第5話 試練のご近所挨拶

【レトロウイルス】

 細胞に侵入した後に自らのDNAの複製を作るウイルス類の総称。




 用意していた引っ越し挨拶用に買っておいたタオルは、引っ越し荷物の山の中でも、すぐに見つかってしまった。心を決めたとはいえ、予想される投げつけられる言葉を思うと、木乃花は鬱になる。それをわかっている継彦は木乃花の頭をポンポンと叩いた。


「僕がいるんだからさ。どんなことを言われても半分こしよう」


 木乃花は小さく頷いた。その言葉にこれまでどれだけ元気づけられたか分からない。心がほんわり温かくなるのがわかる。やっぱり継彦が好きなんだなあと木乃花は思う。


 うん。


「あ、でもでも、初対面の印象が大切だから、髪を直してくる。少しでもかわいいって思われないと!」


「ご挨拶はかわいい系よりしっかりデキる系がいいと思う」


「それ、分からないからかわいい系で」


 木乃花は洗面台に行き、鏡で髪型を確認し、ブラシも入れる。やはりというか長距離ドライブの後ではやや乱れ気味だった。スーパーに行ったのはギリだとしても、ご挨拶には向かない。ブラシを入れ終え、髪飾りを付け直し、戦闘準備完了だ。


「よし。行こうか、継彦くん」


 継彦は大きく深呼吸して応えた。


「よし、行くぞ」


 自分が怪物扱いされて心ない言葉を投げつけられてもそれは耐える。百歩譲って自分はいいとしても夫の継彦も傷つくだろう。それは辛いが。


 継彦は玄関に腰掛けて慎重に靴を履き、木乃花は手と蜘蛛の前脚の一対を使って器用に靴を履く。蜘蛛の方の前脚は木乃花の第二の腕と言っても過言ではないほどの器用な動きができ、そしてそのための訓練もしていた。


 継彦がタオルが入った紙袋を持ち、いざ、お隣の家に向かう。お隣の家も木乃花たちの家と同じような半農を意図して作られたお宅だった。


 平日の昼下がりなのでこの集落のお家でどのくらい在宅しているか分からなかったが、少なくともお隣のお宅は掃き出し窓の網戸からテレビの音声が聞こえてきていたので、在宅のようだった。継彦が呼び鈴を押し、玄関の引き戸が開く前にどちら様ですかと誰何される。


「お隣に越してきた不知火と申します。ご挨拶に参りました」


 継彦がそう言うと、玄関の引き戸が開く。木乃花は精いっぱいのスマイルを作る。


「まあ、それはご丁寧に……」


 主婦らしき中年女性が顔を出した。まず、継彦の顔を見て、次に木乃花の顔を見る。


「あら、お若い……」


 そして木乃花の下半身に目が向くと表情が凍り付く。


「いろいろ分からないことがあるかと思いますが、ご指導をお願いいたします」


 継彦はタオルを手渡し、お隣の奥さんは手早く受け取った。


「そうなんですのね。はい。なにかありましたら、どうぞ。区長さんが教えてくれると思いますよ」


 木乃花には見慣れた表情だ。蜘蛛の外骨格に拒否反応を起こす人は多い。特に脚の関節だ。見るのも恐ろしいという様子で、お隣の奥さんは目をそらし、継彦と木乃花を見比べた。


「……まさか学生さん?」


「この春から市役所勤めです」


「そう。それはそれは。市役所だと知られたら、なんやかんややらされるから言わない方がいいわよ」


「……ありがとうございます」


「……奥さん、かわいらしいわね」


 そういうと隣の奥さんは表情を少しだけ緩めた。


「いえ、そんな……」


 こんな反応があるとは夢にも思っていなかった木乃花は素直に照れた。


「いろいろあるかと思うけど、がんばってね」


「はい」


 2人はお辞儀し、引き戸は閉まった。


 敷地を出てから継彦は言った。


「思ったより悪くない反応だった」


「キメラ差別は法律違反だって、分かっている人は分かっているから」


 キメラ差別解消法が施行されて10年。徐々に市政の人々に浸透しつつあることは確かだ。しかしまだ偏見と差別は根強い。


 人類はキメラを人類でないもの――異物として認識する。それは生物として正しいことだ。それでも、ほとんど全ての人が水平伝播レトロウイルスの影響を受けている今、新しい人類像を否定することは人類を否定することにもなる。しかしその新しい人類像は社会が理想として描けても、個々の人々が受け入れられるほど小さな差異ではない。


 ご挨拶回りはようやく1軒終わっただけだ。この集落には12軒ものお宅がある。また次にチャレンジしなければならない。


 お隣の奥さんの反応はやはりいい方で、タオルを受け取るとぴしゃりと扉を閉める家が何軒か。ご不在の家が何軒か。わかってはいたが、閉鎖的な集落に大型キメラが、しかも虫型キメラが住むのは難しいようだ。木乃花はため息をつく。


