産声
妊婦と呼ばれるようになってから、やけに体調が悪い。吐き気や眩暈、腹痛や頭痛、胸の痛みに手足の痺れといった症状が目白押しになった。
周りの経験者にそのことを伝えるが、少し酷いだけでそんなものだ、すぐに慣れてくるよと言う言葉を頂くだけで、直接的な解決方法と言えば、決まって病院で診てもらったらいいのではということだけだった。
そうして掛かりつけの病院に向かったのだが、先生から母子ともに異常なしとの診断が下された。
それでも体調が悪いことを伝えると、それではお薬を出しておきますねと言われるだけで、ろくに相手などされなかった。
妊婦の体調不良など、よくあることなのだろうか。皆こんなにも辛いことを経験して、出産に臨んでいるのだろうか。そう思うと、途端に弱気になって来た。眩暈が強くなった気がして、近くを通った看護師に許可をもらって院内の長椅子で横になっていると、一人の老婆が近づいて来た。
「お嬢さん、大丈夫かい」
お嬢さんと呼ばれるにはもう少し年齢が上だと思うが、周りには私以外にはいない。横になったままでは悪いかなと思い、起き上がろうとしたところを、皺だらけの手で制される。
「これはすいません。体調が悪くて、休ませてもらっているんです」
老婆は私のお腹のふくらみを見て、何度か頷いた。
「ええ、ええ、そうでしょう。お腹にいるものねぇ」
確信めいた言葉に、私は苦笑いをした。
「このくらいのことで、お恥ずかしいです」
自逆風に言ったのだが、老婆は真剣な表情になった。そして、私のお腹付近を指差した。
「アンタ、呪われているよ。だから体調が悪いのさ」
呪われている?何を馬鹿なことを言っているのかと思ったが、謎の体調不良がそこに結びついている気がして、無視することが出来なかった。
「呪われている?お腹の赤ちゃんがですか?」
「いいや」
「では私ですか?どうして呪われているのですか」
「何故、誰にというのは、アンタに心当たりがあるんじゃないかね?呪われる理由、考えてみてごらんなさいな」
そう言い残し、老婆は病院を出て行った。この間、私たちの側に人はいなかったから、当然二人の会話を聞いていた人もいなかった。今のは体調不良で見えた幻なのだろうかと思うくらいに不思議な体験だった。
私も病院から出て、タクシーに乗る。自宅はアパートの二階だった。錆びた鉄製の階段の手すりに摑まり、一歩ずつ慎重に歩いて行く。
すると急に酸素が薄くなったみたいで、そこでもたちまち眩暈が訪れた。狭い階段のステップ上でしゃがみ、乱れた息を整えながらも、やっとのことで自宅の中に入ることが出来た。
そうしてカバンや荷物をその辺に置いたまま、布団の中で眠りについた。
夜、夫の帰宅で目が覚めた。声がして目を開けると、ドアの隙間から身を乗り出していた。
「いつまで寝ているんだ。早く飯の準備をしろ」
そう言って部屋から消えていくのを、これまでに何度も見たことがある。
体を起こして立ち上がろうとすると、赤ちゃんがお腹を蹴ってきた。
そういえばと、私は過去の記憶を遡った。赤ちゃんがお腹を蹴るのは、夫と話をしている時がほとんどだった。
同時に病院で会った老婆が言っていた、呪いという言葉が脳裏をかすめた。
まさかね、と私は邪推を振り払った。どうして私を呪うことがあるのか。私たちの結婚生活は上手く行っている。何も心配することは無いのだ。
お腹の子と血は繋がっていないけれど、彼は私たち二人を守ると約束してくれたのだから。
それからしばらくして、私は病院に運ばれた。突然陣痛がやってきて、予定日よりもかなり早い出産となった。
救急車に乗っている間、胸が急に苦しくなり、人口呼吸器や他の器具を取り付けられた。
けれど痛みは治まらず、呼吸をするのも難しく、救急隊の呼びかけも遠くに聞こえているだけで返事をすることは出来なかった。
けれどその中で、ハッキリと聞こえる声がした。
赤ちゃんの泣き声だった。
閉じていた目の奥で、暗闇の中一人座っている赤ちゃんの姿。後ろ向きで顔は見えないが、それが私の赤ちゃんだという確信があった。
生まれたのだろうか。
じゃあ、どうしてお腹は膨らんだままなの?
どうして胸が痛いの?
どうして君の顔が見えないの?
私の赤ちゃんに手を伸ばす。それに気づいたように泣き止み、こちらを振り向く小さな顔。
照明が当たったように浮き彫りになった表情に、私は息を飲んだ。
顔は腫れ上がり、血の涙を流し、胸や腹回りには痣が目立っている。
硬直して動けない私に向かって、指を差した。その指は赤く焼けただれている。
「死ね」
開いた口から、白い歯が数本抜け落ちた。
私は震えを止められなかった。何が起きているのか理解出来なかった。
自然的に、目の前にいるのは私の子供ではないのだと結論付けた。だから赤ちゃんを目の前にして、こんな嫌な気持ちになっているのだ。
私は後ずさりをして距離を取った。まるで熊を相手にしている気分だった。そうして距離を取り、振り返ると一目散に走った。
追いかけてくる様子はない。声も聞こえない。
次第に目の前が明るくなってきた。悪夢から目覚める光だと思った。
赤ちゃんの泣き声で、ハッとした。周りには多くの看護師が私を囲んでいて、その内の一人がお包みに包まれた赤ちゃんを抱いていた。
大きな鳴き声を上げ続けている赤ちゃんを、看護師は私に向けてきた。抱いて上げてということらしい。
私は受け取る瞬間、先程の赤ちゃんのことを思い出した。一瞬手を引っ込みかけ、看護師が不思議そうな顔をした。私は、何でもありませんと断ってから赤ちゃんを受け取った。恐る恐る顔を見るが、赤ら顔は自然なままで、おかしなところは何もない。あとは早産だったことだけが気掛かりだが、今は無事に生まれてきたことだけが嬉しかった。
私は、私の赤ちゃんの名前を呼んだ。
「ひめ」
漢字で書くと日夢となるその名前を呼んだとき、赤ちゃんの鳴き声が止んだ。
皆が一斉に赤ちゃんを見た。心配そうに看護師が駆け寄ってきたとき、赤ちゃんが想いを込めた目を私に向けた。
小さな口を動かし、そして”ひめ”と言った。間違いなく、自分の名前を口にしたのだ。
だって”ひめ”という言葉以外、この子は知るはずがない。
OKIBAKO 月峰 赤 @tukimine
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。OKIBAKOの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます