第15話 継彦、逃げ出す
【手持ち花火】
江戸時代の花火屋「鍵屋」が、江戸でワラの中に火薬を詰めた花火を売り出したところ、江戸っ子に大ヒットし、今に至る。
最高気温35度越えの日が続出する夏だったが、恋する不知火少年は7月中は毎日、木乃花に会うために西宮邸に通い続ける。日焼け止めを塗り、保冷ボトルに飲み物を詰め、首から掛ける携帯ファンを装備し、自転車で古い洋館の前まで行く。行くのは朝早く、午前8時頃で、だいたい11時くらいまでいる。それ以降の時間帯は暑くて危険だからだ。
昨年までは学童に通っており、夏休みの宿題は朝の勉強時間に済ませたからすぐに終わったが、自由な今年の夏休みでは自分で片付けなければならない。なので最初の1時間は勉強をしていた。家の人が日よけタープの下に簡易テーブルと椅子、そして蚊取り線香を用意してくれたので、ずいぶん楽になったが、継彦は家の人の姿を見たことがない。木乃花がいうには2人とも朝早く仕事に行ってしまうのだということだった。
今日も両開きの窓から木乃花が顔を出し、簡易テーブルで勉強する継彦と話をする。
「窓開けてたら暑いでしょ。勉強している間は閉めてもいいよ」
「それを言ったら不知火くんこそ外で暑いでしょ」
「僕は好きで来てるんだもの……」
好きという言葉を不意に口にしてしまい、継彦は意識してしまう。
「私も好きで開けてるの」
木乃花は意地になったのか同じ好きという言葉を使って返し、その後、口を噤んだ。
自分と同じように「好き」という言葉を意識してくれていたらいいと継彦は思う。
勉強を続けて、間があいてからまた話しかける。
「お昼ごはんとかいつもどうしてるの?」
「作り置きを食べてる」
そうだよなあ。学童に行くわけではないからお弁当も必要ないし。継彦もお昼は家に戻って適当に残り物を食べるだけだ。同じことだ。
木乃花はニコニコしながら継彦を見ている。機嫌が良さそうだ。今ならもう1度聞けそうな気がした。
「……花火のこと、考えてくれた?」
その2文字を聞いただけで木乃花は表情を曇らせた。
「……不知火くんを信じたい、信じたいけど……」
よほど躊躇うことがあるらしい。もうこのことを聞くのは止めようと継彦は思う。たとえ家の外に出てきてくれなくても、今、彼女と会えるだけでいいじゃないか、そう自分に言い聞かせる。
「もうこの話はおしまい。ごめん。悪かった。家の外に出られないんなら仕方ない。でも、ここからじゃ花火大会の花火は見えなくて、音しかしないだろうから、花火大会の夜はここで花火をしたらどうかな? 西宮さんはいつもどおり、そこから僕がやる花火を見てくれればいいから。1人花火大会開催、なんてね」
「え……夜なのに出歩けるの?」
木乃花は不思議そうな顔をした。普通、習い事でもなければ小学生を夜に1人で出歩かせないものだ。
「花火大会の日は特別なんだ。花火を見に行くって言ったら、何も言われない。ここで花火をやるのも、花火を見ていることには違いないだろう?」
「へりくつだ」
「へりくつでも嘘はついてない」
「確かに!」
木乃花は笑う。継彦も笑う。こんな楽しい時間を失いたくはない。
「待ってる。お父さんとお母さんにも言っておく」
木乃花は少し頬を赤く染めながら答えた。
「うん……花火買って、来る」
継彦も自分の頬が熱くなるのを感じた。
花火大会は毎年8月の第一土曜日に行われる。今年は台風が接近しつつあり、開催が危ぶまれたが、幸い、台風の影響は日曜日からとの予報になり、継彦が住む地域の天気はまだ穏やかだった。
継彦の家は花火大会の会場になる河川敷に近く、毎年、多くの見物客たちが彼の家の前を通って会場まで向かう。今年も各々手に、酒のつまみやお菓子、アルコール類にペットボトルを持ち、楽しげに家族や仲間とともに歩いている。浴衣を着たお姉さんも珍しくない。
