高専生に青春はあるのか
高専に青春はあるのか?
これについて言及する前に言わしてもらうと、高専生活においてぼくに青春はなかった。あと半年残っているが、する予定もつもりもない。
もちろんしたいと思ったことはあるし、今でもそこかしこに転がっている青い季節にぼくの青春コンプレックスはひどく痛めつけられているのだが、最近ぼくはそれこそが青春なのではないかとも思うようになってきた。
つまり、隣の芝生は青いように、観測者が羨む状態こそが青春であり、そも青春とは自ら名乗って遂行するものではないということだ。それはただの真似事に過ぎないと僕は思う。
そう思ってみればかつて一度、高専生活において学内に恋人ができたとき、
「青春してるね」
と言われた。
ぼくは当時そうは思っていなかったが、それはきっと青春と呼べるべきものだったのかもしれない。ぼくは認めたくはないが。
閑話休題。
要するに、青春とは無自覚に生じるものであり、第三者によってその存在が確定されるものだとぼくが勝手に定義し、それに基づいて最初の命題に解答するならば、
『高専にも青春はある』
だ。この情報化社会の中で数多の人に馬鹿にされネタにされ、高専生は胸を張って高専に通ってますと言いづらいような世の中になったような気もするが、そんな高専にも間違いなく青春は存在する。
他ならぬぼくが観測者だったからだ。
高専生だって本気で何かに打ち込んでるやつはいるし、それで華々しい結果を残す奴もいる。何も残らなくても、その過程をぼくは見届けたことがある。
どんなに冴えない見た目でも、その姿は美しくかっこいいとぼくは思ったし、ありていに言えば、感動した。
ぼくには5年間でそのようなものは見つけられなかったが、そんなものが見つかった人の周りは色づいていくだろうと思う。
結論を言うと、高専だって普通校と何ら変わらないのだ。色恋めいた何かは望み薄だろうが、何も青春の全てがそうではないとぼくは思うのだ。
気がつけばぼくは、真剣にはなれるが、本気になれないことが多くなってしまった。
いつからか言い訳を用意して物事に取り組むようになったし、一生懸命なやつを笑ったこともあった。それはひとえにぼく自身の弱さに由来するのだろうし、けれど同時に、そう思ってしまうほどに青春とは眩しいものなのだとも思う。
ぼくはそれが何なのか知りたいし、そういう眩しいやつになりたいし、眩しい生き方をしたい。
それほどの何かがぼくの前に現れるかもしれない。現れないのかもしれない。
しかし、早いも遅いもないのだ。
そのいつかに備えてぼくは誰よりも輝く準備をしていきたいと思っている。
『STAY GOLD』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます