第48話 日常に一番近い彼女

 朝の通りはまだ静かで、澄んだ空気が頬に心地良い。俺はいつものようにジョギングと筋トレをこなすと、家に帰ってシャワーを浴び、支度を整えた。小学校から続けているルーチンワークだが、部活をしていない今、少しハードに調整している。


 「行ってきます」


 家族に声をかけると、俺は真紀の家へ向かう。家の斜め前に住む彼女とは、幼馴染として幼稚園の前から一緒だ。

 小学校もずっと一緒に登校してきた。中学の3年間は別だったが、またこの習慣が高校生活で復活するとは思ってもみなかった。


「おはよう、ヒロ!」


 玄関先で俺を待っていた真紀が、明るい声で声をかけてきた。制服姿の彼女はいつも通りの穏やかな笑顔だ。真紀の柔らかな笑顔は昔から変わらない。昔と違うと言えば、痩せて随分と可愛くなったことと、体の一部が極端に大きくなったことだ。聖子さんの遺伝子、グッジョブ。

 彼女の姿を見ると、朝の慌ただしさが嘘のように心が落ち着く。


「おはよう、真紀」


「ちょっと、どこ見てるのよ。女の子は男の子がどこ見てるか、すぐわかっちゃうんだからね?」


「わ、悪い」


 ついちょっと見ただけだが、そんなにわかるものなんだろうか。


「そうだ。今日のお弁当、楽しみにしててね」


 真紀はにっこりと笑うと、自分の鞄を軽くたたいた。毎朝早起きして作ってくれるこのお弁当が、実は俺にとって一日の楽しみでもある。


「今日はね、少し変わったおかずを入れてみたの。気に入ってくれるといいんだけど…」


 真紀の頬が少し赤くなる。彼女は本当に優しくて、俺のために毎日一生懸命お弁当を作ってくれている。いつも穏やかな彼女だが、俺のことを思ってくれるその気持ちが、伝わってくる瞬間だ。


「真紀が作ってくれたなら、絶対美味いよ。ありがとう、毎日助かってるよ」


「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいな」


 俺たちは並んで歩き出す。小学校の時とは何かが違うのを感じる。何か、と具体的には言えないんだが、なんとなく違うのだ。

 高校に入ってからの真紀は、以前よりも大人びた雰囲気を醸し出している。真奈美や美玖のように、自分を積極的にアピールすることは少ないけど、真紀の優しさや思いやりが俺の心にじんわりと染み込んでくる。


 だが、そんな穏やかな彼女も心の中でいろいろなことを考えているんだろうな。俺が一学期中に誰かを選ぶと約束してから、真紀も他の子たちと同じように、少しだけ変わった気がする。


「ヒロ、今日は部活が無いんだけど、一緒に帰れる? 行きたいところがあるんだ」


 彼女の何気ない言葉に、少しドキッとする。小さなころからたくさんの時間を一緒に過ごしてきた真紀。だが、彼女と過ごす時間が、最近は特別に感じるようになってきた。


「ああ、大丈夫だ。予定はないよ。一緒に帰ろう」


 真紀は少しはにかんだような表情を浮かべながら、また微笑んだ。




 その日、午前中の授業では、机を付けて並んで勉強しているクロエが頭を抱えていた。


「うう~、ヒロキ、古典は苦手なのですぅー……」


「仕方ないよ、普通の日本語でさえ難しいのに、古典はなぁ……」


「フランス語に訳してもらっても、まるで意味が無いのです」


「そりゃそうだ。結局日本語だからな。でもな、クロエ。こう考えてみるんだ。15年、日本語ばかり勉強してきた人だって全然わからないんだ。スタートはみんな同じ。日本語に近いけど違う言語を勉強するつもりでやってみたらどうだ?」


「なるほどなのです……うー、でもやっぱり苦手です……」


 クロエがいた学校は、科学や数学はもっと難しい事をしていたらしい。当然英語は得意だし、普通の現代文もよく勉強している。苦手なのは日本史と古典だ。


「放課後、たまに勉強会をやろうか?」


「お願いしたいです! 今日から早速やりますか?」


「すまん、今日は先約があって出かけるから……」


「あー……そう言えば私も部活でした」


「明日はどうだ?」


「はい、明日お願いします! 試験までには何とかしないとですよねぇ」


「そうだな、この学校の試験については知ってる?」


「はい、1学期の間に2回、中間試験と期末試験があると聞いています。それにしても4月が1学期とは不思議な気分です」


 そうなのだ。世界的には9月が新年度の始まりのところが多い。

 4月から1学期が始まるという事でさえ、日本の文化はガラパゴスなのだ。


「だから、入学するのもとても大変でした。飛び級で中学の卒業資格を得なければいけなかったですし」


「そうだったのか……思っていたよりずっと大変だったんだな」


「はい。でも、ヒロキに会うためだったから、お茶の子さいさいでした!」


「お茶の子さいさいって今の日本人は使わんぞ……」


「そ、そうなのですか!? むぅ……勉強になります」




 そんなこんなで昼休み、いつものように俺たちは空き教室に集まっていた。窓から差し込む春の日差しが教室を優しく照らし、どこか落ち着いた雰囲気が漂っている。


 真奈美、美玖、クロエ、そして真紀。いつものメンバーだ。彼女たちはみんな、なんとなく無言でそれぞれのお弁当を広げていた。


「はいヒロ、お弁当」


 当たり前のように真紀が俺に手作り弁当を差し出す。その言葉には、いつもの優しさと安心感があった。真紀の弁当を食べることは、俺にとってもう日常の一部だ。俺は「ありがとう」と微笑みながら、ふたを開ける。中には彩り豊かな料理が並んでいて、ふんわりとした卵焼きや、丁寧に切りそろえられた野菜たちが目を引く。中でも今日は肉を巻いた俵型の何かが目を引いた。


「今日も美味しそうだね。これは……?」


「えへへ、それはね、アスパラ、ゴボウ、ニンジン、エノキにピーマンなんかを豚肉で巻いて、照り焼き風のタレで焼いてみたんだ。気に入ってくれたら嬉しいな」


 真紀が控えめに笑う姿に、俺はついホッとする。だが、その瞬間、隣に座る美玖が少しムッとした表情を浮かべて言う。


「ヒロっち、また真紀ちゃんのお弁当なの? それってズルくない? おいしそうだし……」


 美玖の口調には冗談めかしつつも、どこか不満が隠れているのが

わかる。彼女は俺の弁当を見つめながら、少し目を細めた。


「そうよ、ズルいわよね。宏樹、私たちだってお弁当くらい作ってあげられるんだから」


 真奈美が真面目な顔で同意してくる。その冷静な表情の奥には、微妙に嫉妬心が垣間見える。いつもクールに見えるけど、こういうところでは負けたくないんだろうな。


「え、ええと……私もお弁当、作れるんですよ?」


 クロエも慌てたようにフォローを入れてくる。彼女のフランス訛りのある日本語が可愛らしい。だが、「他の誰にも負けたくない」という想いがはっきりと感じ取れた。


「う、うん、ありがとう。みんなの気持ちは嬉しいよ。でも、本当に弁当作れるの……?」


 俺がそう言うと、真奈美と美玖、クロエの表情が複雑に曇るのを感じる。


「あー、お、おにぎりとかサンドイッチくらいなら?」


 と美玖。


「私も、サンドイッチなら……」


 とクロエ。


「わ、私の手作りお弁当、食べたことあるわよねぇ!?」


 と真奈美。そう言えば、水族館デートで一度作ってくれたな。


「悪い悪い、でも、真紀のはやっぱり俺の口に合ってるみたいでさ。真紀のお母さん、聖子さんの料理を小さいころから一緒に食べてたからな」


 ふふん、と大きな胸をさらに張り、真紀はニヤリと笑った。


「幼馴染ですから」


(ぐぬぬ、ズルい……やっぱり、幼馴染のアドバンテージは大きいわね)


 美玖の心の中が手に取るようにわかる。彼女は俺と真紀の距離の近さに、微妙な嫉妬を覚えているのだろう。だが、彼女がそれを表に出すことはない。むしろ、冗談っぽく笑って流している。


