第33話 水族館
じりじりと照り付ける日差し、朝からうるさいセミの声。
うんざりするような環境なのに心は軽やかで、翼が生えたかのような自由を感じる。
そう、学生の特権、夏休みに突入したのだ。
大人になって初めてありがたさが分かったが、時すでに遅し。
もう一度夏休みのある人生、なんと素晴らしい事だろうか。
その初日、俺こと西森宏樹は、午前中の部活を早めに終えた後、シャワーを浴び、いつもより念入りに身支度を整えていた。
今日は、真奈美とデートの日だ。
先日、美玖とデートに行ったことに対して、真奈美がズルいズルいと異議申し立てをして実現に至ったのだ。
約束の時間の15分前、俺は待ち合わせの駅に到着した。改札口の前で落ち着かない様子で左右を見渡す。真奈美の姿はまだない。
「ちょっと早く来すぎたか……」と呟きながら、駅の大きな時計を見上げる。
ベンチに腰かけて真奈美を待つ。
照りつける太陽に、行き交う人々も汗を流している。
「スマホが無いってマジで不便だな」
つぶやいた瞬間、背後から声がした。
「何が無いと不便ですって?」
振り返ると、そこには真奈美の姿があった。白のワンピースに麦わら帽子という夏らしい装いで、涼しげな佇まいだ。艶やかに輝くミディアムボブの黒髪には、今日はクジラのヘアピンを差している。水族館を意識したものだろう。
そう。今日の行き先は水族館。八景島にあるシーユートピアだ。
「こんにちは、宏樹。待たせちゃってごめんね」
真奈美の声には、少し緊張した様子が混ざっている。
「よう、真奈美。俺も今来たところだよ」
定型文のやり取りをしながら、俺は微笑みを返す。真奈美の笑顔に、朝からの緊張が少し和らぐ。
「……そのワンピース、真奈美にすごく似合ってる。清楚な感じが引き立つって言うかさ。クジラのヘアピンも可愛いね」
言葉を選びながら褒めると、真奈美の頬が僅かに赤くなる。
「あ、ありがと……宏樹もカッコいいよ」
真奈美の声が少し上ずっているのが分かる。
「うん、ありがとう。 じゃあ、電車に乗ろうか」
「ええ、楽しみね」
二人で改札を通り、ホームに向かう。電車に乗り込むと運よく二人分の席が空いていた。密着するように座席に腰掛けると、ふわりといい香りがした。この女性から香るいい匂いって何なんだろうな?
ふと、真奈美が大きめのバッグを膝の上に置いているのに気づく。
「そのバッグ、結構大きいね」
「あ、これはね…」
真奈美は少し照れたように言葉を濁す。
「後で教えるね」
その言葉に少し好奇心をそそられつつ、水族館までの道のりを楽しむ。車窓から見える景色が少しずつ変わっていく様子に、これから始まる一日への期待が高まっていく。
「ねえ、宏樹は八景島シーユートピア、行ったことある?」
真奈美の問いかけに、俺は首を横に振る。
「小さい頃に一度。
らしいんだけど、でも全然覚えてないよ。だから初めてみたいなもんだ。
真奈美は?」
「私は初めて。だから今日はすごく楽しみなの」
そう言って笑う真奈美の横顔を見ていると、俺の心臓がほんの少し早く鼓動を打つ。
精神が体や環境に引っ張られているのだろうか。
先日の美玖の件から、簡単にドキドキし過ぎな気がする。
電車の中では、学校での出来事や友達との思い出話に花が咲く。普段はあまり深く話さない内容まで、非日常的な空間のせいか、スムーズに言葉が出てくる。
「あのね、宏樹」と真奈美が少し声を潜める。
「実は今日、お弁当を作ってきたの。少しは料理番さんに手伝ってもらったんだけど、ほとんど手作りよ。向こうに着いたら食べましょう?」
その言葉に、俺は驚きと嬉しさを隠せない。
「マジで? わざわざありがとう。楽しみだな」
真奈美の気遣いに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「八景島、まもなく八景島です。お出口は左側──」
車内アナウンスが流れ、二人は立ち上がる。
「着いたね。あ、それじゃお弁当は俺が持つよ」
「ありがとう」
