第14話 労働の後の一杯は美味い――らしい
【アルコール】
主に飲酒という形で摂取する。個人差があるが、酩酊状態を創り出す。なおホミニン(広い意味でのヒト族)は果実が発酵して醸成された天然の酒を好み、成熟した果実を見分けるために複雑な色を認識できるようになったという説がある。
4月の第1週がようやく終わり、明日は土曜日という夜だった。
今までこんなに連続してアルバイトをしたことがなかった継彦としては、社会人の大変さを痛感する一週間だった。職場では覚えなければならないことは山ほどあったが、それはそれ。何よりも、誰からかかってくるのかわからない固定電話が恐ろしかった。どうして市役所は未だに固定電話で、しかもナンバーディスプレイもないのだろう。不思議でならない。電話に出てからの名乗りと、先方の誰何、そして要件を聞くという一連の流れが身体に染みつくまではこの恐怖は消えないだろう。
市の環境部署は清掃工場内に事務所があり、新居から8キロほど離れているが、継彦は自転車通勤をしている。以前の義足では乗ることができなかった自転車も、電子義足のお陰で再び乗れるようになって、嬉しくて仕方がないからだ。接合部が痛むこともあるが、さほどではない。健康のための運動だと思うことにしていた。
巌根駅前のスーパーでいろいろ買い物をして帰ると、木乃花は和室で仰向けになってぐったりとしていた。最近は和室を居間として使っている。
「想像通り過ぎる……」
「まさか2週間でこんなに体力が衰えるとは……」
木乃花は顔だけ継彦の方を向けた。
「月8の訓練は最低限って本当なんだね。何かリクエストがあれば夕食はそれにチェンジするよ」
「ない。けど、アイスが食べたい」
「買ってきてある」
疲れると木乃花がアイスを食べたくなるのはいつものことだ。なので、箱で買ってきてある。継彦はエコバッグからアイスの箱を取り出し、うち1本を木乃花に渡す。
「さすが継彦くんだあ」
「何年一緒にいると思ってるの」
「そうだねえ……」
えへら~と木乃花は蕩けたように笑う。そしてお行儀悪いことに、仰向けになったままアイスバーの梱包を破り、食べ始めた。継彦は目を細める。
「汚すぞ」
「そだね」
木乃花は長い脚で器用にうつ伏せになってから上半身を起こした。
「パリパリバー最高」
「赤城のblackとどっちがいいか悩んだんだけど」
「どっちもいい。あずきバーでもいい」
本当にどうでもいい会話である。
継彦は冷凍室にアイスを片付け、野菜室に買ってきた野菜を入れる。さて、何を作ろうかと考えていると玄関の呼び出しブザーが鳴った。
「呼ばれなくても勝手に来ました~~ つーか戸締まりしておきなさい」
勝手に玄関の引き戸が開く音がして、ノーアポの来客が家に上がり込んできた。誰何することはない。つばめの声だった。
「つばめちゃーん」
台所から廊下の方に目を向けると木乃花が出迎えており、すぐにつばめとハグをした。
「どうだった? 分遣隊のメンバー。本隊と変わんないだろ?」
「首都圏有事即応部隊だけあって、すごい人たちばっかりだね!」
やれやれ。特殊急襲部隊は軍事機密部隊なのに、こんなことを一般家庭内で話していいのだろうか。継彦は心配になる。
「向坂さん、お世話様です。これから夕ご飯ですけど食べてきます?」
そういう時間だ。つばめはすぐに返事をした。
「うん。助かる。できればー 炭水化物は減らしてー つまみにー」
「はいはい。承りましたよ」
前にも飲みの会でつまみ担当をしたことがあった継彦である。諦めの気持ちで頭の中のメニューを変更し、今ある具材を使って作れるレシピを脳内検索する。その間につばめが来て、ビールの500㎜缶6本組を冷蔵庫に入れる。1人用冷蔵庫なのでそれだけで庫内はきゅうきゅうになる。炭酸水のペットボトルは扉側に収めた。つばめは本当に飲む気満々だ。
「つばめちゃん、明日非番なんだ?」
「うん。まだこっちに来たばかりだからね」
飲む予定の2人は早くも折りたたみテーブルの席について、流し台の前にいる継彦に目を向けている。継彦につまみを要求する圧がすごい。まずは聞く。
「このはちゃんはお茶? それとも向坂さんが持ってきたビール?」
「最初はビール~ あとでお茶~」
「そうしてくれ。木乃花はお茶で酔えるんだからそっちのが安上がりだ」
つばめは尉官とはいえ、1人暮らしでこっちに越してきたばかり。節約が必要である。
「でも~~ つばめちゃんが買ってきてくれたビールが飲みたい~~」
「さっそく乾き物で乾杯しようか」
つばめはかっぱえびせんの袋を開けて、テーブルの天板の上に置く。その間に木乃花は冷蔵庫のビールを取り出し、つばめに手渡す。すぐにプシューと炭酸が抜ける音がして、酒盛りが始まった。作業台に向かう継彦は振り返らなくても音だけで分かる。
「ぷはー。労働の後の一杯は美味い」
「ほんにほんに」
オッサンみたいな会話だ。
さて、かっぱえびせんはあるので、何を作ったものか。
レタスを千切り、大根を千切りにし、チーズとフライドオニオンをかけて、味付けはつゆの素で終わらせるというこの世で最も簡単ではないかと思われるサラダを供する。
「さっそく一品だ!」
「不知火くん、すまないねえ」
缶ビールに口を付けている2人は我先にサラダを自分の取り皿に載せる。その間に、次のつまみに着手する。常備している油揚げをコンベクションオーブンに投入。温度設定ノブを240度、タイマーを6分に合わせる。この間にもう一品作る。ベーコンを刻んで脂を出し、適当に出たところで溶き卵を混ぜ合わせ、塩こしょう。皿に載せたら乾燥バジルを振りかけて彩りをプラス。既に6分経っており、油揚げがしっかり焼き上がっているので、サクサクと細切りにして生姜醤油で和える。これで3品。次のつまみまでの時間が稼げるはずだ。つばめが喜びの声を上げる。
「不知火くんの女子力高い~~」
「いただきまーす」
木乃花は2本目のプルトップを上げていた。継彦は鶏肉を皮目を下に、フライパンの上に置き、中火で加熱を始める。次の準備をしながら、つばめに聞く。
「向坂さん、ここまでどうやって来たんですか?」
「電動スクーターだよ」
「私、基地まで往復歩きなのに~~」
「木乃花は鈍ってるからそれでもぜんぜん足りない。Vo2MAX、かなり下がってたぞ」
「しょぼーん」
「ということは帰りは歩きですね」
「車で送ってくれると嬉しい」
折りたたみ電動スクーターだから余裕で軽ワゴンに入るわけだが、それでは継彦は酒が飲めない。まあ、もともとそれほど飲めるわけではないので別にいいのだが。
ジャガイモを千切りにしてレンジで加熱。鶏肉をひっくり返し、焼き目をつけたら千切りにしたジャガイモと一緒に耐熱容器に入れ、その上にマヨネーズをたっぷりかけ、コンベクションオーブンに入れる。カロリー的にも量的にもこれがメインのつまみになる。
温野菜が足りないのでニンジンとキャベツを切り始める。
「このはちゃん、そんなにダメでした?」
継彦は野菜を切りながらつばめに聞く。
「切れがないね。糸を掛けて3階に上るまで、先月と比べて2秒は遅い」
「……そんなに」
つばめに言われ、木乃花もショックの様子だった。
「突入口爆破から、ミッドフィルダー突入まではまあまあ許容範囲。新メンバーとやったにしては上出来。その辺の勘は鈍ってないけど基礎能力が……」
「ううう。3日トレーニングしないと取り戻すのに1ヶ月かかるとかいうもんね」
「まあ仕方ない。国防軍に木乃花が残ってくれただけでも良しとするさ。日本の対テロ部隊に『
「やめてその厨二病丸出しの2つ名! 絶対流行らないし、流行らせないから!」
