第4話 若夫婦のゆったりした昼食
【書肺】
クモ類特有の呼吸器官。腹部下面前方にあり、切断面が本のようなところから名付けられている。体表を変化させて酸素を取り入れており、脊椎動物の肺とは起源が異なる。
木乃花には料理の経験がほとんどない。なので料理はとりあえず継彦の役目であることは2人で決めていた。継彦は、自炊経験がない木乃花に対し、徐々に料理を覚えてくれればいいよ、と言ってくれていた。継彦にとって料理は単なる家事ではなく楽しみのようだ。ありがたい。
木乃花と継彦は新居に戻ると、西側の広い和室に積んである、まだ荷ほどきしていない段ボールの山から調理器具を探すことから始める。まずは鍋とフライパンの類いを探さないとならない。継彦はそういうところはしっかりしており、段ボールの側面と上のところに、だいたいの中身をマジックペンで書いてあった。
さすが継彦くんだなあ、私の旦那様。
木乃花は感心しきりだ。そう考えるだけでえへへと自然と照れてくる。
少ししてそれっぽいのが書かれた段ボールを見つけ、木乃花は声を上げた。
「コンベクションオーブンだってー! 開ける?」
「おお。それはビンゴ。台所に持っていって。かき揚げを温めるのに使おう」
「そおなんだ?」
木乃花はコンベクションオーブンと書かれている大きな段ボールをひょいと持ち上げる。
「重いから呼吸を意識してね」
「これくらいはぜんぜん大丈夫!」
「酸欠にならないようにね」
継彦は心配性だ。大型キメラだけあって、木乃花の細い腕でも重いものを持ち上げられるのだが、人間の上半身にある肺だけで大きな蜘蛛の下半身の分まで酸素をまかえるかといえば、心許なく、運動中に酸欠になることもよくある。しかしアラクネの場合、書肺や気門などの蜘蛛由来の呼吸器官があるので意識して使う訓練をすれば、他の大型キメラ――たとえばラミアなどと比べるとだいぶマシだ。これくらいの荷物は安心して任されたい。
慎重に段ボールを両手で持ち、肺で大きく呼吸し、書肺と気門もフル稼働させて、酸素を取り入れながら、台所にいく。台所の中央には見慣れたキャンプ用のテーブルがもう置かれている。木乃花は梱包を解き、流しの出窓のところにコンベクションオーブンを設置し、コンセントも挿す。
やった。一仕事完了だ。
継彦の役に立てたかと思うと木乃花は素直に嬉しい。
続いて継彦が調味料と調理道具が入った段ボールと鍋を持ってきた。
「これでどうにかお昼ご飯、食べられそう」
「夫婦箸持ってくる!」
「まだ早いよ」
そう言われても木乃花は準備したいものは準備したいのだ。和室に戻り、車で持ってきた荷物の中から御殿場で買っておいた夫婦箸の梱包を見つけ、木乃花は急いで台所に戻る。
「見つけたー!」
そして夫婦橋の梱包を流し台の前に立つ継彦にかざす。
「じゃあ、開けてくれる? 洗うから」
「うん!」
梱包を剥ぎ、ゴミを折りたたみテーブルの上に投げ、木乃花は継彦に2膳の箸を手渡す。赤と蒼の漆塗りの夫婦箸だ。継彦はそれを水で洗い、段ボールから出したばかりのガラスのコップに挿し、流し台の出窓に置く。
箸に残った水滴がガラスのコップまで伝って落ち、春の日差しに輝いた。
きれいだな、と木乃花は思う。
「このはちゃん、ゴミをそのままにしちゃだめだよ」
「了解っ!」
エコバッグの中から買ってきた分別のゴミ袋を取り出し、空いた段ボールにプラごみと燃えるゴミの袋をかけ、ガムテープで固定する。
「ホームセンターでいいゴミ箱を探さないとね」
「だネだネ」
新しいゴミ箱を継彦と一緒に買いに行くのも楽しみだ。
「このはちゃん、かき揚げをコンベクションオーブンに入れて。200度で5分」
「任された」
木乃花は買ってきたかき揚げ2つをコンベクションオーブンに入れ、温度設定つまみを200度に、タイマーを5分にセットし、加熱調理が始まる。普通のオーブンと違い、ファンで熱対流を起こすのでむら無く焼けるので揚げ物は美味しく再加熱できる。
