変化の色

まきりい

変化の色

 庭に流れてくる山水の貯水に、謎のスイカが冷やされてあった。

 小ぶりのスイカの表面には、毎回白の油性ペンで表情豊かな顔が描かれてある。

 ムンクの叫びのような悲劇的な顔や、バーコードおじさんの顔などが描かれてあるから、包丁を入れるのも躊躇われた。


 ここ最近、誰からなのかスイカの貢物をよくいただいていた。いつの間に山水の中に冷やされたのか不思議なぐらいに、スイカをくれる主の姿を見ることはなかった。


 うちの縁側からは豊かな自然が見渡せる。

 その美しい景色を見ていると、自分の存在が自然の一部に溶け込んでしまうような錯覚を起こすほどだ。

 私はいつも通りに縁側の定位置に座ると、大好物のスイカに齧り付いた。 


 口からプッ! っと種を飛ばしてみる。


 渾身の一撃だったはずが、昔出した最高記録ほどは遠くには飛ばなかった。

 それから2度3度とスイカの種飛ばしをしてみたが、小学生の頃の最高記録、石垣の向こう側への距離とはほど遠く、力なく種は目視出来る範囲に落ちた。


 そんなひとり遊びにもつまらなくなると、今度は空を流れる雲を見上げた。


 今日は晴れた暑い夏の日。


 世の中は稼働しているけれど、私は職を辞めていたので今日も休みだ。この先どこかに再就職をする予定もないから、動かない限り休みは続く。


「みさきねえ! イイもん見せてあげる!」

 

 近所の幼なじみの妹が、石垣の隅からひょっこりと顔を出してきた。


 そこに五本並んで咲いている向日葵よりも大分小さな背を屈めてにっこりと笑っている。ツインテイルに結った髪が良く似合う、向日葵の妖精を思わせる元気な女の子だ。

 何が入ってるのか、背負ったリュックサックが大きすぎて、身体の小ささが余計に強調されている。

 おいで。と手招きしようとしたが、それをするまでもなく素早く駆けてきて、私の隣に腰掛けた。

 

 小学生が夏休みに入ってから、近所の家の千尋ちゃんは毎日私に会いに来る。

 小4にしては背丈が低学年ぐらいの小さな女の子を、私はちーちゃんと呼んでいた。


「ねえそれは何? それがイイもんなの?」

 

 さっきから勿体ぶらせて隠すように、幼なじみのお下がりの虫かごを持っている。

 

 何年物だろうか。

 

 確か私達が小学生の頃からアイツは常に持ち歩いては虫を捕獲していたから、かれこれ10年以上前からある大きな虫かごだ。


 持ち手の緑色は、日に焼けてあの頃の鮮やかな緑は色褪せていた。

 

「蝶々の幼虫。和希が取ってきたの」

 

 千尋ちゃんは得意気に虫かごを見せてきた。

 

 この子は私を呼ぶときは『みさきねえ』というくせに、血の繋がった九つも年の離れた兄の事は『和希』と呼び捨てで呼ぶ。

その感じが私からすると違和感があり笑えた。


 カゴの中には、醜い2匹の幼虫がもぞもぞと蠢いていた。


 緑色のぶよぶよとした頭のデカい個体と、緑と黒と、ところどころに赤色の点々が混じった個体。

 

「キモ! なにこれ和希の嫌がらせ!?」

 

 私は全身に鳥肌が立つのを感じた。

 虫かごを避けるように縁側から立ち上がり距離を取る。

 ポツンと取り残された千尋ちゃんは唇を尖らせた。

 

「キモくないよ! よく見てかわいいよ! この子たちはキレイな蝶々になるんだから! しかもこの二匹はとっても愛し合ってるの! 二匹とも種類は違うけど、キレイな蝶々になるんだって、そう和希も言ってた! それで、美咲にも見せてあげなって言ってたんだから!」

 

 なるほど。って、この幼虫の2匹が愛し合ってるとか意味不明すぎるけど、千尋ちゃんとの会話で意味不明だと感じるのは日常にあったから、突っ込むことも放棄した。


 それよりも、和希が私の蝶々好きを覚えていた事に驚いた。

 それに、私の知らないところで私の名前を、以前と変わらずに呼ぶ事もあるんだと、懐かしいような不思議な気持ちになった。


 あいつの記憶の中には、一応、かろうじて、今ではこんなニートになってしまった私がいたんだ……。


 千尋ちゃんの兄で、私とは幼なじみの和希とは、中学を卒業と同時に高校が別々となった。それからの私たちの人生の方向は、ニートと偏差値の高い大学生という真逆な世界に離れていた。


 その幼なじみに似た、年の離れた小4の妹が、今の私の心の友だ。


 小学生が夏休みに入ってから、千尋ちゃんが毎朝ラジオ体操へと誘ってくるから、仕方なく付き合っていた。私には珍しく、今のところ皆勤賞だ。


 山や川へと遊びに行くときも、オトナと一緒じゃなきゃダメだからと、小学生の子供達の輪の中に入り見守りをさせられた。

 私は小学生たちの頼りになる姉御のように扱われ、少しだけ自己肯定感がアップしたところだ。


 歳だけ19歳になった私は、精神年齢は小4ぐらいから止まっているのかもしれない。

 千尋ちゃん達と過ごす時間は、まるで昔に返ったように楽しめてしまうから。


「みさきねえ、お願いがあるの」


 千尋ちゃんが両手を合わせてくるから、私は縁側へと再び腰掛けて、何? と問いかけた。


 千尋ちゃんの膝の上にある虫かごを、何となく覗き込んでみる。


「うっわ~。きもい」


「やっぱキライ?」


「うん。鳥肌ものだね」


 もぞもぞと蠢く幼虫は、やはり気持ちが悪く好きにはなれない。

 

「やっぱ私、このキモいのが綺麗な蝶になる想像がつかないわ……」


 だって、こんなにも醜くて生きている価値があるのかと思えるトリハダモノの幼虫なのだから。

 もぞもぞと動くその仕草からして、どんなにこの子と共感しようと努力しても、気持ち悪いとしか思えない。


「がんばって想像してみてよ。この子たちはきっとキレイな色の蝶々に変身するんだよ。…どんな名前なのか、和希に聞いたけど忘れちゃった。でも、蝶々に変身したら分かるよね?」

 

 千尋ちゃんは楽しげに虫かごを覗き込んだ。

 縁側から短い足が地に着かなくてブラブラさせていて、楽しみと言う度にブラブラが激しくなる。


「そう。仮にそうだとして。綺麗な蝶々になったら、ちゃんと虫かごの外に出してあげなきゃだめだよ。……お別れしなくちゃ。お別れなんだよ?」

 

 千尋ちゃんは、私と虫かごを交互に見てから、「知ってるよ」とサラリと呟いた。


 その「知ってる」の響きには、全く悲しみは感じられなかった。

 ただ綺麗な蝶々に変化する事だけを楽しみにしているようで、そんな純粋な心を持つこの子を、私は羨ましく思った。

 

「毎日みさきねえに見せにくるよ。この子達がどうなるか楽しみだね! 一緒に観察してこうね!」

 

 私は、これから何に変化するのかも分からない醜い幼虫を少しだけ見て、頷いた。

 この醜く蠢く生き物が、本当に綺麗な色をした蝶々に変化するのだろうか。


 もしも綺麗な羽の色じゃなくて汚い色の醜い蛾に変化したとしても、この色褪せた虫かごから外の世界へと羽ばたけるのなら、それはそれですごい事なのかもしれない。

 

「そうね。楽しみかも」

 

 そう微笑むと、千尋ちゃんの瞳は輝いた。


「これ、夏休みの宿題の自由研究にするんだ。物語はまだ始まったばかりだよ。だけど私、絵が下手で幼稚園児みたいになっちゃうの。イラストがどうしても幼稚すぎて物語と合わないの……」

 

「観察日記だよね? 物語って一体……」

 

 意味不明すぎて質問するが、千尋ちゃんの目は輝いていて、私の声は届かない。

 

「この二人は愛し合ってるのにお互いにハグすらできないプラトニックラブ中なの。

ちなみに緑の頭でっかちの子がクリスティーナで、緑に黒が混じった子がアレックスね。

クリスティーナは別の親たちの子なんだけど、生まれてすぐに親がいなくなっちゃって…。かわいそうな幼きクリスティーナをアレックスの両親が引き取ったの。

親は違えど兄妹……。結ばれぬ関係……。

だからお互いにテレパシーで約束したの。

サナギになって脱皮して、キレイな羽を持ったなら、どこまでも一緒に自由に飛ぼうって……!!」

 

 なんだそれ……。


「ちーちゃん。幼虫達に名前つけたの? クリスティーナとアレックスって…」 

 

 千尋ちゃんは空を仰いだまま完全にいっちゃっている。


 さっき、純粋に変化する姿を楽しみにしている千尋ちゃんを羨ましがった私の思考は一気に覆された。


 なんて妄想を小4がしているの……。


「……あの、その物語のイラスト、私が手伝うの? ってか、夏休みの宿題の自由研究だよね? 自由研究っていうのは見たままの真実を観察して記録するものだよ? 知ってる?」