木乃花は露骨に眉をひそめる。
「アトラク=ナクアって何です?」
継彦が聞くとつばめは嬉々として答える。
「クトゥルフ神話の神様の1柱だよ」
「ああ、厨二病ってそういうことですか……」
「格好いいと思うんだけどな。アナンシでもいいぞ。ちなみにアナンシは西アフリカの蜘蛛の神様でトリックスター」
「結局厨二病じゃん」
木乃花はビールを飲んで、ちょっとゲップをする。目は早くも据わっている。つばめはいかにも可笑しげに応える。
「
「2つ名そのものがいらないの!」
「格好いいのにー」
本当に木乃花とつばめは仲がいい。継彦も会話に加わる。
「ところで分遣隊の人とは仲良くやれそう?」
「みんなプロ中のプロだからね。私情は挟まないよ。だから安心」
木乃花は継彦を安心させるように言った。木乃花も話題を分遣隊に移す。
「それよりつばめちゃんの方こそ、これは! って人いなかった?」
「太田くんはかわいいけど、歳下過ぎるからナー」
「向坂さんは年下ダメですか?」
継彦が口を挟むと割と酔っているようだが、つばめは真面目な顔で答える。
「20代でも6つ差は結構来るものがあるぞ」
「地方公務員はどうですか? 職場の先輩が独身なんですよ。歳もそう変わらない」
「ああ、地方公務員。安定してていいねえ。でもこっちは転勤族だから、向こうとしてはどうなのかね。いいのかねえ」
などと会話が続く。その間も継彦の手は動いている。温野菜にはクリームチーズを乗せて粗挽き胡椒を振りかけ、完成。チキンのマヨネーズ焼きも完成。継彦はこれらのつまみに加えて白ご飯に生卵できちんと炭水化物もとる。
「継彦くん、お茶~~」
「仕方ないなあ」
継彦は自分の分も一緒にお湯を沸かし、緑茶を入れる。蜘蛛の下半身はカフェインでも酔えるので、アルコールを飲むより安上がりだ。どうせここは家だし、潰れてしまってもいいので、継彦的には木乃花を労いたかった。
熱いお茶を入れ、継彦と木乃花はすする。意味合いはだいぶ違うが。
つまみは3人で食べると小一時間できれいになくなり、木乃花とつばめはいい気分になっていた。あんまり遅いとなんだからと、継彦は軽ワゴンでつばめを送っていくことにする。つばめもどうやら飲み過ぎたらしく、早期撤退に同意した。
折りたたみ電動スクーターを車に積み、継彦とつばめは車上の人になる。国防軍基地の宿舎までは2.5キロほどしかない。車ならあっという間だ。
「すまないねえ、不知火くん……」
助手席のつばめが継彦に詫びた。
「いえいえ。これくらいは……」
「ううん。木乃花がこの辺りで生きていくのは大変なことだ……守ってやってくれよな……」
酔っているつばめは目を瞑ったまま、そう言った。つばめは何か継彦が知らない情報を掴んでいるのかもしれない。そうでなくても木乃花が言えないことをつばめには相談しているのかも、と思う。それでも継彦の気持ちは変わらない。
「向坂さんに言われるまでもないですよ。それが彼女と一緒に生きていくってことです」
軽ワゴンはすぐに国防軍基地の宿舎前に到着し、継彦は折りたたみ電動スクーターをおろして元の形に戻す。つばめはそれを受け取ると押して歩いて去って行く。
「ありがとう」
「また、来てくださいね」
つばめは振り返らずに継彦に手を振り、宿舎の門をくぐって敷地内に消えていった。
今のこの状況は国防軍が描いた青写真通りだろう。国防軍による自分と木乃花の監視は今も続いている。それでも新生活の中、木乃花を支えるには継彦の力だけでは足りなくなる日が来るだろう。そんなとき、近くにつばめがいてくれるのは心強い。
この生活に慣れるまでは、つばめには頻繁に飲みに来て貰いたいものだ。
そう、継彦は心から思ったのだった。
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