 これから最後に区長さんの家に行くのだが、やはり鬱だ。しかし継彦は楽観的に言う。


「これでここの噂になることは間違いないな」


「なんて言われるかな」


「奥さんが若くて可愛いって」


 継彦が自分を元気づけるために言っているのだと木乃花には痛いほど分かる。継彦は新卒社会人で、木乃花は国防軍の訓練施設で2年、実働部隊で2年働いて、今度は非常勤のような特殊な勤務形態になる、同い歳で22歳の新婚夫婦だ。晩婚化と早婚化の2局化が進んでいる今、珍しい夫婦像だとは思う。


「私、可愛くてよかった!」


 少しでも大型キメラのネガティブさが打ち消されればと思う。


「うーん。絶対条件じゃないけど、確かにかわいくてよかった」


「奥さんがかわいい方がいいんじゃない?」


「じゃあダンナもイケメンじゃないと、って話になるからパスかなあ」


 継彦がイケメンかというと決してそうは言えないので、それは確かにと木乃花は頷く。


「でも継彦くんのいいところは顔じゃないから」


「このはちゃんのいいところが顔だけじゃないことを、みなさんが知ってくれればなあ」


「かわいいのもいいところだ」


「だからそう言ってるじゃん」


 狭い市道を歩いて行くと前から中型トラックがやってきた。継彦だけならば脇によければ通れるくらいの広さだが、木乃花は蜘蛛の脚が通行の邪魔になる。脚をひかれたら一大事だ。木乃花はさっとジャンプして、民家のブロック塀の上に乗り、中型トラックを避ける。中型トラックの運転手はマジ驚いたという顔をしたが、得意げな笑顔を浮かべている木乃花と目が合うと、運転手も笑顔で小さく敬礼して、中型トラックはすれ違っていった。


「かわいいから得した」


「今のはそう思う」


 継彦は大きく頷いた。


 さて、最後にしていた区長さんの家の前に着いてしまった。なぜ区長さんかわかるかというと入り口の門にこのの町会の「9区長」のプレートが掲げられているからである。


「よろしくやりたいねえ」


「いや、本当にそうね」


 小さな集落に来たからには集団清掃や草刈りなどの共同作業はどうしても避けられない。町会の人とはうまくやりたいものだ。


 継彦が玄関のカメラ付きインターホンのボタンを押すと、インターホンから誰何の声がして、継彦は自己紹介をした。


『お待ちください』


 冷たい感じの女性の声だった。


 ちょっと待っている間に敷地内の観察をする。母屋は2階建て。結構新しい。平屋が多い中、珍しいことだ。納戸兼農耕車両を収めた倉庫が1棟。庭にはペダルとクランクがない幼児用の自転車、ストライダーと三輪車があるので、子どもがいるらしいことも分かった。


 引き戸が開くと、30代らしき神経質そうな女性が出てきて、継彦を嘗め回すように見た後は、木乃花を見て露骨に目を背けた。


 タオルを渡すと引き換えにするようにA4の紙とボールペンを継彦に渡した。


「はい、町会の加入書類。あとゴミ置き場の説明もつけてあります。ゴミ置き場の掃除には参加してください。回覧板は早急に回すようにお願いします」


 事務的に、そして矢継ぎ早に区長宅の奥さんは言った。継彦が町会加入の書類にサインすると、彼女はそれを奪うようにして受け取った。


「うちには子どもがいるんです。奥さんは夜とか外に出ないようにしてください。子どもが怖がりますから。夜でなくても悲鳴を上げるかもしれませんがね。8本脚だなんて、見るからに恐ろしい」


 そう言うと中に入り、引き戸を音を立てて閉め、姿を消した。


 彼女に聞こえているのか分からなくても継彦は言った。


「このはちゃんが8本脚なら、僕は1本脚なんですよ……」


 冷静な言葉だったが、いかにも憤慨している様子がわかり、少しだけ木乃花は落ち着く。そのお陰で木乃花は継彦に話しかけるのを敷地から出るまでどうにかこうにかガマンができ、市道に出るなり口火を切った。


「ムカつく!」


「ムカついて良し」


「人権侵害通報案件だ」


「間違いないね。でも、ここで通報してご近所関係をこじらせるのはよくない」


「自分ルール優先で法律を無視する人はどこにでもいるよね!」


「セクハラパワハラオヤジと同じだ。でもさ、ムカつくって言ってくれて、正直、ホッとしてるよ」


 継彦の意外な言葉に木乃花は怒りのボルテージが下がるのが分かった。


「どうして?」


「あんな言葉で落ち込んだら、連れ出した僕が悪かったのかと思っちゃうから」


「なるほど……」


 落ち込まなくてよかったと木乃花は思う。


 新居での生活にあたってちょっとだけ不安要素になった区長宅の奥さんだったが、今日のところはこの程度で済んだ。木乃花はそれで良しとする。継彦が言う。


「ご不在だったお宅は夜にご挨拶に行こうね」


「うん」


 心ない言葉など無視するに限る。


「さあ、荷ほどきして整理を再開するよ」


「うん」


 さすが私の旦那様。心強い。


 継彦の凜々しい横顔を見て、惚れ直す木乃花だった。

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