鍋のお湯が沸き、継彦は生そばを茹で始める。ヤカンで別にお湯も作る。その後ろ姿を木乃花はニヤニヤしながら見る。継彦は決してイケメンではなく、どちらかといえばモブ顔だが、木乃花にとってはいい男だ。好ましい異性が魅力的に見えるというのはきっと遺伝子の相性がいいのだと思う。
「あ! まずい!」
「どうしたの継彦くん!?」
「ざるがない! 器もない! 僕のバカ!」
「しょうがない、探すか……」
継彦には抜けているところもあるが、だからこそ木乃花は安心できる。木乃花は和室に戻って「食器」と書かれた段ボールを早速見つけ出す。居間に戻ると継彦は鍋の蓋をずらしてお湯を捨てていた。緊急時だ。しかたがない。木乃花は段ボールの中から適当な大きさの器を見つけ、新聞紙を剥ぐ。新聞紙はあとで伸ばして古紙回収に回す。
継彦が器を受け取り、洗い、水気を切り、調理台の上に並べる。そして鍋のそばをお箸で分ける。お湯を注ぎ、しょう油を適当に味を見ながら入れる。継彦はこれくらいかなという顔をして、どばっと鰹節を投入する。
そして忘れてたとばかりに長ネギを手際よく小口切りにする。そばが伸びるほどの間ではなく、2人は「セーフ」と安堵する。
最後にコンベクションオーブンからかき揚げを取り出して載せて完成だ。木乃花は夫婦箸を手にして、継彦に手渡す。継彦は頷いて受け取り、声を上げる。
「新居最初のお昼ご飯だ!」
「ふふ。カップ麺よりは充実したね」
2人は折りたたみテーブルを挟んで座る。継彦はアウトドア用の折りたたみ背もたれ付きの椅子で、木乃花は同じく折りたたみだが背もたれのない
2人でいただきますをして、かき揚げそばを食べ始める。
「温かいおそば、それだけでイイです!」
「そうか。このはちゃんにとっては温かいだけでごちそうか……」
継彦の目は優しい。
「かき揚げもすごく美味しい。当たりだね」
小口に切った薬味のネギのお陰で七味がなくてもアクセントがあって食べられる。
「うん。他の揚げ物も試してみたいね。そうそう食べられないけど」
「カロリー的に?」
「カロリー的に。特にこのはちゃんは日々の訓練がなくなったから、今までの量は食べられないんだよ。胃を小さくしないとね」
「うう。大食いだと思われてる。実際、そうだけど……」
これまでは施設でほぼ毎日、激しい訓練があった。だからカロリー消費が多く、食事の量も多く、今でも引き締まった身体をしている。
「新しい生活で、近々この割れた腹筋ともお別れかもしれない」
「このはちゃんの割れた腹筋、好きなんだけど」
「そういうならまずは自分の腹筋を割ろうよ!」
そう木乃花が言うと継彦は得意げに返す。
「うっすら見えてきたよ」
「くう。差が縮められつつある。じゃあ今夜確認するか」
「お手柔らかにね」
この家の体力担当としては木乃花は継彦に負けていられないと思う。
2人でかき揚げそばを美味しく食べた後は洗い物だ。しかしまだ水切りかごを見つけていないので、器は作業台の上で乾かす。洗い物が終わると継彦が言った。
「さて、午後の作業だけど……」
「開梱作業?」
「ご近所に挨拶に行こう。ご挨拶用のタオルもどこかにあるはずなんだけど……」
「探そう、探そう」
ご近所への挨拶は気が重いが狭い集落だ。絶対に挨拶に行かなければならない。継彦だけだったら何の問題もないだろう。しかし自分は一般人から見ればモンスターである。そのことはこれまでの人生でよく分かっている木乃花だ。
それでも継彦と一緒に生きることを決めた。だから、これも越えなければならないハードルの1つなのだとよく分かっている。木乃花は両の拳をぎゅっと握りしめ、覚悟を決める。
どんな目で見られても、どんな言葉を投げかけられても、諦めたりしない。
木乃花はここで継彦と一緒に生きていくことを決めたのだから。
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