第40話 アイドル

 次の日、朝靄あさもやの中を歩いて学校に向かう。桜の花びらが舞う中、新しい制服の感触を楽しみながら校門をくぐる。

 今日から本格的に学校生活が始まる。

 しかし、その期待に胸を膨らませて教室に入ると、何やら騒然とした雰囲気が漂っていた。

 窓際に立つ佐竹に声をかける。朝日が彼の横顔を照らし、何か特別な日の予感がする。


「ヨッシー、おはよう! 随分騒がしいけどどうしたんだ?」


「おはようヒロ! それがさあ、中学校の方に、ガチのアイドルが転校してきたんだってよ。それも、『ベイビーフェイス』の『KAORU』だっていうんだぜ。こういうのに疎いお前でも知ってるだろ?」


 佐竹が興奮するように言った。教室中がざわめき、みんなの顔に好奇心が浮かんでいるのが見て取れる。


 確かにそれなら知っている。あまり詳しくは知らないが、たしか高校生と中学生で構成される6人組のアイドルユニットだ。その中でもKAORUは最年少ながら歌も踊りも抜群で、センターを務める曲も多いらしい。最近じゃCMにも出ていたな。

 そういえば、このアイドルグループも前の人生の記憶では5人グループだったような?

 正直、前回も今回もアイドルに興味はなかったので曖昧な記憶だが。


「あ……」


 突然、昨日の記憶が蘇る。ファミレスの窓から見た中学生の姿が、鮮明に脳裏に浮かんだ。


「どうしたヒロ?」


 佐竹が不思議そうな顔で俺を見つめる。


「俺その子見たわ。昨日」


 そう、昨日ファミレスの窓から見た子だ。間違いない。あの驚いた表情、どこか見覚えのある雰囲気。


「マジか!?」


「……けどなんでだ?」


 そう、何故俺と目が合って驚いていたんだろう?

 あれか。

 お忍びだったから見つかって驚いた、とかそんな感じかな?


 しかし、直近に悩み事が増えてしまっていた俺は、それ以上深く考えないようにした。頭の中は既に4人の女の子たちのことでいっぱいだ。


Salutサリュ、ヒロキ!」


 クロエの明るい声が、俺の思考を中断させる。振り返ると、彼女の笑顔が朝の教室に華を添えている。


「おはよう、クロエ」


 Salut(サリュ)とは、ボンジュールより距離が近い感じの挨拶だ。

 日本語で言うなら、ボンジュールが「おはようございます」、サリュの方が「おっはよー」と言う感じで、かなりカジュアルな挨拶だ。彼女との距離感を感じさせる言葉選びに、少し戸惑いを覚える。


「今日から授業ですので、分からない所があったらよろしくお願いしますね」


 クロエの声には、期待と少しの緊張が混ざっている。


「ああ、任せろ」


 俺が答える間もなく、ガラッと扉を開けて美玖が入ってくる。その姿は、まるで春風のように教室に新しい空気を運んでくる。


「おはよーヒロっち!」


 美玖の声には、いつもの明るさがある。だが、その目には昨日の話の余韻が僅かに残っているようだ。


「ああ、おはよう、美玖、真奈美」


「おはよう、宏樹」


 真奈美も一緒だった。彼女の落ち着いた様子は、いつもと変わらない。しかし、俺に向ける視線には、昨日までとは違う何かが宿っていた。


「真奈美も一緒だったか」


「ええ、ちょうど校門のところで会ったのよ」


 真奈美の声には、何か言いたげな響きがある。


「あ、ヒロ! おはよう! もう、先に来てたんだね」


 続けて真紀もやってきた。彼女の声には、少し責めるような調子が混じっていた。


「家に迎えに行ってもいないんだもん。今日から一緒学校に行けるって思ってたのにさ」


 真紀の言葉に、俺は少し申し訳なさを感じる。そうか、また真紀と一緒に通う事になるのか。そう考えると少し懐かしく感じた。


「ああ、悪い、何も気にせず家出ちまったわ」


「いいよ、明日からは一緒に行こうね!」


 真紀がチラリと他の三人を見てから言った。


「ちょ!? それズルくない!?」

「そうです、ズルいです!」

「ええ、ズルいと思うわ」


 他の3人が一斉に抗議の声を上げる。


「幼馴染の特権ですー!」


 真紀が得意げに宣言する。その表情には、少女らしい無邪気さと、恋する乙女の狡猾さが同居していた。


「「「くっ……」」」


 3人が唇を噛む。その表情には、悔しさと焦りが浮かんでいた。


「ところで、何か教室が騒がしいようですが……」


 クロエが周囲の様子を窺いながら尋ねる。


「ああ、なにやら中学校にアイドルが転入してきたそうでな。その話題で持ちきりなんだよ」


 俺は簡単に状況を説明した。


「へー、何て言う子?」


 美玖が興味を示した。好奇心で目が輝いている。彼女はこういった話題が大好物なのだ。


「ベイビーフェイスの『KAORU』だってさ」


「えええ!? マジ? ガチでメジャーなアイドルじゃん!」


 俺が答えると、美玖の驚きの声が教室に響き渡る。周りの生徒たちも、その反応に同意するように頷いている。


「あまりアイドルに興味のない私でも知ってるわ」


 真奈美が冷静に言う。だが、その声にも少しばかりの興奮が混じっているように聞こえる。


「有名人なんですね」


 クロエだけは全く興味のない様子だった。フランスから来たばかりの彼女にとって、興味が無いのは当然だろう。


「あ、でも、テレビで見たけど、何かどこかで見た記憶があるような気がして……」


 真紀が首を傾げながら言う。その表情には、何か思い出そうとする努力の跡が見える。


「え、真紀もそう思うの? 俺もずっと気になってたんだ。どっかで見たことあるような気がするって」


 謎の既視感。

 俺の言葉に、真紀の目が大きく開く。二人の間に、何か共通の記憶が蘇りそうな空気が流れる。


「不思議よね……芸能界に入るような知り合いはいないはずだけど……」


 真紀が顎に手を当てて考え込む。その表情には、謎を解こうとする鋭い知性が光っている。


「はーい、お前ら席に着けー」


 予鈴と共にショーコ先生が入ってきたので、俺たちは各自の席へと戻って行った。


「出欠をとるぞー」


 先生の一声で教室の空気が一変し、新学期の緊張感が漂い始めた。



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 そして午前の授業を終え、昼休み。

 昨日に引き続き、俺は驚くことになる。

 それは、ノートをしまい、カバンから弁当箱を取り出した時。教室の窓から差し込む陽光が、のどかな雰囲気を演出していた。


 ガラッ


 扉が開く音がした。教室がざわざわとしている。

「なんで中学生が?」「あれ、もしかして『KAORU』ちゃんじゃね?」「ホントだ、マジカワイー!」


 生徒たちの興奮した声が教室中に広がる。みんなの視線が、扉の方へと集中する。


「あのっ!」


 中学生が声を上げる。その声は、緊張と決意で少し震えていた。


「西森先輩はいらっしゃいますか?」


 え?

 なぜ俺が指名されるのか分からないが、とりあえず返事をする。周りの視線が、一斉に俺に集中するのを感じる。


「……俺だけど。何か用?」


「あ……本当に………いた!!」


 現役アイドルである『KAORU』の目に、みるみる涙が溜まっていく。その瞳には、驚きと喜び、そして何か言葉にできない感情が渦巻いていた。

「今度はなんだ」「また西森が何かしたのか」

 クラス全体の視線が痛い。俺は居心地の悪さを感じながら、彼女の次の言葉を待つ。

 

 そして彼女はこちらに向かって歩いてくると、丁寧にお辞儀をして言った。その仕草には、芸能人らしい洗練された美しさがある。


「お久しぶりです、西森先輩!

 覚えていないかもしれないけど、ボク、小学校の時、あなたに命を救われた『山下薫』です!

 あの時は本当にありがとうございました!!」


「「えええええええ!?」」


 俺と真紀は驚き、同時に叫んでしまった。教室中が静まり返り、全ての注目が俺たちに集中する。


「あ、もしかしてそちらは北里先輩ですか!?」


 薫の声には、懐かしさと喜びが溢れていた。


「そうだけど、あの、児童会の目安箱の山下君!?」


 真紀の声が震える。その目には、驚きと共に何か複雑な感情が浮かんでいる。


「はい。ああ、もしかして、あの頃は男の子みたいな恰好をしてたから、ボクのこと男の子だと思ってましたか?」


 薫の声には、少し照れくささが混じっている。


「ああ」「ええ、ごめんなさい」


 俺と真紀は同時に謝る。周りの生徒たちの間で、小さなざわめきが起こる。


「あはは、仕方が無いですよ。あの時は、母さんが自分の男が娘に興味を持たないようにって、男の子の振りをさせてたんです」


 薫の説明に、教室中が驚きの声を上げる。その表情には、過去の苦労を乗り越えた強さが見て取れた。


「そうだったのか」


 俺は複雑な思いで答える。過去の記憶と現在の姿が重なり、不思議な感覚に包まれる。


「すっかり染みついちゃって、今でも自分の事をボクって言っちゃうんですけど」


 てへッというような顔をして、ペロッと舌を出す薫。

 「ズキュゥゥゥゥン!」と、何人かの男子のハートが射抜かれた音がした。実際何人かの男子生徒は胸を押さえて倒れている。


「しかし、よくアイドルになれたな」


 俺は素直な感想を口にした。


「それは本当に運が良かったんです。施設の先輩にダンサーの人がいて、その人にダンスを教わることができて、そうしたら、その人の知り合いに歌も教わる事ができて。そうして頑張っていたら、アイドルの話が出てきてやってみないかって。ありえないくらい運が良かったんですよ」