 一方で、真奈美は表情にこそ出さないものの、ちょっと悔しそうなことが目でわかる。


(幼馴染って、やっぱり強いのよね。でも……それだけで負けたわけじゃないわ。宏樹に選ばれるためには、もっと私にできることがあるはず)


 そんなことを考えているのが、彼女の静かな目線から伝わってくる。真奈美はいつもどこか距離を置きつつも、自分のタイミングをしっかりと計っている。


「私も、お弁当……作ってみようかな」


 クロエが控えめに呟く。その声には決意がこもっていて、俺もつい耳を傾けてしまう。


「クロエもお弁当? それは楽しみだな」


「はい! おばあちゃんに教わって自分の分で練習してからですけど……」


 クロエの頬が少し赤くなりながら照れる姿が可愛らしい。


「そうか、クロエはお婆さんがお弁当を?」


「はい、久しぶりだーって言いながら、楽しそうに作ってくれています」


「お婆さんは日本人なんだっけ」


「はい。一昨年祖父が亡くなったんですけど、暇だったから丁度いいわって、日本行きを決めてくれたんです」


「そっか、優しいお婆さんなんだな」


「はい、とても優しいです!」


「お弁当が作れるようになったら、私のも食べてくださいね!」


「おいおい、そんなに気を使わなくていいよ。気持ちだけで嬉しいんだから」


 俺がそう言うと、場の空気が少し和らぐ。だが、内心ではみんながそれぞれ自分をアピールしようと必死になっているのが伝わってきて、なんとも言えない気まずさを感じる。


 そんな中、真紀は静かに微笑みながら俺の隣で黙って弁当を食べている。彼女にとって、俺にお弁当を作ることは特別なことじゃなく、日常の一部なんだ。それが真奈美や美玖、クロエをどう思わせているかも、彼女は気づいていないだろう。


 でも、それこそが真紀の良さなのかもしれない。飾らない優しさが、俺の心にじんわりと染み込んでくる。


「……まあ、今日も美味しくいただくよ。ありがとな、真紀」


「ううん、どういたしまして、ヒロ」


 真紀の柔らかな声に、俺は心の中で感謝しながら、今日も彼女の作ってくれたお弁当を一口一口噛みしめる。


 みんなの視線が交差する中で、俺はふと「一学期の終わりには決めなきゃいけない」という約束を思い出して、胸が少し重くなるのだった。




「はい、それじゃ今日はお終い。明日提出期限のプリント、忘れるなよー」


 ショーコ先生の声に号令係が号令をかける。


「起立、礼」


 放課後のチャイムが鳴り響き、クラスの中は一気に活気づいた。友達同士で部活に行く者、早々に帰宅する者、それぞれが自分の予定に向かって教室を後にしていく。俺もカバンを手に取り、今日はどうしようかと思っていると、真紀が声をかけてきた。


