第46話 浅草、其ノ二
和菓子を食べ歩いた後、俺たちは
『あさくさでら』ではない。『せんそうじ』だ。
寺の名前は慣習として音読みで読むことが多い。
浅草寺は仲見世通りの奥、雷門とは逆の方にある。
俺はクロエの手をしっかりと握り、人がごった返している参道を歩いていく。
参道には、さまざまなお土産屋や露店が立ち並び、多くの観光客や地元の人々が行き交っていた。俺とクロエはその様子を楽しそうに見つめながら、まるで小さな冒険をしているような気持ちで歩いていた。
「この雰囲気、すごく好きです。まるで古い日本の映画の中にいるみたい」
クロエの言葉に、俺は微笑んだ。浅草の歴史的な風景と、彼女の新鮮な感動が相まって、俺自身もワクワクしていた。
「浅草寺は、この参道をずっと進んだ先にあるんだ。いろいろな店があって目移りしちゃうけど、まずはお参りしようか」
俺がそう提案すると、クロエは頷き、さらに手を強く握りしめた。その握力から、彼女の少しの緊張と期待が伝わってきた。
浅草寺に近づくにつれ、人々のざわめきが一段と増していく。境内には、参拝客や観光客が溢れ、伝統的な建物が静かにその場を見守っているようだった。巨大な本堂が姿を現すと、クロエは思わず足を止め、その壮大な光景に見入っていた。
「すごい……日本の寺院って、本当に美しいですね」
クロエの声には、畏敬の念が込められていた。彼女の目には、浅草寺の荘厳さと歴史が映り込んでいるようだった。
「そうだね。この寺は、約1400年の歴史があるんだ。日本の伝統と文化を感じられる場所だよ」
俺が説明すると、クロエは真剣な表情で頷いた。
「歴史がある場所……素晴らしいですね。ヒロキと一緒に来られて、本当に嬉しいです」
彼女の言葉には、純粋な感謝が込められていて、俺はその気持ちに応えるように笑顔を返した。
「じゃあ、お参りしようか」
俺たちは浅草寺の本堂へと足を進め、手水舎で清めた後、お賽銭を入れて手を合わせた。クロエは真剣な表情で何かを祈っているようだった。その姿を見て、俺も自然と心が静まり、深く息を吸い込んだ。
「クロエ、何をお願いしたの?」
俺が尋ねると、クロエは少し照れたように微笑んだ。
「内緒です。でも、とても大切なお願いごとをしました。……ヒロキは?」
「俺は……クロエが日本で楽しく過ごせるようにって」
俺がそう言うと、クロエは驚いたような顔をして、それから優しい笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。ヒロキがいてくれるから、私は毎日が楽しいです」
彼女のその言葉に、俺の胸が温かくなった。クロエの純粋な感謝と喜びが、俺の心を満たしていく。
「でも……」
クロエの表情が少しだけ曇った。
「私はキリスト教徒。日本の神様は怒らないでしょうか?」
「ふふ、クロエ。日本の神様は、『八百万の神』といって、あらゆるものに神様がいるという考えなんだ。それで、ほかの宗教の神様、キリストやアッラー、ブッダなんかも同じようにたくさんいる神様の一人で、みんなで仲よくしようっていう考え方なんだ。問題ないよ」
「日本の神様って、日本の神様は、
「何その難しい表現……」
「おばあちゃんが言葉をたくさん教えてくれたんですよ!」
「そ、そう……すごいおばあちゃんだね」
「はい! おばあちゃんはすごいんです!」
参拝を終えた後、クロエと俺はお守りを選びにお守り売り場へと足を向けた。境内には色とりどりのお守りが並べられており、その中でもひときわ目を引くのが「縁結びのお守り」だった。
「ヒロキ、これ見てください。とても綺麗なお守りですね」
クロエが手に取ったのは、白地にピンクの桜の模様が施された縁結びのお守りだった。そのお守りは、可愛らしくもあり、どこか神聖な雰囲気を漂わせていた。
「これは縁結びのお守りだね。恋愛運が上がるって言われているんだ」
俺がそう説明すると、クロエはさらに興味を示した。