「それじゃ行こうか!」
手を差し出すと、真奈美は「え?」という顔をする。
だが、それは一瞬で、照れた表情で恐る恐る俺の手を取る。
俺は少しぎゅっと握って真奈美を引っ張ると、「きゃっ」と可愛い声を上げた。
駅を出ると、すぐに海の匂いが鼻をくすぐる。遠くにシーユートピアの大観覧車が見える。
「すごい。水族館なのに観覧車もあるのね」
「ああ、ワクワクしてきたな!」
入場口に着くと、すでに多くの人で賑わっていた。家族連れや若いカップルが目立つ。俺たちは学割でチケットを購入し、いよいよ館内へ。
「どこから回ろうか?」と尋ねると、真奈美は迷わず答えた。
「最初はマリンミュージアムがいいな。海の生き物を見るの、楽しみ!」
その提案に頷き、二人でマリンミュージアムへ向かう。今度は自然に手を繋いで歩き出す。入り口を過ぎると、涼しい空気と独特の海の匂いが僅かに漂う。人工的な空調の音と、どこかで流れているクラシック音楽が耳に入る。
大きな水槽の前で立ち止まると、真奈美の目が宝石のように輝いた。
「わぁ、綺麗…」
色とりどりの熱帯魚が泳ぐ光景に見入る真奈美。その横顔を見ていると、俺の心臓がまたしてもドキドキと鳴る。マジで俺はどうしちまったんだろう。
「ねえ、宏樹。あのオレンジ色の魚、かわいい! なんていう名前かな?」
真奈美が指さす方向を見ると、鮮やかなオレンジ色の体に白い縞模様を持つ魚が泳いでいた。水槽の中を優雅に泳ぐその姿は、まるで海中のバレリーナのようだ。
「たしか、カクレクマノミっていうんじゃないかな。テレビとかで見たことがある気がする」
答えながら、頭の中で「ファイティング・ネモ」という映画のタイトルが浮かぶ。しかし、その映画はまだこの時代には存在しないはずだ。40代の記憶と現在の時間軸の狭間で、一瞬戸惑いを覚える。
「へぇ、やっぱり宏樹は博識だね」
真奈美の褒め言葉に、少し照れくさくなる。彼女の瞳に映る自分の姿を想像すると、妙な気恥ずかしさを感じた。
展示を巡るうちに、二人の会話も自然と増えていく。真奈美とこんなに話すのは初めてかもしれない。割と一緒にいるのに、彼女について知らない事は、意外とたくさんあった。
「「わぁ」」
大きなアクリルトンネルに入ると、頭上を魚たちが泳いでいく。その神秘的な光景に、思わず二人で声を上げてしまった。
「宏樹、見て!サメだよ!大きい……」
真奈美が興奮した様子で指さす。確かに、優雅に泳ぐサメの姿が見える。その大きな体が、静かに水を切って進んでいく様子は、畏怖の念さえ感じさせる。
「本当だ。でも怖くない?」
「ううん、むしろかっこいいと思う。ねえ、一緒に写真撮ってもらわない? 『撮るんです』持ってきたんだ」
「へぇ、な……げふん。いいね!」
危うく「懐かしい!」と叫ぶところだったぜ。真奈美が手にしていたのは小型のフィルム付きインスタントカメラだ。この時代では、デジカメの性能は低く、まだまだ高価だったんだよな。
近くにいた他の来場者に頼み、背景にサメが映るように二人で写真を撮ってもらう。その瞬間、肩が触れ合い、お互いの耳がほんのりと赤くなる。カメラのシャッター音と共に、この瞬間が永遠に残されたような気がした。
「現像したら、良いの選んで焼き増ししておくね」
「ああ、お願いするよ。真奈美の方が選ぶセンスが良さそうだしね」
そう言いながら、スマートフォンで簡単に写真を共有できる未来のことを思い出す。あっちの世界では、撮ってすぐに確認して『LIMEで送るねー』で終わりだ。しかし、この時代でしか味わえない特別な感覚はとても懐かしく、ワクワクしてくる。それは40代の意識を持つ自分だからこそ、より深く感じ取れる喜びだった。
マリンミュージアムを出ると、すっかり昼時になっていた。館内の冷涼な空気から一転、外に出ると夏の陽射しが容赦なく降り注ぐ。汗が滲み出てくるのを感じる。
「お腹空いたね」と俺が言うと、真奈美は首を縦に振る。
「あそこの噴水のそばにベンチがあるわ。そこで食べましょう?」