陽が落ちるといよいよ見物に向かう人の混雑が増し、継彦は人の流れと逆方向に自転車を走らせるのが怖いくらいだった。既に駅前のディスカウントストアで少ないお小遣いの中から花火を買ってある。小さめの袋だが、2人でやる分には十分な量だ。家にバースデーケーキについていたロウソクが残っていたので、それを使って火を点けるつもりだった。
浴衣のお姉さんとすれ違うたびに、継彦は木乃花の浴衣姿を想像する。ふんわり系の美少女である木乃花に浴衣はあまり似合わないかもしれないが、色鮮やかな花柄の浴衣なんかが意外と似合うんじゃないかなと妄想する。
自分がろくでもない妄想をしているのがおかしくて、継彦はペダルを踏みながら笑う。踏切を渡って西宮邸に到着する頃にはすっかり花火大会の喧噪は消えている。大会会場とは反対方向だからだ。
自転車を庭に停めると日よけタープが外されていることに気がついた。継彦がやる花火を窓から見るのに不都合だと考えたからだろう。誰が? 外に出られない木乃花ではない。きっとご両親のどちらかに違いなかった。
すぐに両開きの窓が開け放たれ、木乃花が顔を出し、蚊取り線香の匂いが漂ってきた。
「不知火くん。いらっしゃい」
木乃花の笑顔が嬉しい。胸が高鳴る。
「浴衣だ……」
窓越しでも木乃花が浴衣姿であることは見て取れる。
「お母さんが着付けてくれたの」
「それはよかったね」
花火大会には行けなくても少しでも気分を味わって貰いたいという親心に違いない。
木乃花と継彦の会話で気がついたのだろう、正面玄関の扉が開いた。
「不知火くん、いつも木乃花と遊んでくれてありがとう。木乃花の父です」
玄関から姿を現したのは白髪の男性で、おそらく50代だと思われた。実の父なら木乃花は遅くに生まれた子になる。
「日よけタープとテーブルと椅子ありがとうございました。快適です」
「快適ってことはないよ。こんな暑いのに」
木乃花がツッコミを入れ、木乃花の父と継彦は苦笑した。木乃花の父はそうだったと言って、バケツに水を入れて庭の一角に置いてくれた。花火をするのなら当然、必要だったのに継彦はまるで考えていなかった。反省。
彼女の父が目の前にいるのだから、彼女の事情を聞けるかも、とちらりと考えた。しかしその考えを継彦はすぐに心の奥底に沈める。家から出られなくて、自分も家に上げて貰えないのならそれで仕方がない。焦りは禁物だ。
もうすっかり空は暗くなっている。西宮邸には大きな木々が生い茂っているから、隣の家の明かりもほとんど見えない。木乃花が顔を出している窓以外は雨戸も閉まっているから明かりはそこからしか漏れない。すっかり花火ができる感じになった。
木乃花の父は心配そうに継彦を見て、小さくお辞儀をした後、家の中に戻っていった。
「じゃあ始めようかな」
遠くから花火が打ち上がる音が小さく聞こえてくる。雰囲気が盛り上がってくる。荷物からロウソクを取り出し、ライターで火を点け、ろうをその辺にあった小石の上にたらしてロウソクを固定する。火が安定してきて、花火の準備は整った。
継彦はまず、定番の手持ちのススキ花火を手にする。今回、花火を買って、そもそもこの花火はなんていうんだろうと疑問に思って調べたのだ。セットに入っていたのはススキ花火とスパーク花火。これは線香花火の大きなものだと理解した。線香花火も入っているし、ススキ花火のバリエーション、変色花火も入っている。ちょっとした花火博士になった気分だ。
窓から木乃花がわくわくしながら継彦の様子を窺っている。
継彦がススキ花火の先端をロウソクの炎で炙るとしばらくして火薬に着火して、鮮やかな蒼と朱の輝きが放たれ、火花が重力に引かれて落ちていく。
「きれいだね」
木乃花が継彦に話しかける。
「きれいだね」
同じ言葉で継彦は返す。
「西宮さんはこの手の花火を見たことはあるの?」
「あるよ。お盆の時期になると涼しいところで過ごすの。そこで」
別荘だろうか。この家なら別荘を持っていても不思議はない気がする。
「そっか。今年も?」
花火は消え、継彦は次の1本を手にし、着火する。今度はスパーク花火で眩しいくらいの火花が周囲に飛び散り、木乃花は小さく悲鳴に似た声を上げた。
「ふふ。びっくりしたね」