「それなら、ぜひ一つ買いたいです。ヒロキと素敵なご縁が結ばれるように」
クロエは少し頬を赤らめながら、真剣な顔でそう言った。その言葉に、俺の心臓が一瞬ドキリと跳ねた。彼女の率直な気持ちが、まっすぐに伝わってくる。
「そ、そうだね。それじゃ、一緒に買おうか」
俺が少し照れながら言うと、クロエは嬉しそうに笑った。
「はい! 私たちお揃いでお守りを持ちましょう!」
クロエの提案に、俺は頷き、二人で縁結びのお守りを購入した。それぞれのお守りを手に取った瞬間、クロエはじっとそれを見つめ、深い思いを込めているようだった。
「これで、もっとヒロキと一緒にいられるといいのですが……」
彼女の呟いたその言葉に、俺は何も言えず、ただその場で微笑み返すことしかできなかった。クロエがどれほど俺を大切に思ってくれているのかが痛いほど伝わってきて、言葉にできない感情が胸に押し寄せてくる。
「クロエ…ありがとう。またこうやって、一緒に出かけたりしよう」
俺は思わず彼女の手を取った。その瞬間、クロエは驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。
「はい。 何度だってこうやってお出かけしたいです」
嬉しそうな彼女の言葉が胸に染み渡り、二人の間に流れる穏やかな空気が、まるで浅草寺の静寂と調和しているかのようだった。
浅草寺を後にし、再び仲見世通りに戻った俺たちは、まだ少し歩き足りないような気がして、さらに散策を続けた。賑やかな通りを進むと、クロエがふと立ち止まり、甘い香りに引き寄せられるように小さな甘味処を見つけた。
「ヒロキ、あそこに見えるお店、なんだか美味しそうですね」
彼女が指さしたのは、昔ながらの趣が漂う甘味処だった。店先には「ぜんざい」の看板がかかっていて、クロエの興味を引いたようだ。
「ぜんざいだな。お、お茶も出してくれるみたいだ。少し休憩していこうか?」
「はい、ぜひ!」
クロエの返事に促され、俺たちは店内に足を踏み入れた。店内は木のぬくもりを感じさせる落ち着いた空間で、外の喧騒が嘘のように静かだった。奥にある窓際の席に座ると、外の景色がほんのりと見えて、まるで別世界にいるような感覚が広がる。
「何にする?」
「私は、ぜんざいとやらを食べてみたいです」
「それじゃ俺はお茶にしようかな。お、色々種類があるのか」
俺は悩んだ末に、奮発して玉露を注文した。
しばらくして運ばれてきたぜんざいは、甘い香りがふわっと広がり、温かい湯気が立ち上る。もちもちのお餅と、やわらかい小豆がたっぷりと入っていて、見た目にも食欲をそそる。
「すごく美味しそうですね!」
クロエは嬉しそうに声を上げ、さっそくスプーンを手に取った。彼女は一口ぜんざいを口に運ぶと、目を閉じてその温かさを楽しんでいる。
「温かくて、すごく優しい味がします。この甘さ、心がほっとしますね。ヒロキもどうぞ」
彼女の幸せそうな表情を見ていると、俺も自然と笑みがこぼれる。俺もぜんざいを一口食べてみた。甘さ控えめの小豆とお餅の組み合わせが絶妙で、口の中に広がる和の味わいが体を芯から温めてくれる。
「ほんとに美味いな。こういう場所で食べると、ぜんざいがさらに美味しく感じる」
そう言うと俺は玉露を一口、口に含む。
豊かな香りと茶葉の甘みが心地よい。
「うん、お茶も美味しい。クロエもどうぞ」
「はい、ありがとうございます……これは美味しいお茶ですね!」
「玉露って言ってな。最高級のお茶なんだぜ」
「これは驚きました。こんなお茶があるのですね」
俺たちはお互いに玉露とぜんざいを楽しみながら、しばしの休憩を取った。クロエは一生懸命食べていたが、ふとお腹を押さえながら微笑んだ。
「少し食べ過ぎちゃったかもしれません。でも、全部とても美味しかったです」
俺もお腹が少し重たくなっているのを感じながら、彼女に微笑んで返した。
「今日は色々食べたもんな。でも、こうやってのんびりするのも悪くない」
