何故文字を書き始めようと思ったのか
Jzbet
何故文字を書き始めようと思ったのか
初めに、この度はこのような物書きの皆様の末席を汚す私のお話を見てくださってありがとうございます。
次に、このような場を用意してくださった瑠栄様に感謝を。
これ以上に長々とした口上などは必要無いと思いますので是非本題をお話させてください。
私は昔から本が好きでした。それこそクラスに一人はいるような休み時間にも本を読むような本好きでした。
とは言っても世間一般の考えるような本好きで活字中毒な人とは違い、私が求めてやまなかったのは『本』ではありませんでした。
元を辿れば、それが始まったのは幼稚園に通っていた時でしょう。
五歳ほどの頃、私は酷い熱を出しました。インフルエンザだったか、マイコプラズマだったか。もう忘れてしまいました。
当然そんな高熱になれば幼稚園になど行けるはずもなく、家に閉じ込められておりました。他の兄弟はもちろん面倒を見てくれる母親も短時間でいなくなり、壁一枚向こう側には賑やかないつもの『家』があるというのに一人弾かれる。生まれて初めての孤独というものを味わっておりました。
けれども母親を留めておけば母親が自分と同じように苦しむ事になると幼いながらにわかっていたものですから、物分かりよく食事と着替え以外では大人しくしておりました。
そんな折に母親が食事の時間とも着替えの時間とも違う時間に隔離部屋へと尋ねてきました。そうして一冊の本を差し出して言うのです。『幼稚園の先生がいつも元気なのにここしばらく見えなくて心配だ、退屈だろうからこれでも読んで元気をだして欲しい』とこれをくだすった、と。
受け取った時、意味をよく理解できませんでした。
私は当然ながらその当時から大人の言う事など斜に構えて受け取るタイプのクソガキでしたので、何の目的があるのかと考えました。
そんなクソガキの相手に慣れている母親はお気楽そうな調子で、
お前の元気な姿を見たいだけだろうよ。感謝して読んでいなさい。治ったら元気に自分で感謝の言葉を伝えて差し上げなさいな。
とだけ言ってまた私を一人残して帰って行きました。
本当に意味が分かりませんでした。
当時は親の実家で諸々あり、人間に対して不信感しか抱いていなかった時期でしたので無償の善意などと言うものの存在を認めておらず、本当に意味が分かりませんでした。
だからずっと考えました。
一人っきりで持て余した時間すべてをその先生の行動原理が何だったのか、どうしてそんな行動をしたのか、何故他人の子である私に本をくれたのか。
熱で浮かされて幼く物事を考えるには足りない頭で考えました。
その当時は語彙力がなく言語化が出来ず、抽象的に結論を出しました。
その抽象的な結論に言葉という名詞を与えるのであれば、『私の常識外の完全なる異星人の思考回路だから』となります。
せっかく熱で苦しんでいる児童のためにと本をくださった優しい先生に対してなんてひどい結論を出したんだこのクソガキは、と今現在の私は苦笑いをする事しか出来ません。
ですがクソガキなりにも理論として破綻させないためにかそこから学び始めました。
まず始まったのがその先生に対する観察行為でした。
私は昔から『わからない』事を放っておける性質ではないのです。『わからない』ままにしておくことを私は許しませんでした。
だからおそらく先生が鬱陶しいと思うほどずっと見続けました。
そうしてある時、他の先生の行動も目に付くようになりました。
みんながみんな、私にない常識で動いているように見えたのです。
それに気付いてからは早かった。私以外の、当然家族も全てが全て別の『何か』なのです。私にはない常識を持っているのだと、私にはない考えで動いている事が有るとわかりました。
それは今となっては当然のことではあれど、当時の私にとっては世紀の大発見で他者と自分の違いを初めて鮮明に意識した時でした。
見ている世界が広がるとは、あの瞬間のあの感覚の事を言うのでしょう。
愕然としたまま貰った本を手繰り寄せて手に取って眺めました。
知らない事が沢山あり過ぎると恐怖すら覚えました。
ふとその本の作者の名前が目に入りました。
そのまま本をもって立ち上がり、親の本が置いてある部屋へと入り背表紙を順に眺めました。
背表紙には沢山の名前がありました。
一冊取り出して中を読んでみれば、それは貰った本とは全く違う物語でした。
難しい言葉も多く、すべては理解できませんでしたがそれだけでも私の知らない事です。
今だから言語化出来ますが、やはり当時は幼い五歳児でしたので思考として取りまとめることは出来ていませんでした。ですがその時思ったことのおかげで私は沢山の本を求めるようになりました。
『この名前の数だけ全く違う物語がある』
漠然とそういった内容の事を思っておりました。
それからずっとずっといろんなものを読み続けて、必要な語彙力が副産物として身に付いたおかげなのか、答えがわかりました。
物語とは人の結晶なのだと。
物語は感情の発露なのだと。
物語は人そのものなのだと。
そう私の中で結論が出ました。
その解が出た時点で私は酷く満足しました。
人生の中で長い事求めていた答えが見えた気がしたのです。
相変わらず抽象的で漠然とした結論ではあれど、私の中では納得がいったのです。
それからも本を読み続けました。
人の生み出し編み出した、その作品の作者の心の欠片を眺めて触れることが快楽だったからです。
知りもしない誰かの心を愛して味わって手に入れて。その全てが悦楽でした。
私の手元に沢山の人の心の欠片を少しずつ集めて本棚を埋めて完成される、人の心のパッチワークの虜でした。
もっと心を深く知るために心理学について学んだり、海外の作品に手を出したりもしました。
そうしてそのうち、私自身も文字を書くようになりました。
なにかを知れば知るほど、私の中で言葉が積もるのです。
かきたい、ではない。
かかなければいけない。
かかなければ息が詰まる。
ぐるぐるとずっと消化出来ないことばがでていかない。
だから書いては書いてはスマホのメモ帳に沢山言葉が死蔵されてゆきました。
二次創作も、良い発露の場でした。
pixivにもいくらか言葉を投げました。
そんな折に、一次創作ジャンルを知りました。
正確にはずっと知っていたけれど、それを行っている作者の動向を知りました。
知った時、あぁこんなのものか、と思いました。
当然落胆などではなく、やってはいけない事では全くなく、自由にやっていいものなのだと、そう思ったのです。
自由に書いてよいのだ。
自由に吐き出してよいのだ。
自由に見せてよいのだ。
それに感動すら覚え、一周回って冷静になりました。
そんなこんなで、私は文字を書くようになりました。
長い事私の中では言葉はメモ帳に放り込んでいくものだったので、外に己の言葉を流すことに抵抗がないと言えば噓になります。
ですが少しずつ、少しずつ言葉を、心を、これからも発露していけたらと、そう思います。
Jzbet Saphnaird
何故文字を書き始めようと思ったのか Jzbet @Jzbet
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