 唖然とする私に千尋ちゃんは、


「もちろん! 自由研究って自由が付いてるから自由でいいんだよね?」

 

 と強く頷き、リュックサックの中から観察日記を取り出した。


 ページをめくると、びっしりと文字が敷き詰まっていて、ざっと読んでみると日記と言うより小説のような文章だった。

 観察イラストの部分は、挿絵風にしたいのか、所々に空白が設けられている。

 

「和希がね、イラストなら絵の上手い美咲に頼めば完璧だって言ってたの。だからみさきねえにおねがいします! 一緒にいい作品作ろうね! この子達、これからどうなるのか楽しみだね!!」

 

「……作品?」

 

 唖然としてそれ以上声も出せない私に、千尋ちゃんは懐かしい笑顔を浮かべて笑った。

 


 観察日記はまだ始まったばかりだった。

 私は縁側でそのノートと睨めっこをし、5日目の日記までまとめてイラストを描くことにした。


 1日目はリアルな幼虫を忠実に描いたが、拒否反応で私の脳もおかしくなったのか、暑さのせいなのか、場所を自分の部屋へと移動させ、冷房をガンガンに付けて机の上に観察日記を広げた。


 中学時代の美術部で使っていた色鉛筆やイラストマーカーを引き出しの奥から引っ張り出すと、2日目からは幼虫を擬人化させてイラストを描き始めた。


 クリスティーナという女の子とアレックスという男の子を、幼虫から美化させ、観察日記物語の背景を考えながら表情豊かに幼虫の心情を表現した。


 一枚のイラストを描いて色を付けるうち、それを5日分もしていると、私もクリスティーナとアレックスの世界に魅了されていった。


 ふと窓の外に視線をやると、いつの間にか空はオレンジ色に染まり、日記の持ち主の千尋ちゃんの姿は消えていた。いつからいなくなったのか、記憶もない。


 イラストを依頼しておいて、なんて自由人だと思ったが、そんな所も兄の和希とよく似ている。


 私は観察日記を抱えて外へと出た。

 夕焼け空を見上げながら、ひぐらしの声に包まれてのんびりと歩いた。

 昔よく通った懐かしい道だ。

 もしかして、道中アイツに会えるのかもしれないと、密かな期待をしている自分の思いを消し去るように、今度は全速力で走って向かった。


 すれ違ったのは、犬の散歩をしている住人か、畑仕事をするおじさん。ベビーカーを押して散歩をする主婦と幼稚園児……。

 この道を通ると、和希に会えるのかもしれないと条件反射みたいに期待する心は、いつから私に根付いているのだろう。

 私は目的の家のインターホンを押す勇気がなくて、郵便ポストに観察日記を返しておいた。


 翌朝、千尋ちゃんが血相を変えて私の部屋まで飛び込んできた。


「みさきねえー! 大変大変! 一人増えちゃった! まさかの三角関係になっちゃったよ!」


 いつものようにラジオ体操に強制的に起こされた早朝、千尋ちゃんがベッドで眠る私の顔に虫かごを近づけてきた。


 目覚めた私はキモい幼虫をドアップで見てしまい、「ひ…!」と声にならない声を上げた。


「なんなのよ~朝っぱらから! 心臓に悪いでしょ!」


「大変なの! 起きて! すぐにピッシャリと起きて! 朝起きたらヨシオが増えてた! 昨日寝る前はいなかったのになんで!?」


 千尋ちゃんは捲し立てるように叫び、


「ああどうしよう!」


 と私の部屋を行ったり来たりと歩き回った。動揺が隠しきれない様子だ。


 私は半分寝ぼけながら虫かごを覗いた。



 新たな幼虫の胴体には、タスキのように紙切れが掛かっていた。

 それには『ヨシオ』とカタカナで書かれてある。細身の黄緑色の幼虫だった。

 

 なんでヨシオ……?


 こんな事するのはアイツしかいないでしょ。


「どうせ和希のイタズラでしょ。ちーちゃんが寝てる間にアイツがヨシオを入れたんだよ」


 って、なんでこれだけ日本人設定……?


 千尋ちゃんの動きはピタリと止まり、


「……ああ~!! そっか! 和希の仕業か~! そう言えば昨日和希、わたし達の観察日記を盗み見してめっちゃ笑ってたもん。和希が入れたんだ! 絶対そうだ! ……あーあ、物語がややこしくなっちゃうよ……」


「昔から和希ってそういう所あったわ。このヨシオの文字も和希の字体だよ。この跳ね上がったようなクセ字。……私、思い出したよ、色々」



 ちょうど私達が千尋ちゃんぐらいの時、


「いいモノみせてやるから来いよ」


 と言うから庭へと出ると、うちの庭に流れてくる山水のたまり場に、私の苦手な大小さまざまなカエルが何匹もいた。


 そこはスイカを冷やす為の大切な場所だった。

 お気に入りの山水の貯水場所に、10匹以上のカエルが楽しそうに泳いでいて、私はひどく驚き腰を抜かした。


「ここはスイカを冷やす所でしょ! なんで私の一番嫌いなカエルがいるのよ!? なんで、なんでそんなひどいことできるのよ! バカ!」


 私が泣いて怒ると、


「ちょうどいい水場があったからさ。こうも暑いとカエルも可愛そうだろ?」


 和希は謝りもせずにゲラゲラと笑い出した。

 私の怒りは最高潮に達し、気づくと和希の急所を思い切り蹴飛ばしていた。

 和希は地にうずくまり、

「ひきょうもの…」と恨めしそうに私を見上げて苦しんだ。

 私はその姿を見て「ざまあ!」と笑い飛ばした。


 それから互いに口も聞かず目も合わせない日が何日か続いたが、ある日和希が畑で取れたスイカを持ってきて、


「この前はごめんな」


 と謝ってきて。私も、


「おしっこちゃんと出る? 折れてない?」


 と心配して謝ったら、和希は


「案ずるな! オレは不死身だよ!」


 とゲラゲラ笑った。

 私も仲直り出来た事が嬉しくて、和希に負けない程にゲラゲラと笑った。


 それから一緒にスイカ割りをして縁側で種飛ばしごっこをして競った。

 どちらが種を遠くへと飛ばせるか。

 スイカを食べる時は毎回種飛ばしで競ったものだった。


 その日私は、石垣の向こう側へと種を飛ばす最高記録を叩き出した。


 和希も顔を真っ赤にさせながら、「絶対美咲を越えてやる!」と何度も種飛ばしに挑戦していた。

 和希の努力は報われることなく、結局越えられることはなかったけれど。

 なんだか懐かしい。

 今はどうだろう。

 和希に追いつくどころか、私達の世界はどんどんと離れて行っているように思える。


 私が過去を思い出すのは、その距離を埋めたいからなのかもしれないし、今の私を、無いものにしたいからなのかもしれない。

 

「和希はホント、余計なことばかりするお兄ちゃんだわ…。困った人ね」


 千尋ちゃんはそう言いながらも温かい笑みを浮かべている。


「アイツも未だそんな幼稚な事して、それほど変わってないみたいだね」


 今に取り残されてたような気持ちでいた私は、昔と変わらないイタズラ好きの和希に間接的にでも触れることが出来て、なんだかほっとした。


 離れていた距離が、それだけの事で近づいたような、そんな錯覚を起こした。


 アイツは今何を思って生きてるんだろう。そんな風に、バカみたいに気になった。

 



 観察日記物語は三角関係のまま進んでいった。


 私が描くイラストも日を追うごとに上達していき、何を描いても千尋ちゃんは瞳を輝かせてベタ褒めしてくれた。


 もはや観察日記とは言えない世界観があった。私は脱皮を繰り返す幼虫達を幼虫として描かないし、千尋ちゃんの物語は観察を無視した妄想だからだ。


 頭が大きく見えるクリスティーナは、鉄仮面を被らされ素顔を晒すことができない少女を描いた。

 緑と黒の模様を持つアレックスは見た目強そうなので、マッチョに鍛え上げられたイケメンに仕上げた。

 細身の美肌を持つヨシオは、韓流スターのような中性的な仕上がりにさせた。

 サナギになった後は、棺で眠るバンパイアをイメージしてホラーチックに描いた。

 ヨシオだけは日本人設定なので、押し入れの襖の中で眠る愛くるしいゆるキャラに寄せてイラストを描いてみた。


 三体のサナギは、どんな色の羽を持ち変化するのか。

 私もとても楽しみで、ラジオ体操終わりに観察日記物語を千尋ちゃんと進めるのが楽しみでならなかった。

 

 

 幼虫がサナギになってからは、物語は急展開することもなくなった。

 その頃から千尋ちゃんは、虫かごを持ち歩くことはなくなった。

 

 毎朝ラジオ体操で一緒になった時、


「まだ止まったままだよ」


 と、気のない様子で教えてくれた。


 私たちの観察日記への取り組みも、だんだんと熱が冷めてきたのかと、そんな変化に少し悲しい気分になったけれど、私は続けてもやめることになっても、別にどちらでも良いと思うようにした。


 そもそも暇つぶしの為に始めた観察日記だし、私の宿題でもないのだ。

 私は流されるままに自分の行動を決めていけばいい。そんなスタイルが当たり前になっていたし、その方が楽なのも知っている。


 私は楽しいオモチャを取り上げられた子供のように、心にぽっかりと穴が空いたような気分になった。それもこの夏の暑さのせいだと自分をごまかし、代わりに外の景色や、近所の野良猫の絵を描いたりした。



 そんなある日、千尋ちゃんに夏祭りに誘われた。

「浴衣を着て可愛くして待っててね」

 と千尋ちゃんにしつこく言われていたが、この暑い中で浴衣を着るなんて面倒で、着替えはやめておいた。

 いつものラフなスタイルのまま、鞄の中の財布を取り出し、残金を確認した。

 小学生たちと会場で合流するのだから、大人のお姉さんらしく、屋台で何かを奢ってあげるつもりでいる。小学生の保護者役ならば、断然動きやすい服装が理想だ。

 

 夕方になり、私は千尋ちゃんが来るのを縁側に座って待っていた。

 一台の車が道沿いに停車する。

 その車から浴衣姿の千尋ちゃんが降りてきた。下駄をカタカタと鳴らし、おぼつかない足取りで駆けてくると、満面の笑みで私に手を振ってくる。

 

「みさきねえ準備はできてる? あれー、浴衣は着ないの?」

 

 のんびりと縁側に腰掛ける私は、一言、「だって暑いもん」と応えた。


「みてみて、ひまわりの浴衣、かわいい?」


 紺字に黄色の向日葵が咲く浴衣に身を包み、褒めてもらいたくて仕方ないといった様子で私からの感想を待っている。


 私は車道脇に停められた車の方が気になった。あの車は、和希のものだ。


 かわいい? と聞いてくる千尋ちゃんには申し訳ないが、私の頭は真っ白になってしまった。


「うん。とてもかわいいよ。似合ってる」


「みさきねえは浴衣着ないの? 準備は? せっかく美人なんだから、みさきねえの浴衣姿見たかったのにぃ~!」


 千尋ちゃんはフグみたいに頬を膨らませてから、浴衣、浴衣、と呟いている。


「浴衣って気分じゃないから、ごめんね」


 準備もなにも、歩くには少し遠いが、ただの地元の夏祭りだ。格好はいつも通りで、いつでも昼寝ができるユルくて楽な物と変わりはない。


 しかし、その時はそんなユルい自分を呪った。


 車道脇に停車されている車の助手席には、浴衣姿に髪を結った色白の美しい女性が乗っていた。


 私といえば、いつもの着慣れたTシャツにチノパンというラフすぎる姿で、サンダルから見えるネイルも所々剥がれかかっている。指先のネイルだっていつから放置していたのか、みっともないと今更気づいた。


 日焼けした肌と、手入れのなってない伸びっぱなしの髪を無造作に纏めただけの姿。


 極めつけにノーメイク。


 和希の車の助手席にいる浴衣美人は、和希の彼女なのか……。

 

「みさきねえも行くでしょ?」

 

 千尋ちゃんは私の手を取り引っ張ろうとする。


 私は、「行かない!」と、地に足を付けたまま動かなかった。


 千尋ちゃんは不思議そうに小首を傾げる。


 そうこうしていると、車の運転席側の窓が開いて、和希が顔を出した。 


「久しぶり美咲! 夏祭り行くんだろ? 目的地一緒だから乗ってくか?」

 

 久々の再会がこの格好……。


 私はだらしの無い私に再び自己嫌悪に陥った。


 目が合ったからには反らせない。

 オトナならちゃんと近くへと行き丁重にお断りするべきなんだろうと、運転席側の窓へと歩みを進めた。

 助手席の浴衣美人が、「誰?」と問いながら、そのキラキラした瞳を和希に向けている。


 その雰囲気が、特別な関係なんだとアピールされているようだった。


 まとめられた髪は憎らしいほどに計算されたアンニュイさ。後れ毛、うなじ、どの角度から見ても完璧で美しい。

 メイクだって、主張しすぎてはいない、本来の美しさを引き立たせるようなナチュラルな仕上がりだ。

 

 なんであなたが和希の隣に堂々と座っているの? その隣は私の場所だった。息をするみたいに普通に、私の場所だったはずなのに……。

 

 私の中の黒い私が頭の中でうるさく騒ぎだした。ドロドロとした醜い私が溢れ出す。

 その浴衣美人と目が合い、私はバツが悪いながら愛想笑いと共に会釈した。


「幼なじみの美咲だよ。オレの妹みたいなもんだ。で、千尋のマブダチ」


 和希はそんなふうに私を紹介した。

 私たちの思いは、恋愛対象と兄妹と、またこんなにも温度差がある現実を突き付けられ、ショックのあまりに私の頭は思考停止した。それを悟られないように、表情筋を緊張させる。


「あ、そうなの。…そっか。美咲さん。初めまして」


 浴衣美人は可憐な花のように微笑み会釈をしてきた。


 私とは住む世界が違うと思わせる女性だった。花に例えると胡蝶蘭みたいな繊細で可憐なお高い種類のもの。日焼けの経験があるのかと問いたいほどに滑らかな肌は透き通るような色白だった。

 年齢は私と同じか、年上か。

 浴衣姿が綺麗すぎて分からないけれど、その雰囲気には和希の彼女だと言う風格があった。

 

 だからって、和希からこの女性との関係を紹介されたくもなくて、私はされる前に早口で捲し立てた。

 今すぐにでもこの場から立ち去りたい。


「初めまして美咲です。で、訂正しておきますけど、和希は私の弟みたいなもんです。私は8月生まれで和希は11月生まれ。紛れもなく私が姉ですから。そこんとこ頼むわよね!」

 

「そ、そうですか。…お姉さん、なんですね?」


 浴衣美人はふわっと、まるで花が咲くかのように微笑んだ。

 私も愛想笑いを浮かべると、会釈をする。それから、「あんたは私の弟よ!」と強調するように言い放ち、和希を軽く睨み付けた。

 何言ってるんだろう私は。まるで頭の悪い小学生みたいだ。


「はいはい。弟です。で、美咲もいくんだろ? 乗ってくか?」


「そんなん行くわけないじゃん。夏バテで疲れてるし」


「え〜! ともちゃんもマナちゃんも、みさきねえと一緒にお祭り楽しみにしてるのぃ~!!」


 千尋ちゃんが残念がったが、私の心は暴風雨だった。


 この車に乗り込んで一緒に祭りに行くだなんて行為は、罰ゲームだとしか思えなかったのだ。

 

 今の私はニートだ。

 

 だらしない服と髪と空気感。


 目的も夢もないニートの私が、さらに自己嫌悪と自己肯定感の崩壊に苦しむのは目に見えている。


 その車に乗れるはずが無い。


 例えば何かを変えたいとして乗ったとしてもどうなの。結局、わたしがボロボロになって傷つくだけだ。アホらしい。


「ごめん、千尋ちゃん」


 私の腕を掴んで引っ張っていた千尋ちゃんは、私の顔を見あげると、徐々にその手の力を緩めた。私と車内とを交互に視線をやると、心なしか悲しそうに微笑んだ。


「……わかったよ。みさきねえにりんご飴、おみやげ買ってくるからね」


「……うん。ごめんね。楽しんできてね」


 千尋ちゃんだけが車の後部座席に乗り込むと、軽快にクラクションを鳴らし、和希の車は消えていった。



 観察日記は止まったままだったが、私は毎朝のラジオ体操には自ら進んで参加できるようになっていた。早起きも習慣となり、苦痛でなくなっていた。


 千尋ちゃんは「おはよう!」と、朝の挨拶は元気にしてくれるけれど、なぜだか私の顔を見ると気まずそうだった。


 私が夏祭りの約束を断ってしまったせいだろうか……。それとも、私の思いに感づいたのか、あの日からよそよそしい。


 それでも私としては都合が良かった。

 失恋した幼なじみの妹と関わると、心が痛んでしまうから。


 幸い、千尋ちゃんも同年代の友達との遊びが忙しいらしく、疎遠となっていった。

 それでもなんとなく、早起きとラジオ体操は意地でも続けようと、雨の日でも傘をさして会場へと行った。

 そして当たり前だが待ちぼうけをくらった。

 待っても誰も来ないなら、一人でラジオ体操をやってみる。誰かがこの様を見ればおかしな人間決定だろうけれど、私はかまわず雨の中、一人ラジオ体操をノリノリでやり切った。


 私は翌日風邪をひき、ラジオ体操の連続参加更新はついに止まってしまった。

 そのままラジオ体操からも足が遠のき、数日が過ぎた。



 そんなある夜遅く、縁側に腰掛けてひぐらしの声を聞いていた。

 目を閉じて、ただその音を聴く。

 風に擦れる草や葉の音と、ひぐらしの声。まるで異世界に飛んでいってしまいそうな感覚に陥る。


「みさきねえ!」


 呼ばれて我に返った。

 声の方へと視線をやると、月明かりの中、久しぶりの千尋ちゃんが虫かごを抱えて立っている。


「よう! 元気か?」


 その隣には、和希がいた。


「なんなのよ、兄妹してこんな夜遅くに」

 

「みさきねえ、変化があったの! ついにヨシオが羽化したの! アレックスももうすぐみたいだよ!」

 

 千尋ちゃんはテンション高く、でも慎重に虫かごを見せてきた。


 和希は隣で優しく微笑んでいる。


 少し前に、指先のネイルを完璧に塗り替えていた事に、少しだけほっとした。


「多分この調子だとアレックスも朝までには羽化するぞ。どうしてもチーが美咲に見せたいって聞かなかったんだ。こんな時間だし、オレも用心棒についてきたんだ」

 

 和希は片手でボーリングの玉を持つように小ぶりのスイカを持っている。

 

「ほら、元気玉くれてやる!」

 

 と、私に抱えさせた。


 そのスイカには、白油性ペンで大爆笑してるような変顔が描かれてあった。

 

「今まで山水にスイカ入れてたの和希?」

 

「ああ。今年はスイカが豊作でな。美咲、スイカ好きだったろ? 元気玉だよな?」

 

「よく覚えてたわね」

 

「まあ、弟みたいなもんだから」

 

 和希は笑った。

 

「この前の子、彼女…?」

 

「まあな」

 

「へ〜。和希のくせに生意気に、綺麗な彼女じゃん」

 

 和希は照れ笑いした。


 その瞬間、私の和希への思いは、大声で泣き喚きたいような悲しさを感じながらも、過去の思い出へと強制的に切り替わったような、そんな複雑な気分になった。


 軽くなったようにも思えるし、何かが足りなくなった不安もある。


 生き物も、脱皮したての時はこんな不安な気持ちになるのかな……?

 脱皮してすぐに心が都合良く切り替わって、清々しくなれる生き物なんて、この世に存在するのかな……?

 

「みさきねえ、明日の朝にアレックスとヨシオを空に放つね。……でも、クリスティーナだけが取り残されちゃうけど仕方ないよね…?」

 

 千尋ちゃんはなんだか腑に落ちない顔をしている。

 無理もない。千尋ちゃんの観察日記の未来は、クリスティーナとアレックスが仲良く空を羽ばたくという設定だったはずだから。

 

「仕方ないね。…なかなか思い通りに物語は進まないものなのよ。現実世界ってのは」

 

 私は千尋ちゃんの頭を撫でて慰めると、千尋ちゃんは少し涙を浮かべて私を見上げた。

 


 翌日の早朝、千尋ちゃんは虫かごを持ってやってきた。

 大きな虫かごを覗くと、アレックスも羽化していた。


 アレックスは黄色の羽を持つアゲハ蝶。

 ヨシオは白い羽根のモンシロチョウだった。

 

 色褪せた緑色の蓋を開け放つと、アレックスとヨシオは戸惑いながらも空へと飛んで行った。

 

「アレックスとヨシオのバカー! アレックス、クリスティーナを置いてくなんて裏切り者ー! バカー! もう勝手に二人幸せになっちゃえー!」

 

 千尋ちゃんは半べそをかきながら早朝から近所迷惑に大声で叫んだ。

 私の腰に両腕を回し、ギュッとしがみついてくる。

 それから、なぜだか私に「ごめんね、みさきねぇ……」と謝ってきた。


「何で謝るの?」

 

「……なんとなくだよ。みさきねぇはいつまでも私のお姉ちゃんなんだから」

 

「……うん。ありがとう」

 

 私は千尋ちゃんの頭を撫でた。

 

「観察日記はまだ終わってないよ。クリスティーナが羽化するまでは終わらないはずでしょ?」

 

 千尋ちゃんは泣きながら頷いていた。

 


 その翌日、クリスティーナは昼間に羽化をした。


 縁側でそれを見守っていると、いつの間にか姿を消していた千尋ちゃんが、和希を連れてやってきた。

 

「ついにきたか!?」

 