「おぅ、そうしよう! 楽しみにしてたんだ」
二人で噴水のそばまで行くと、記念に写真を撮ってからベンチに腰を下ろす。真奈美がバッグからお弁当箱を取り出して二人の膝の上に並べる。
ふたを開けるとそこには何とも美味しそうな、色とりどりのおかずが並んでいる。
「すごいな……」
思わず素直な言葉が漏れる。
「はい、宏樹」
真奈美がおにぎりを取り出して手渡してくる。
「わあ、すごく美味しそう。これ真奈美が作ったの?」
「うん。この唐揚げだけ料理番さんに揚げてもらって、あとは私。教えてもらいながらだけど、頑張って作ったんだよ」
俺は感動しながら、真奈美の手作りおにぎりを口に運ぶ。
「うまい! これ、おかかだよな。醤油の加減もちょうどいいよ」
「よかった。でもそんなに褒められると照れちゃうよ。おにぎりくらい誰でも作れるでしょ?」
「真奈美のは何が入ってるの?」
真奈美は一口かじってみせると、「明太子!」と言った。
「明太子! 俺好きなんだよなー。一口ちょうだい!」
俺はそう言って口を開けた。
「え? え?」
突然の「あーん」の要求に真奈美は顔を赤くしていた。が、恐る恐るおにぎりを差し出してくる。
俺は差し出されたおにぎりを一口かじると、「うまい!」と言って俺のおにぎりも差し出す。
「真奈美もどうぞ」
「あぅ……」
ぷしゅーと音を立てて湯気が幻視できるほど顔を赤くした真奈美が、俺の差し出したおにぎりを食べる。
「美味しい?」
「はい、おいしいでしゅ……」
やり過ぎたかな、と少し反省する俺。
近くを通った大学生カップル風の二人が、こちらを見て微笑んでいる。
やはり初々しいカップルはいつの時代も『尊い』のだろう。
食事を終え、次はさざなみラグーンへ向かう。丁度良いタイミングだったので、イルカやアシカのショーを観覧し、真奈美が歓声を上げる度に、俺も自然と笑顔になる。
「宏樹! イルカと一緒に写真撮りたい!」
真奈美の提案に乗り、二人でイルカとの記念撮影に挑戦した。緊張した顔つきの真奈美。係員さんに促され、イルカの背びれに触れた瞬間、イルカが水しぶきを上げた。
「きゃっ、冷たい!」
真奈美が俺にしがみつく。その仕草に、俺の心拍数が急上昇する。
俺は一体どうしたというのだろうか。
途中、お土産売り場を見つけ、二人で入る。
可愛いぬいぐるみがたくさんある中、真奈美が気に入ったのはチンアナゴだった。その奇妙な形のぬいぐるみを真奈美が両手で抱えて、嬉しそうに笑っている。
「……なんだ、これが欲しいのか?」
「だって可愛いんだもん!」
俺がひきつった笑みを浮かべると、察したのか真奈美は頬をふくらませた。
真奈美の好みが若干わからなくなった。
「どうしよう、本当に買っちゃおうかな……」
「なあ、これ、初デートの記念にしようか?」
目を見開いて驚く真奈美。
そういうのは頭になかったようだ。
頬を赤らめて頷く真奈美。
「うん、それじゃ買ってくるよ」
レジに向かおうとすると、はっとした表情の真奈美に腕を掴まれる。
「待って。もしかして美玖ちゃんとも記念に何か買った?」
妙に慣れている俺に不信感を持ったのか、真奈美が聞いてくる。
相変わらず勘が鋭い……
「はい……買いました」
「何を買ったのかしら?」
「ワンピースとTシャツをお互いに買って、交換しました……」
「なるほど。それじゃ、私たちも交換するわよ……
でも、うーん……まだ何かありそうね?」
真奈美は俺の表情をじっくりと観察している。
俺は気を付けの姿勢で下を向いてこう言うしかなかった。
「はい、おそろいのブレスレットを買いました」
「よろしい。正直が一番よね」
全てを白状させられた俺は、チンアナゴとペンギンのぬいぐるみを交換し、おそろいのイルカのキーホルダーを購入するのだった。
ペンギン……どこに置こうかな………
夕暮れ時、最後の目的地としてシー・ユートピアタワーに向かう。エレベーターで展望フロアまで上がると、目の前に広がる絶景に息を呑む。
「すごい……」真奈美が小さく呟く。
夕日に染まる海と島々の風景が、まるで絵画のように広がっている。