二人でゆっくりとした時間を共有しながら、店内の静かな空気の中でリラックスしたひとときを過ごした。
食べ終わって一息ついた後、クロエは店内に飾られている和風の小物に目を向けた。色とりどりの扇子や、季節感あふれる手ぬぐいが棚に並んでいるのが目に入る。
「ヒロキ、あの扇子や手ぬぐい、とても素敵ですね」
クロエは興味津々に棚に近づき、美しい模様が描かれた扇子を手に取った。彼女の顔に、和の文化に触れる喜びが溢れていた。
「本当だ。浅草らしいデザインだし、クロエに似合いそうだ」
俺も扇子を手に取り、その繊細な作りに感心する。独特な香りが鼻をくすぐる。クロエは扇子を広げて、軽く顔に風を送りながら、その美しさを楽しんでいる様子だ。
「でも、もう少し色々見て回ってから、どれを買うか決めますね」
「そうだな。いろんなお店があるから、じっくり選んでいこう」
俺たちは甘味処を後にし、再び仲見世通りを歩き始めた。
少し食べ過ぎたかもしれない。
二人ともちょっと歩きたい気分だった。
仲見世通りを再び歩き始めた俺たちだったが、空が少しずつ暗くなり、ぽつりと雨粒が落ちてきたことに気づいた。クロエが空を見上げ、少し不安そうな表情を浮かべる。
「雨が降ってきましたね」
「ほんとだ。少し降りが強くなりそうだな。どこかで雨宿りしようか?」
「はい、そうしましょう」
俺たちは慌てずに、近くの軒先に避難することにした。雨はじわじわと強くなり、通りは次第に傘を広げる人々で溢れていく。俺たちは並んで雨宿りをしながら、再び仲見世通りを見渡した。
「ちょっと残念ですね。せっかくのデートが雨で中断されてしまうなんて…」
クロエが少し肩を落としながら言った。その言葉に、俺は少し微笑んで答えた。
「まあ、これも思い出になるさ。それに、雨の浅草も風情があっていいだろ?」
「……そうですね、和傘をさしている人もいますし、よく見ると良いものですね」
クロエが興味津々な表情で通りを見つめる。
「だろ? さてと、それじゃお土産選びをしようか」
「はい」
「とりあえず、あそこの店内を見てみないか?」
クロエの表情が明るくなり、俺たちは近くの軒先にあったお土産屋に足を踏み入れることにした。
店内は和風の小物や、様々な伝統的なお土産が所狭しと並んでおり、クロエは目を輝かせて品物を眺めていた。
「ヒロキ、これなんてどうですか?」
彼女が手に取ったのは、色とりどりの手ぬぐいだった。桜の花びらや、富士山の柄が美しく描かれており、どれも日本らしいデザインだ。
「綺麗だな。クロエのお祖母さんへのお土産にも良さそうだ」
「そうですね! おばあちゃんもきっと喜んでくれると思います」
クロエは満足そうに微笑みながら、手ぬぐいを手に取る。その姿を見て、俺も自然と微笑んでしまう。
「それから…この扇子も素敵ですね」
彼女が次に手に取ったのは、朝見つけたものとはまた違う、少し大人っぽいデザインの扇子だった。金魚が涼しげに泳ぐ柄が描かれており、触り心地も優雅だ。
「これ、きっとおばあちゃんが使っても似合うと思います」
「うん、いいんじゃないか? クロエにも似合いそうだし」
クロエは扇子を少し広げて、自分の顔に軽く風を送りながら、楽しそうにしていた。俺はその光景を見て、彼女の祖母への想いが伝わってくるようで、胸が暖かくなった。
「ありがとう、ヒロキ。じゃあ、これを買いますね」
クロエが手ぬぐいと扇子を手に、レジへ向かう姿を見送りながら、俺も少しだけ感慨深い気持ちになった。彼女の祖母への愛情や、日本文化に対する興味が、こうして形になる瞬間を目の当たりにできるのは嬉しいことだった。
浅草を出て、クロエを住まいまで送り届ける頃には、夜の静寂が街を包み込んでいた。フランスから連れてきたお婆さんと一緒に暮らすマンションは、静かな住宅街の一角にあり、周囲には少しばかりの緑があった。
「ヒロキ、今日は本当に楽しかったです」