 まるで出産間近の父親のようで笑えてしまう。


 和希は私の座る縁側の隣に、当たり前のように腰掛けた。


 私は内心ドキッとしながらも、平然を装いその様子を伺った。

 和希はその長い脚を投げ出すと、深く息を吐き出した。


「久しぶりだな~」と、緑の景色を見渡しながら、しみじみとした様子で呟く。


 かつての自分の虫かごの中を覗き込むその横顔は、あの頃の和希の面影は有るけれど、私の中にいる和希とは違っていた。隣に座る感じも、雰囲気も、あの頃とは違う。

 そんなのは当たり前の事だ。

 私たちはもうあの頃の私たちじゃない。

 あれから何年もの時が経ったのだから。


 サナギから羽化したクリスティーナは、幼虫の頃からは想像がつかない美しい蝶に変化していた。

 

「やっぱミヤマカラスアゲハだった! すっげーな! あの時のより綺麗に思えるよ。やっぱ貫禄が違うよな~!」

 

 子供みたいに和希は言い、あの頃の笑顔そのままに私を見つめてきた。

 な? と、同意を求めるように見つめてくる和希に、少しほっとさせられる。

 

「この子、なんとかカラスアゲハっていうの?」

 

「ミヤマカラスアゲハ。美咲も見たことあるだろ? 昔この虫カゴで羽化したことあっただろ?」


「そうだったっけ?」


「まさか忘れたのかよ!? 中二の夏、ちょうどここでこんな感じで見てたじゃないか。あんなに美咲、綺麗な蝶々って喜んでたのにさ」

 

 和希は不服そうに呟いた。


 そんなの、しっかり覚えている。

 忘れるはずがない。

 この蝶は見たことあるし、羽ばたく姿を見ながら夢の世界の事なのかと喜んだ覚えもある。

 確かに蝶の名前は忘れていたけれど、あの頃の虫かごの鮮やかな緑色の蓋を解放した瞬間は、年月が経った今でも色褪せず心の中にある。


 それなのに私の中の強がりな私が、その思い出を忘れたフリにしたがっていた。

 

「アンタは昔からその虫かごに虫入れすぎなのよ。その虫かごの思い出がありすぎて私、何となくしか思い出せないよ!」

 

「思い出せないっておかしいだろ!? ミヤマカラスアゲハだぜ!? あんなに美咲喜んでたじゃんか!」

 

「忘れたもんは忘れたのよ! 仕方ないじゃない!」


「さすがにミヤマカラスアゲハの件は忘れないだろ!?」


「アンタが私を嫁にするって昔宣言してた事だって忘れてるじゃん!?」


「…な、なんだよ、今さら。小っ恥ずかしい昔話はやめろよな」


 ……そうだよね。昔の話。

 泣きたくなるほどに良い思い出だ。


 プチ言い合いになった私達の間に入って、千尋ちゃんが、


「ケンカはだめよ!」


 とオトナみたいに諭してきたから、私達は顔を見合わせて笑った。



「よし、解放だ!」

 

 羽が乾いただろうタイミングで、ついに和希は虫かごを開け放った。


 しかしクリスティーナは羽ばたくことなく、虫かごの中に留まるばかりだ。


「クリスティーナ、一人で不安なのかな? 怖いのかな?」


 千尋ちゃんは心配気に虫かごの中を覗き込む。

 和希は指先に優しくクリスティーナを掬い上げると、庭にある向日葵の上に止まらせた。


「もう羽は乾いてる。いつでも飛べるはずだ。クリスティーナ、自分のペースでいいから、焦らず行け」

 

 あの頃の面影を残したオトナになった和希は、向日葵の上で戸惑った様子のクリスティーナに、優しく話しかけている。


 それを聞いたら私は、泣くつもりもないのにいきなり涙が溢れてきて、泣いてなんかないと誤魔化そうとしたけれど、無理だった。

 ゲリラ豪雨かっていうぐらいに制御出来ない涙が頬を伝って止まらなくなる。


 気づいたら私は、クリスティーナに人目もはばからず叫んでいた。

 

「大丈夫よクリスティーナ! 世界は広い! 何でも出来る! だから飛んでみせて!」


 私だってこれから動いてみせるから。

 このまま止まったままで私の物語は終わらせないから。

 

 向日葵の上にいるクリスティーナは、戸惑った様子でその場に留まり、動こうとしない。


 飛べ飛べ動け!!……お願い!!


 生ぬるい風が吹いた。

 向日葵がゆらゆらと首を揺らす。

 しばらくしてクリスティーナは、その綺麗な羽を広げると、静かに空へと飛び立っていった。


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変化の色 まきりい @makirii3

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