 薫の話す様子は、まるで輝いているかのよう。その目には、夢を叶えた喜びと、これからの希望が溢れている。


「そうか、よかったな……」「ううっ……」


 気付けば俺と真紀は泣いていた。周りの生徒たちも、この感動的な再会に静かに見入っている。


 神様ありがとう。

 ちゃんと山下君、いや山下さんに幸せをくれて……

 良かった……本当に良かった………


 俺達がそうしている間、美玖と真奈美はひそひそと話し合う。二人の表情には、複雑な感情が交錯していた。


(マナミン……また命を救われた女の子が出てきちゃったんですけど)


 美玖の声は小さいが、その中に焦りと不安が混ざっていた。彼女の目は、薫と俺を交互に見つめている。


(でもこれって好きとは違くない?)


 真奈美の冷静な分析が返ってくる。しかし、その声にも僅かな動揺が感じられる。


(でも現役アイドルだよ? ヒロっちの方から好きってなっちゃったら……)


 美玖の言葉には、想像したくない未来への恐れが滲んでいた。教室の喧騒が、二人の密談を周りから隠してくれている。


(それは無いから大丈夫……だとおもう…けど………)


 真奈美の言葉が途切れる。普段の冷静さが揺らいでいるのが見て取れた。


「ほら! マナミンだって自信ないじゃん!」


 美玖の声が思わず大きくなる。周囲の生徒たちが一瞬振り向くが、すぐに薫と俺たちの方に注目が戻る。


(美玖ちゃん声が大きい!)


 真奈美が慌てて美玖を制する。その表情には焦りが浮かんでいる。


「美玖? どうした?」


 俺の声に、美玖と真奈美は飛び上がらんばかりに驚く。


「あ、あはははは、なんでもないよ」


 美玖は慌てて取り繕うが、その笑顔には不自然さが残る。真奈美も、何かを隠そうとするように俯いている。


 クロエは少し離れたところから、この状況を冷静に観察している。その青い瞳には、複雑な感情が宿っている。


「ところで西森先輩」


 薫の声が、再び教室の注目を集める。


「なんだ?」


 俺は少し緊張しながら答える。薫の真剣な眼差しに、何か重要な質問が来るのを予感する。


「この中の誰かとお付き合いしてるとかって、あります?」


 教室全体がシーンと静まり返る。生徒たちの視線が、俺と4人の女の子たちの間を行ったり来たりする。


「い、いや、無いけど……まだ」


 俺は少し慌てて答える。その言葉に、4人の女の子たちの表情が微妙に変化する。


「そ、それじゃ、ボク、立候補しちゃおうかなー…なんて」


 耳の先まで真っ赤にした薫が、超ド級の爆弾を放り込んできた。

 薫の言葉に、教室中がどよめく。「えええ!?」という驚きの声が、あちこちから上がる。


「「「「はぁ!?」」」」


 美玖、真奈美、真紀、クロエの4人が同時に声を上げる。その表情には、驚きと戸惑い、そして明らかな動揺が浮かんでいる。


「だ、ダメですか?」


 上目遣いで俺を見上げる薫。

 再び『ズッキュゥゥゥゥン!』という音がして、また何人かの男子が胸を押さえ倒れた。


 俺の頭の中は、まるで爆発したかのように真っ白になる。目の前で起こっている状況を理解しようとするが、脳が拒否反応を示しているかのようだ。


 周囲の喧騒が遠のいていく。教室の空気が、まるでスローモーションのように重くなる。


 俺の視界の端で、4人の女の子たちの表情が次々と変化していくのが見える。驚き、戸惑い、そして何か言葉にできない感情。それぞれの瞳に、複雑な思いが宿っている。


 薫は、まっすぐに俺を見つめている。その目には、真剣な想いと、少女らしい期待が輝いている。


 教室中の視線が、俺に集中する。まるで全世界が、俺の答えを待っているかのようだ。


 しかし、俺の口からは言葉が出てこない。頭の中で思考が堂々巡りを続け、適切な返答を見つけられない。


 その時、俺の脳裏に、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。中学時代の美玖と真奈美との思い出、幼馴染の真紀との懐かしい記憶、クロエを救った時の緊迫した瞬間、そして今、目の前に立つ薫との再会。


 人生の岐路に立たされているという感覚が、俺を包み込む。


 教室の喧騒が、まるで遠い海の音のように聞こえる。

 窓から差し込む陽光が、俺の目の前でゆらめいているように見える。


 そこで おれの のうみそは、かんがえる ちからを うしなった。

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