しか分からないと思う。それでも寄り添いたいと思う。
木乃花は微笑んだ。
それからしばらく干潟の生き物を観察し、帰りながら植物相の確認をして、軽ワゴンに戻る。
すぐ近くなのに遠い世界。
そして人が守らなければならない世界。
それが干潟なんだと思いつつ、継彦は軽ワゴンのハンドルを握ったのだった。
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