「びっくりした。あ、そう。だね、もし、不知火くんが、お盆にも、来てくれるなら、行かなくても、いいかなって、思ってるの」
「ええっ!? せっかくだから行けばいいのに」
「だって、こんな楽しい夏を逃すのがもったいなくって」
花火から目を反らし、木乃花の表情を窺う。彼女の顔には自分が鏡をのぞき込んだときに見える色が浮かんでいる。それは「恋」の色だ。何故かわかる。
両思いなのかな……と継彦は考えるが、それでも自信はない。
「……そっか。それは嬉しいな。僕も西宮さんとの時間を大切にしたいから……」
それ以上、継彦が言えることはない。彼女の顔を見られない。俯いて、終わった花火を見つめ、少しして、バケツに突っ込んで水で完全に消火する。
「私も花火を一緒にやりたいな……不知火くん……顔、見せてくれない?」
不意に木乃花に言われ、驚いて継彦は窓際の木乃花の顔を振り返った。
木乃花は半分不安げに笑み、半分、赤くなっていた。
ドキドキした。何か言われると継彦は予感した。
「不知火くんは私のことを嫌いにならないって言ってくれたよね……怖がったり、気持ち悪がったりしないって言ってくれたよね……」
木乃花の表情には100%不安の色が浮かんでいた。
不安にさせる要因が、自分自身にあることは継彦には痛いほどわかる。そう言い切ってあげたい。しかしこれほどまでに外に出るのを恐れるのだから、絶対に何かあるはずだとは思う。その何かがわからない。分からなくても木乃花の方から言い出してくれたのだ。
覚悟を決めなければならないと継彦は自分に言い聞かせた。継彦は立ち上がり、木乃花を正面に向き直り、彼女の目を見た。彼女の瞳は潤んでいた。
「うん。そう言った。約束する」
自分の声も震えていた。思えば、このときにもう継彦は予感していたのかもしれな
かった。
「……継彦くんを、信じるよ。信じたいから」
木乃花は肺から息を絞り出すようにそう言い、窓際から姿を消した。
玄関に向かったのだと継彦は気付き、改めて覚悟しろ、何があっても驚くな、と自分に言い聞かせる。まるで昔話のようだ――と思う。鶴の恩返しでは正体を知ったら女房は消えてしまう。見ない方が、知らないことがいいこともある。そういう話だ。
玄関の扉が開き、木乃花らしき姿が見えた。
玄関から漏れる明かりで、逆光になっていたが、シルエットはよく見えた。
浴衣姿の木乃花。愛らしい。栗色の髪が微かに夏の風に揺れていた。
胸元は少し膨らんでいる。クラスメイトの女の子たちがそうであるように、もう第二次性徴が始まっているらしい。帯で強調されていることもあるだろうけど。
そしてシルエットの異なりに気付き、継彦は息をのんだ。
浴衣の裾は広く広がり、そこにあるはずの2本の脚はなかった。
そこにあるのは、八本の脚。
細くて長い、昆虫のような節目がある脚が浴衣の裾から胴体の左右に出ていた。
継彦は声を失う。
本能が悲鳴を上げろと言っている。
だが、精一杯の理性でそれは押しとどめる。
それでも継彦の脚はガタガタと震える。
これは、恐怖だ。
異形を目の前にして、捕食を恐れる、まだ人類がネズミのような小動物だった頃の記憶だ。
逃げろ!
今すぐ、逃げろ!
本能がそう叫ぶと、継彦は抗うことなどできない。1度、継彦は膝を突き、両手で地面を掴んでから立ち上がると、停めてある自転車に一目散に向かい、ハンドルを握って押して、敷地から飛び出る。道路に出て、継彦はようやく自転車にまたがり、ペダルを力の限り踏む。そこでようやく、継彦は肺の奥から息を振り絞り、あらん限りの力で叫んだ。
「うわああああ!!」
叫んで恐怖を拭えと本能が言っていた。
継彦の中に木乃花との約束はもうない。
継彦が乗った自転車が踏切を越えると、建物と建物の間に花火大会の打ち上げ花火が見えるようになる。
自転車で恐怖から逃げながら、花火の輝きの下、継彦は訳も分からず嗚咽した。
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