「ヒロ、今日は一緒に帰れる?」


 いつもの穏やかな微笑み。幼馴染の真紀に誘われるのは、もう何度目だろう。でも、その笑顔を見ると、断る理由なんて見つからない。


「ああ、もちろん」


「ちょっと寄っていきたいところがあるんだけど、良いかな?」


「いいぜ。今日はどこに?」


「うん、実はね、一緒にレシピ本を探したいなって。ほら、ヒロが食べるものだから、好みを聞きながら選べるじゃない?」


「なるほど。じゃあ一緒に本屋に寄っていこうか」


「うん、ありがとう!」


「いやいや、俺のためだろ? こちらこそありがとうだよ」


 真紀は嬉しそうに微笑んで、俺の隣に並ぶ。その優しさに満ちた笑顔を見ると、自然と自分も心が和むのを感じる。俺たちは肩を並べ、教室を出た。




 本屋に着くと、真紀はすぐにレシピ本のコーナーへ向かっていった。色々なレシピ本が並んでいて、真紀はその中からいくつかを手に取っている。


「どれがいいかなぁ……」


 真紀は真剣に本を見ながら、ふと俺に尋ねてきた。


「ねえ、ヒロは和食と洋食ならどっちが好き?」


「うーん、どっちも好きだけど……」


 真紀の作る料理なら、何でもいいよ。

 そう言いそうになって踏みとどまった。


 「何でもいいよ」これは言ってはいけないセリフの上位だと、今ならわかる。

 一見相手を信頼しているようで、実は軽んじているのだ。

 「何でもいいよ」は、相手にとっては「どうでもいい」と言われたのと同じ。


 些細な事でもちゃんと向き合わねば。

 失敗した人生で学んだことだ。


「そうだな、やっぱり和食が好きかな」


「そう、やっぱり和食がいいかしら」


「でもたまには洋食や中華も良いと思うけど」


「そうね、作る側もたまには違うバリエーションで作りたくなるわね。それじゃ、どの本にしようかな」


 真紀はそう言いながら、さらに本を手に取ってパラパラとめくっていく。彼女の姿を見ていると、料理への情熱が伝わってくる。俺のために中学の頃からずっと努力して、自分を磨いてきた真紀。その成果は、今こうして毎日お弁当を作ってくれていることからも分かる。


「よし、この本にしようかな。見てみて、基本は和食だけどたまにアレンジレシピも載っているの」


 真紀は一冊のレシピ本を手に取って満足そうに微笑んだ。俺もその笑顔を見て、自然と頷いた。


「楽しみにしてるよ、真紀の新作料理」


「うん、ヒロに喜んでもらえるように、頑張るね!」


 その言葉に、俺の胸が少しだけ苦しさを感じた。真紀はいつも俺だけのことを考えてくれるけど、俺はどうだろうか。彼女だけじゃなく、五人を比べているだけで、気持ちに応えられるような事はしていない。




 その後、本屋を後にした俺たちはブラブラと街中を歩き、電車に乗って家に帰っていた。

近所の公園の前を通りかかった時、ふと真紀が言った。


「ヒロ、少し寄っていかない?


「ああ、いいぜ」


 夕焼けが、公園のベンチをオレンジ色に染め上げる。俺たちは、静かに並んで座っていた。


「なんか久しぶりだね、この公園」


 そう言った真紀の声は、どこか遠慮がちだった。


「ああ、昔はよく一緒に遊んでたよな」


 俺は懐かしさを感じながらも、どこかぎこちなく返事をする。中学時代、真紀とは別の学校に通っていて、今の距離感はそれ以前と少し違う。でも、こうして一緒にいると、あの頃の安らぎが胸に蘇ってくる。


