第10話 小さな侵入者
【蜘蛛の糸】
軽量でありながら強靭、かつしなやかな特徴を示すことから、構造材料への応用展開がバイオテクノロジーの発達により、現実化している。強度は鉄にも匹敵する。
お昼ご飯のあと、木乃花は1人で買い物に出かける。
継彦はついていくと言ったが、木乃花は自分で道を覚えないと、と言って断った。木乃花自身は車を運転できないため、少なくとも駅までの道を覚えて1人で買い物くらいはできるようになる必要があった。木乃花にとっては全く知らない土地だ。歩くだけでも楽しい。
田んぼの中の1本道を数百メートル歩くと、なんとなく住宅街っぽくなる。道路に面した部分だけ埋め立てて住宅にしたような場所だ。それからまた数百メートルいくと普通の住宅街になり、巌根駅前を通り過ぎるとコンビニもある。
コンビニを過ぎるとT字路になり、左に行くと国防軍基地、右に行くとスーパーがある。こうして歩くとそんな距離はない。あの防風林に囲まれた集落があることが不思議になるくらい、意外に人口が多い地域なのだ。
だからこそ、大型キメラを見る機会はこの近辺では多くない。木乃花が1人で歩いていると、通行人に奇異な目で見られる。やはり蜘蛛の脚が恐ろしいのだろう。なるべくかわいく見えるようにブーツを履いて、更にタイツも履いているのだが、異形はそれでは隠せない。
さて。このスーパーは昨日に続いて2回目になる。2回目になると駐車場の警備員さんも驚かない。上半身だけを見るようにしているのが露骨に分かる。今は春なのでまだおっぱいが目立たないゆったりした服を着ているのだが、もっと温かくなったらきっとおっぱいを見ているのだと思おう、といつも木乃花は考えている。その方が気楽だから。
スーパーの前の道路は車通りは多いが、路側帯は狭い。歩道といえるほどの幅ではない。そのため、木乃花はかなり気を付けながら歩く。
やっとスーパーの入り口に到着する。何を買うのかは全く考えていない。しかし昨日の今日で足りなさそうな野菜は見当がついている。もやしと葉物野菜、納豆を買うことにする。木乃花は自炊の経験がほとんどないが、売り場に並んでいるものを見て、なんとなく思いついた料理に挑戦して、継彦に食べて貰いたいと考えていた。
野菜売り場を経て、精肉売り場へ。その次は鮮魚コーナーで、ようやく更にその次に納豆と豆腐のコーナーにたどり着く。
気のせいか、昨日より通路に置いてあるワゴンが減っているように思われた。店員さんが木乃花の様子を遠くで窺っている。経営努力で新しい客を掴むのはごく当たり前のことだ。ワゴンが減れば、見栄えがよくなるし、当然、車椅子の人も通りやすくなる。お店の心遣いと思いたいのだが、本当はそうでない可能性の方が高いなあと木乃花は思う。つばめは過保護なのだ。実際のところはわからないけれど、木乃花は今後もこの店を使おうと思う。昨日のかき揚げは美味しかった。今日の特売はトンカツだった。昨日、かき揚げをそうしたように、今度はトンカツをコンベクションオーブンで温めてみたくなり、買い物かごに入れる。
レジに並び、カードで支払う。レジの人も今度は木乃花が並んでも驚かない。こっちが驚いてしまう適応力だ。エコバッグに買ったものを詰めて、木乃花はまた歩いて帰路につく。
今頃、継彦は押し入れ収納を進めているところだろう。衣料品は木乃花の方が多いのだから、早く帰って手伝いたい。
片道1.5キロ、往復3キロは軍にいた頃ならウオーミングアップにもならないが、強制されて往く道ではない。それだけで楽しい。
ヒバリの高らかな鳴き声が聞こえる。休耕田の草地にいるらしい。姿は見えない。しかし、そこにいるのがわかる。春を呼び、青空を仰いでいるのだろう。自由に生きる野鳥を羨ましく思っていた頃もあった。しかし今は、そこまでは思わずに済んでいる。継彦と一緒にいられるからだ。
住宅街を抜け、水田の中の一本道を歩く。行く手には防風林のこんもりと生い茂る緑が見える。その中に木乃花たちの新居がある集落がある。
水田を抜け、生け垣の垣根がある集落の中に入ると、木乃花は否が応でも緊張してしまう。昨日挨拶を済ませたが、この集落の住人が自分をどう思っているのか想像がつく。庭に侵入した住人がいるのが、快く受け入れる気がない証拠だ。
木乃花は常人の目には見えない糸を再び放出する。この糸は何かに触れれば振動で木乃花にそれが何かを教えてくれる第二の触覚のようなものだ。風向きからいって自分が歩いてきた方向に糸が流れていく。
予感は当たった。
誰かが糸に触れた。
尾行しているとも考えられたが。木乃花は振り返らない。集落の住人がただ単に歩いているだけかもしれないからだ。しかしそんな楽観的な木乃花の考えはすぐに覆されてしまった。
「痛っ!」
木乃花の蜘蛛の胴体部のお尻に何かが投げつけられた。驚いて振り返ると投げつけた主が逃げていくところだった。小さな背中だった。おそらく小学校低学年だろう。男の子だ。集落の中の細い道は緩いカーブを描いているので、その男の子の姿はすぐに見えなくなったが、糸の結界の圏内なので、どこに逃げ帰ったのか、木乃花には文字通り手に取るように分かる。
あの、区長さんのお宅だ。そういえば子どもがいると奥さんは言っていた。怖がるとか言っていたくせにとんでもない悪ガキではないか。彼が木乃花に投げつけたのはほんの小石だった。しかし小石だろうと当たり所が悪ければ怪我をするし、もちろん痛い。そう。投げられた側は痛い思いをするのだ。そのことをあの子は知っているのだろうか。木乃花は憤ると同時に悲しくなった。小石を投げつけられたことを悲しんだのではない。他人の痛みを感じる想像力があの男の子に欠如していることが悲しかった。なにも異形の存在である自分を、無条件に受け入れろとまでは言えない。しかし他者の痛みを知らない大人にはなってほしくない。
思い返してみると不在時に切られた糸は、低いところに張った糸だった。あれはあの子が通った後だったのかと木乃花は思い至る。何が彼をそうさせたのかはわからないが、1度起きたことは2度起きるものだ。原因を突き止めなければ、たとえ現行犯で捕まえて注意したところで、同じことが繰り返されるだろう。
どうするのがベストなのか木乃花には分からない。
1人で悩んでいるともっと悲しくなってくるので、そのまま足早に帰宅すると、縁側で荷物を整理している継彦が目に入った。継彦は持ってきた本を手にして、じっとそれを見て動かなかった。そしてしばらくしてから木乃花が帰ってきたことに気付き、面を上げた。
「おかえり。迷子にならずに帰ってこられたね」
「曲がるところは2カ所しかないから、いくら私でも迷子にならないよ」
木乃花は苦笑し、ブーツを器用に一対ずつ脱いで縁側にあがる。
「懐かしい。手が止まるわけだ」
継彦が手にしている本を見て、木乃花は声を上げる。それはまだ幼いとき、2人で一緒に読んだ児童用の鳥の図鑑だった。継彦が鳥に興味を持って一緒に読んでくれたのが懐かしい。それと同時に、こうして今、一緒にいる継彦とだっていろいろあったことを思い出し、木乃花は気持ちを整理する。
小さな子どもは、身体の成長とともに『自分』が広がっていく中で、他者との違いに気付きく。そしてそれらとぶつかることはごく自然なことだ。自分の小さな世界に入り込んできた異形がその場所を乱せば、反発する気持ちは当然に生じるだろう。
自分の世界を守りつつ、広げ、適宜『他者』という世界ともコンタクトをとり、上手く修正し続けなければ、真の成長はないと木乃花は思う。逃げてもダメだし、ぶつかるだけでもダメだ。他の世界と折り合いを付けられるようになること。それが本当の意味で大人になることだ。多くの大人は、自分が築いた世界が、本当の世界のごく一部であることを知っても、自分の世界を維持するだけで、適切に修正しようとしなくなる。幸か不幸か、あの子は異形である木乃花を知った。あの子には自分の世界を修正できない大人になって欲しくはない。
己が異形のマイノリティであるからそう思うのか――とエゴを感じないわけではない。しかしそうであることで人はよりよい自分の未来を築けると木乃花は信じる。
あのチラリとだけ目にした男の子が、この先、どんな風に『他者』と関わり合い、自分を成長させていくのか、木乃花の存在はそれなりに大きいはずだと思う。
自分の対応で、あの子の世界は変わるに違いない。だから、慎重に対応を見極めていこう。
小石をぶつけられたところは、もう痛くもなんともない。
痛いのは心だ。
彼にその痛みを共有して貰いたい、と木乃花は心から思った。
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