「ねえ、宏樹」
真奈美が俺の方を向く。夕陽に照らされた彼女の横顔が、今までで一番綺麗に見えた。
「今日は本当に楽しかった。ありがとう」
その言葉に、俺も心からの笑顔を返す。
「俺こそ。真奈美と来れて良かった」
二人の視線が重なり、そのまましばらく見つめ合う。心臓の鼓動が激しくなり、思わず顔を近づけていく。
そして、予想もしなかった展開。
真奈美の方から俺の首に腕を回し、唇を重ねてきた。柔らかく、甘い唇の感触。それは刹那。けれど時が止まったかのような瞬間。
キスが終わると、真奈美が赤面しながらもやわらかく微笑む。
「ファーストキスだよ」
「真奈美…」
言葉につまる俺。真奈美は人差し指を立てて俺の唇に触れさせる。
「後3回残ってる、でしょ?」
その言葉に、少し切なさを感じながらも、俺は苦笑いをする。
「うん、分かってる。中学の間は付き合えないんだよね。
でも、私のこの気持ちは本物だよ。だから諦めない。
高校に入る前に宏樹の方から告白させてやるんだから」
ふふふ、と笑う真奈美。
「俺から告白、か」
「そう! ごめんなさい、好きになっちゃいましたって。
そしたらね、振ってあげる。
もう遅いよ、ってね」
「おいおい……」
俺が困った表情をすると、真奈美はにやりとした。
「嘘だよ。
だって、宏樹の方から告ってくれたら、絶対OKしちゃうもん」
舌を出してベーッとする真奈美。彼女のリアクションを見ながら、胸の鼓動は高鳴るばかりだ。
二人で再び夕陽を眺める。この瞬間が、永遠に続けばいいのに、などと思ってしまう。
帰り道、電車の中で真奈美が俺の肩で眠ってしまった。その寝顔を見ながら、今日一日の出来事を思い返す。
真奈美……そして美玖……
俺は……
このままでは本当に、落とされちゃうかもしれないな……
『中学生相手に、40過ぎのオッサンが何をやっているんだ』
そんな思いはどんどん小さくなっていく。
体は中学生なんだ。その現実に心が引っ張られていくのを感じていた。
電車が揺れ、真奈美の頭が少し傾く。無意識に、その頭を優しく支える。
間もなく駅に着く。
軽くゆすって真奈美を起こした。
「ん…あれ、着いちゃった?」
寝ぼけ眼でそう言う真奈美の表情が愛おしい。
真奈美は遠慮したが、家の前まで送る事にした。
「今日は楽しかった」
「ああ、最高の一日だった」
真奈美は上目遣いでチラチラとこちらを見ている。
これはキスをご所望かな?
距離を詰めて瞳を見つめる。
「ねぇ、美玖ちゃんとも……あの……さっきみたいな感じでキスをしたの?」
俺はその答えを教えるために、真奈美の顎を持ち上げ、顔を近づけていく。
真奈美は驚いた表情をした後、ゆっくりと目を瞑った。
唇と唇が合わさると、俺は舌で真奈美の唇をノックして、ゆっくりとこじ開けていく。
つながった口腔内で絡まる舌。
恐る恐るだった真奈美も、次第に大胆になって行く。
「ぷはぁ……」
苦しくなってきたのか、呼吸のために唇を離す。
繋がっていた証の銀糸が消えていく。
「宏樹ぃ……」
彼女の目は完全にとろけていた。
そんな彼女を抱きしめると、体重を完全に預けてきた。
「これ、むりだよお……
こんなキス、後2回もしたら、絶対どうにかなっちゃうよお……」
真奈美が動けなくなってしまったので、しばらく抱きしめて支えた。
しばらくすると、門が開いて伊藤さんが顔を出した。
「お帰りなさいませ、お嬢様、西森様」
伊藤さんの登場に、あわてて離れる真奈美。
「そ、それじゃ、宏樹。今日はありがとう。バイバイ」
真奈美が名残惜しそうに手を振り家の方に歩いていくと、伊藤さんが俺に耳打ちをした。
「西森様、門の前はセンサーになっておりまして、カメラで丸見えでございます。次回は場所を変えてお願いいたしますぞ」
俺は、漫画なら間違いなく『ボンッ』と音を立てて、今日一番の赤面をするのであった。
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