 真紀が小さく息を吐いた。


「ヒロ……私ね、昔からずっとこうやって一緒に過ごす時間が好きだったんだ」


「ああ、俺もだ」


 真紀といると落ち着く。安らぐというのだろうか。ドキドキや新鮮な恋の感覚ではない。長年連れ添った夫婦のような安心感を感じる。


「高校に入って、ヒロを独り占めしたかったよ。でも、私だけじゃなくて、美玖ちゃんや真奈美ちゃん、クロエちゃんに薫ちゃんまでいて、正直不安になってるの」


 真紀の声がかすかに震えているのがわかった。


「そんなこと……真紀のことは、とても大事に思ってるし」


「でも……私は、もっと頑張らなきゃダメなんだって思うの。ヒロが私を選んでくれるために」


 真紀は自分の気持ちを押し込めているようだった。その表情は切なく、心の中で何かに葛藤しているのが伝わってくる。


「頑張らなきゃなんて思う必要ないだろ? 真紀は真紀のままでいいんだよ」


 俺は真紀の手に触れた。手のひらは少し冷たく、夕暮れの風に少し震えているように感じた。


「今のままじゃ選ばれないってわかってるから」


 真紀は微かに目を伏せる。奥手で、いつも自分のことを後回しにしてしまう優しい真紀。そんな彼女が、ずっと俺に向けて抱いていた想いに、俺はどう応えるべきか悩んでいた。


「ヒロ……」


 小さな声で名前を呼ばれた。真紀の声は、ほんのわずかな不安と、何かを訴えようとする力強さが混ざっていた。


 真紀は、そっと俺の手を握り返した。その感触は、温かくも頼りない。彼女の心の中では、きっと色々な感情が渦巻いているんだろう。


「ヒロ……」


 再び、俺の名前を呼ぶ。真紀の声には、少しの戸惑いと、淡い期待が込められていた。彼女が何を言いたいのか、何を求めているのか、それはすぐに理解できた。


「……真紀」


 俺も真紀の方に体を向ける。彼女の顔が夕陽に照らされて、柔らかくオレンジ色に染まっていた。だけど、その瞳の中には、揺れる不安が映っている。


「私……キスって、どうすればいいのか、よくわからないんだ」


 真紀はそっと目を伏せた。彼女が言いたかったのは、まさにこれだ。周りの美玖や真奈美と比べて、自分が遅れているんじゃないか、そんな不安に彼女は押しつぶされそうになっている。


「幼稚園の頃、真紀からしてくれただろ?」


「そ、そんなの覚えてないもん」


 夕日に照らされての事なのか、真紀の顔が赤くなっているように見える。


「……ヒロはみんなとしてるんでしょ? 美玖ちゃんと真奈美ちゃんが言ってたよ」


「まあ、あの二人とは、な」


「クロエちゃんだって入学式の日にしてた」


「あ、あれはしてたというか、されたというか」


 真紀は少しねたように笑った。彼女のその笑顔が可愛くて。


「私も……ヒロと、キスしたい」


 その一言に、真紀の真剣な気持ちが込められていた。


「……こんな俺でいいのか? まだ何も決められていない俺なんかで……」


 俺が尋ねると、真紀はゆっくりと頷いた。彼女の瞳は不安げだったけど、その中には揺るぎない決意も感じられた。


「……ヒロだからしたいんだよ?」


 真紀が、少しずつ顔を近づけてくる。俺もそれに応えるように、彼女に近づいた。お互いの吐息が感じられるほどに、顔が近づいた瞬間、俺は軽く唇を重ねた。


 しかし、そこで終わらなかった。


 真紀は、さらに少し身を寄せてきて、今度はもう少し深いキスをしてきた。戸惑いつつも、その柔らかさと温かさに俺は自然と引き込まれた。真紀の舌が俺の舌に触れ、甘くも慎重に動く。その瞬間、時間が止まったかのように感じた。


 真紀の体が少しだけ震えているのがわかった。けれど、その震えには、不安と同時に期待と喜びが混ざっていた。


 彼女の手が俺の肩に触れると、ますます距離が縮まった。しばらくの間、二人は言葉を交わさず、ただ唇を通してお互いの存在を感じていた。



 長いキスが終わり、俺たちはお互いの顔を見つめ合った。真紀は顔を真っ赤にしながらも、どこか満足げな表情を浮かべていた。


「……こんな感じでよかったのかな?」


 真紀は恥ずかしそうに微笑んだ。彼女の声には、少し照れが混じっていたが、それでも満足したような響きがあった。


「ああ、すごく……ドキドキした」


俺も思わず微笑んでしまった。胸の中で鼓動が速くなっているのを感じたけど、それが心地よかった。


「私のファーストキスだよ」


「俺は初めてじゃなくてごめん」


「ううん、ヒロ……ありがとう。私、やっぱりヒロが好き」


その一言が、俺の心にしっかりと刻まれた。


「俺も……真紀のこと、大切に思ってる」


 そう言うと、真紀の表情がさらに柔らかくなった。彼女の笑顔は、今まで以上に可愛らしかった。


「それじゃ、帰ろうか」


 真紀はそっと俺の手をとり、家の方向へと歩き出した。手から伝わる彼女の温もり。俺は胸の中に温かい感情が広がっていくのを感じた。




「また明日ね」


 家に着くと、真紀は最後に振り返り、もう一度微笑んで手を振った。その姿は、夕暮れの中で輝いて見えた。


「ああ、また明日な」


 俺も手を振り返し、その瞬間が永遠に続けばいいと思った。


 夕方の風が、花を散らせた桜の葉の音を奏でていた。

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