クロエが俺の方に向き直り、少し寂しそうに微笑む。その笑顔には、彼女の奥底にある複雑な感情が見え隠れしていた。彼女にとって、俺との時間がどれだけ大切なのかを改めて感じさせられる瞬間だった。
「俺も楽しかったよ、クロエ。浅草は初めてだったけど、君と一緒に来られてよかった」
クロエの瞳が輝きを増す。それはまるで、俺が彼女の存在を認めたことへの喜びが滲んでいるかのようだった。
「でも…」
クロエが少し言い淀む。彼女の視線が俺の胸元に向かい、その瞳には少しの不安が宿っている。
「でも、私はまだ……ヒロキの心を掴めていないのかも、って思ってしまうんです」
その言葉は、まるで胸を締め付けられるような重みを持っていた。クロエはフランスからわざわざ日本に来て、俺に選ばれるために努力を続けている。俺の心に届いていることは確かだが、それでも彼女には不安があるのだ。
「クロエ……」
俺が彼女に何か言おうとするが、その言葉はなかなか出てこない。俺は、彼女が俺に抱く想いを知っている。それでも、今すぐに答えを出すことができない自分に、少しばかりの苛立ちを感じていた。
「ヒロキに私の事を好きになってもらいたいです。ですが……」
クロエの言葉には、純粋な想いと、切実な願いが込められていた。その気持ちに応えることができるのか、俺の胸の中で葛藤が渦巻く。
「クロエ、君の気持ちは伝わっているよ。でも……」
俺が言葉を続けようとするが、クロエは優しく俺の言葉を遮った。
「わかっています、ヒロキ。美玖さんや真奈美さん、真紀さん、薫さん。皆さんがあなたを大切に想っていることも。だからこそ、私はもっと頑張らなくちゃいけないんです」
クロエの瞳が真っ直ぐに俺を見つめている。その瞳には、彼女の決意と覚悟が滲んでいた。彼女は俺に選ばれるために、自分ができる限りのことをしようとしているのだ。
「ヒロキ……私、あなたのことが本当に好きです。もっとあなたのことを知りたいし、もっとあなたと一緒にいたい。だから……」
彼女の声が少し震えている。
「クロエ……君の気持ちは、本当に嬉しいよ。俺も、君のことをもっと知りたいと思ってる」
俺はそう言いながら、クロエの手をそっと握った。その瞬間、彼女の瞳が少しだけ潤んだように見えた。彼女の温もりが、手から伝わってくる。
「本当に……ありがとうございます、ヒロキ」
クロエが少しだけ背伸びをして、俺の唇に軽くキスをした。その仕草は愛らしくもあり、同時に彼女の強い想いを感じさせるものだった。
「な……」
「おばあちゃんが待っていますので、もう帰りますね。……またこうやってデートできますか?」
クロエの声は小さく、どこか不安げだった。彼女が俺との時間を少しでも長く共有したいという気持ちが伝わってきた。
「ああ、もちろん」
「ありがとうございます。それだけで、私は十分です」
クロエは微笑んで、再び俺の手を握りしめた。その手の温もりが、俺の心を包み込むように感じられた。
「それでは、さようなら、ヒロキ」
クロエは名残惜しそうに手を離し、マンションの扉を開けた。その姿が消えていくと、俺は一人で夜の静寂に包まれた街を歩き出した。
クロエの想いが胸に響き、彼女がどれだけ俺のことを大切に思ってくれているのかを改めて感じた。
彼女はどんな思いで日本に来たのだろうか。おそらく簡単な話では無かったはずだ。日本語を学び、受験勉強をして、両親や祖母を説得し、複雑な手続きをして俺の元に来てくれた。
その思いに答えてあげたいという気持ちは当然ある。
だが、それと同時に、俺が誰か1人を選ばなければならない現実も重くのしかかってきた。
夜空を見上げると、雲間から星が顔を出していた。俺はその星を見つめながら、これからの自分に何ができるのかを考え続けた。
「クロエ……」
その名を静かに呟き、俺は彼女との甘い一日の余韻に浸りながら、家路へと向かった。
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