第1話 新婚生活、始めます!

【大型キメラ】

 レトルウイルスにより人類に混入した遺伝子が発現した『キメラ』のうち、大型で日常生活に支障を来す症例を示す。100年を経てようやく、国や多くの地方自治体の支援制度が整いつつある。



 

 不知火継彦しらぬい つぎひこは軽の白いワンボックスワゴンのハンドルを握りながら、バックミラーを見る。ミラーの中には後部シートにうつ伏せている新妻、木乃花このはが映っている。


 疲れているのだろう。御殿場から朝早く出てきたこともある。蜘蛛の下半身のお腹を大きく、穏やかに上下させ、2つの目の瞼を閉じてよく眠っている。出てくるときは東京湾横断道路の光景を見るのを楽しみにしていた木乃花だ。目を覚ましたら、どうして起こしてくれなかったのかと詰るに違いない。


 車窓の外は正面に延びる高速道路以外は一面の海原の光景が広がっている。穏やかな東京湾の海面。白い、たなびく雲。確かに素晴らしい眺めだ。


 バックミラーに目を戻すと木乃花の肩まで掛かるふわふわした栗色の髪が、少し開けた車窓の隙間から吹き込む春風で揺れている。顔だけ見るとかわいい木乃花だが、起きているときは我が強く、自己主張も激しい。それも含めて木乃花だ。継彦の大事な若奥さまである。


 木乃花は一般的にはアラクネと呼ばれる、上半身が人間で下半身が蜘蛛の胴体の大型キメラだ。木乃花の場合、軽ワゴンでは後部シートを完全に倒してクッションで養生しないと乗っていられない。そのため荷物があまり載らないので、そのうち中古でいいからハイエースにすべきかと継彦は考えるが、新居の前の市道は狭い。初心者ドライバーの継彦がハイエースの取り回しができるとは思えなかった。やはり多少不便でもしばらく軽ワゴンでやっていくしかなさそうだ。


 正面の案内表示に『袖ケ浦 木更津市街 出口500m』の文字が現れた。単調な高速道路でのドライブもようやく終わりだ。しかしここで気を抜いて事故を起こしては何にもならない。継彦は気を引き締め、眠気覚ましのブラックガムを口の中に放り込む。


「このはちゃん。もうすぐ到着だよ」


 継彦は後ろの木乃花に声を掛ける。木乃花は何度か小さく唸った後、瞼を開けた。瞼が無く、視力があまり無い、額に並んでいる2対の蜘蛛の目もキョロキョロしている。


「わわ! つい寝ちゃったあ!」


 瞼をぱちくりさせたあと、木乃花は辺りを見回し、正面に見えてきた袖ケ浦料金所の表示を見て、大いに嘆いた。


「すっかり寝過ごしてしまった~~! 起こしてくれればよかったのに!」


「あんまり気持ちよさそうに寝ていたものだから……」


「海の上を走るのを楽しみにしてたのに!」


 バックミラーの中の木乃花は本当に悔しそうな表情を浮かべている。以前、何度か通ったことがあったらしいが、装甲兵員輸送車ACPの中だったので、海上の風景を眺めることはできなかったと彼女は言っていた。


「また通る機会はあるよ。何しろ、新居は直近なんだから」


「神奈川に用事なんてできるかな?」


「みなとみらいとか新港の赤レンガ倉庫とか、遊びに行こうよ」


 それを聞くと木乃花は思い直したように明るく頷いた。


「そうだね。中華街も行きたいね!」


 新生活に夢を馳せるのは、継彦も木乃花も同じだ。長い間、一緒にいることが適わなかった2人がようやく新しい場所で暮らし始めるのだから、少しくらいそういう部分があっていいはずだと継彦は思う。たぶん、そう簡単にはいかないのだろうけれど。


 軽ワゴンは袖ケ浦料金所を過ぎ、一般道に降りた。国道16号線に出てからUターンして側道に入る。側道を少し進み、細い道を降りて田んぼの中を通って、小さな昔からある集落の中に入る。その集落の中に継彦と木乃花の新居がある。なお、最寄りの駅は巌根という、鉄道ファンの中では内房線快速が唯一止まらない駅として知られている駅だ。ホームが短く、快速電車の11両編成を停められないらしい。


 新居はその巌根駅から距離1・5キロ弱。歩いて20分強かかる、微妙に遠くて不便な場所である。しかし大型キメラである木乃花が住めるような広さに余裕がある家屋を若い夫婦が購入するとしたらこんな場所しか――いや、大型キメラが住むにしてはかなり便利な場所だ。


 軽ワゴンは、防風林に沿った道を徐行して進む。袖ケ浦料金所を降りてから5分ほどで新居に到着する。広い庭に軽のパネルトラックがもう停まっているのが見えた。


「わあ! もう引っ越し屋さんが着いているね!」


 木乃花は大きな声を上げ、継彦が応える。


「ありがたい」


 作業員は荷台に満載していた荷物を家屋の中に運び込み始めていた。


「おそーい!」


 運び込みを監督していたスーツ姿の若い女性が、軽ワゴンまで歩いてきた。ショートカットで化粧っ気もないが、なかなかの美人さんだ。


「つばめちゃん! ありがとう! あ、ごめん」


 つばめ――向坂さきさかつばめは、後部座席から降りてきた木乃花を手を広げて出迎えた。


「いやいや。もう除隊したようなものなんだから、今日からはつばめちゃんでいいんだよ」


「やったー! じゃあもう一度呼んじゃおう! つばめちゃん!」


「はいはい。木乃花はいつにも増して甘えん坊だねえ」


 つばめと木乃花は軽くハグをした。


「えへへへへー」


「向坂さん、ありがとうございます」


 軽ワゴンから継彦も降り、2人の前に立つ。


「不知火くん。木乃花をよろしく頼むね」


「それはもちろん……」


 木乃花はハグをやめ、継彦に寄り添い、手を握る。


「これからは2人一緒ですから」


 木乃花がそう言い切ると、つばめは巨大なため息をついた。


「はああああ。まさか木乃花に先を越されるとは」


「つばめちゃん、結婚願望強めだもんね」


「向坂さんの職場は、男職場でエリートばっかりいるんだから、向坂さんほどの美人ならよりどりみどりだと思うんだけどなー」


 継彦がそう言うと、つばめはキッ、と目をつり上げた。


「エリートが男としてしっかりしているかどうかはまた別の問題だ!」


 なるほどー、と木乃花と継彦は大きく頷く。つばめは胸を張る。


「とはいえ、この春からは新職場。いい男がいることを期待する。それに私の異動先が新居の近くでよかったよ」


 偶然ね……よく言うな、と継彦は思う。つばめの意思ではないだろうが、自分たちに監視を付けておこうということなのだろう。それであっても木乃花とつばめの良好な関係を思えば、近くにいてくれるのは助かる。閉鎖的な、こんなそこそこ田舎の集落で大型キメラが暮らすとなるとご近所と問題が生じやすい。継彦と木乃花は心しなければならなかった。

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