秋も深くなってきた、ある晩遅くだった。もうそろそろ夜が明ける、一番闇が深い頃、ソラが一人で留守番をする部屋へ、イズミがやってきた。ソラはそれを意外に思い、表情には出さなかったが、内心ではかなり驚いた。普段なら、もうそろそろユウが戻ってくる時間だ。もし戻ってこないとしたら、その場合はイズミとすごしている、そんな時間だ。なのに、そのイズミがこの部屋にいる。

 どうしたの、とは、訊けなかった。ユウとイズミの関係を問いただすようなまねをする権利はないと知っていたし、なによりイズミが青ざめていた。常より色の白い方ではあるけれど、その頬から完全に血の気が引いている。

 ソラはなんだか怖いような気になって、台所に逃げ込もうとした。スープを温めながら、少しひとりで落ち着きたいと思ったのだ。けれど、そんなソラの腕を、イズミが強く掴んだ。イズミの手は、驚くほど冷たかった。

 「……イズミさん?」

 その手を振り払うこともできずに、不本意ながら素直に引き留められたソラは、恐る恐る彼の名を呼んだ。イズミは、返事をしなかった。その目も、ソラを見ていない。焦点はソラに合っているのだけれど、どこか違うところに意識が向いている。

 「イズミさん!」

 ぞっと、血が冷えたような感じがした。ソラは、イズミの名を、今度は縋るように、悲鳴のように、呼んだ。するとイズミが、はっとしたように、ソラを見た。今度はきちんと、意識もソラに向けて。

 「……漢字の練習帳、何冊目まで行ったの。」

 ぼそりと、イズミが問うた。ソラは、唐突なその問いに虚を突かれたが、とにかくなにか言わねば、と、愚直に答えを口にした。

 「5冊。」

 そう、と、イズミが呟く。それは、自分の内面と示し合せるみたいに。

 「じゃあ、随分読み書きは、できるようになったわけね。」

 「……そうでもない、ですけど。」

 ソラは、イズミの表情を警戒心まみれに伺いながら、慎重に答えた。イズミはそんなソラの様子を見て、微かに口元を緩めた。それでも、視線は思いつめたままで、ソラは益々不安になる。

 「……ユウ、帰ってこないかも。」

 ふう、と、長い息をついた後、イズミがそう言った。ソラは、一瞬言葉の意味を取り損ね、首を傾げた。

 「え?」

 イズミはゆっくりと瞬きをしてから、同じ言葉を繰り返した。ユウ、帰ってこないかも。

 

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